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小さな嘘と、温かい食卓

第2話 小さな嘘と、温かい食卓


 少年の歩く速さは、さっきまでとはまるで違っていた。


 逃げるときにはあれほど素早かったのに、今は二、三歩進むたびに振り返る。エリシアに連れられているのがよほど落ち着かないらしい。


「ねえ。さっきから何回振り返るつもり?」


「べ、別に。道を間違えてないか確認してるだけだよ」


「自分の家に帰るのに?」


「うるさいな!」


 エリシアが呆れた顔をする。


 その隣で、ジョシュアは腹を押さえた。


 ぐう、と音が鳴る。


「……今の、あんた?」


「僕だと思う」


「思うって何よ」


「ほかに心当たりがないから」


 エリシアは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。


「変な人。あんなに素早く動けるくせに、お腹が空いて倒れそうなんて」


「自分でも驚いてるよ」


 嘘ではなかった。


 少年を捕まえたとき、自分の身体がどう動いたのか、ジョシュアにはよく分からなかった。相手の進む方向が見えたと思った次の瞬間には、手が伸びていた。


 運動が得意だったのだろうか。


 そう考えても、確かめようがない。


「おい、着いたぞ」


 先を歩いていた少年が足を止めた。


 大通りから何度も角を曲がった先に、古い建物が並んでいた。壁の漆喰はところどころ剥がれ、窓には板が打ち付けられている。路地を横切る洗濯紐には、色褪せた服が揺れていた。


 少年はそのうちの一軒を指さした。


「ここ」


 エリシアが建物を見上げる。


「……ここに住んでるのね」


「そうだよ。何か文句ある?」


「ないわよ。早く入りましょ」


 少年は唇を尖らせ、扉を押し開けた。


 蝶番が、きい、と長く鳴いた。


「母ちゃん、ただいま」


 返事はなかった。


 少年の顔から、さっきまでの反抗的な表情が消える。


「母ちゃん?」


 彼は慌てて中へ駆け込んだ。


 ジョシュアとエリシアも、少し遅れて後に続いた。


 室内は薄暗かった。小さな卓と椅子が二脚。隅には空の水瓶があり、棚には欠けた皿が重ねられている。


 奥の寝台に、一人の女性が横たわっていた。


「母ちゃん!」


 少年が寝台に飛びつく。


 女性はゆっくりと目を開けた。


「……ルカ?」


「よかった。寝てたのか」


「ええ……少しだけ」


 女性は身体を起こそうとして、咳き込んだ。


 少年――ルカが慌てて背中を支える。


 エリシアは寝台の傍らに膝をついた。


「突然すみません。具合が悪いと聞いて来たんです」


「あなたたちは……?」


「エリシアです。こっちはジョシュア」


「こんにちは」


 ジョシュアが頭を下げると、女性は戸惑いながらも会釈を返した。


「ルカが、何かご迷惑を……?」


 その言葉に、少年の肩が跳ねた。


 エリシアはすぐには答えなかった。


 ルカが彼女の袖を引く。


「母ちゃんには言わないでくれよ」


「ルカ」


「頼むから……」


 今度は、さっきのように怒鳴らなかった。


 ジョシュアは寝台の脇にある布を見た。水を含ませた跡はあるが、もう乾いている。


「お水を持ってきてもいいですか?」


 女性が小さく頷く。


「ありがとうございます。でも、水瓶が空で……」


「井戸はどこにありますか?」


「外の角を曲がったところです」


 ジョシュアが水瓶を持ち上げると、エリシアも立ち上がった。


「私も行く」


「えっ、でも」


「話は逃げないわ。先に水を汲んできましょ」


 ルカは何か言いたそうだったが、結局、黙って俯いた。


 外へ出ると、エリシアが大きく息を吐いた。


「……本当だったのね」


「うん」


「疑って悪かった、って言うべきなのかな」


「財布を盗んだのも本当だよ」


「分かってる。だから困ってるんじゃない」


 エリシアは眉間に皺を寄せた。


 ジョシュアは少し考えてから言った。


「助けることと、盗みを許すことは別なんじゃないかな」


「……簡単に言うわね」


「簡単じゃないから、どうしたらいいか考えてる」


 エリシアがこちらを見た。


 何か言い返されるかと思ったが、彼女は口元を緩めただけだった。


「それなら、まずはお医者さんね」


「お金は?」


「……そこが問題なのよ」


 彼女は腰の小袋を開き、中身を覗いた。


 硬貨を数える音がする。


「今日の宿代と食事代を引くと、あんまり残らない」


「僕の食事は後でいいよ」


「それは駄目」


 即答だった。


「どうして?」


「約束したでしょ。ご飯を奢るって」


「でも、困ってる人がいるし」


「それとこれとは別。あんた、今にも倒れそうなんだから」


 そう言われると、反論しづらかった。


 何しろ、実際に腹は減っている。


 井戸で水を汲み終えるころには、エリシアの方針も決まっていた。


「とりあえず薬屋に行くわ。症状を聞いて、診てもらえる人がいないか相談する」


「薬だけ買うんじゃないんだ」


「何の病気かも分からないのに、適当な薬を飲ませられないでしょ」


「それもそうだね」


「それに、三日も熱が続いてるんでしょ。できれば今日中に診てもらいたいわ」


 エリシアは水瓶を持とうとしたが、ジョシュアが先に抱えた。


「これくらいは運ばせて」


「じゃあお願い。私は先に薬屋の場所を聞いておくから」


 二人が家に戻ると、ルカは母親の手を握っていた。


 エリシアは寝台の前に立つ。


「ルカ。お母さんを診てもらえる人を探してくる」


「……金、ないぞ」


「知ってる」


「俺もない」


「それも知ってる」


「じゃあ、どうするんだよ」


「それを今から考えるの」


 ルカは目を丸くした。


「何だよ、それ」


「私だって、何でも解決できるわけじゃないのよ」


 エリシアは腕を組んだ。


「でも、何もしないで帰るのは嫌なの」


 しばらく沈黙が落ちた。


 やがて寝台の女性が、かすれた声を出した。


「ルカ……あなた、何をしたの?」


 少年の顔が強張る。


 エリシアは口を開きかけたが、ルカが先に言った。


「……財布、盗った」


 女性は目を閉じた。


「そう……」


「でも、返した! ちゃんと返したんだ!」


 ルカは必死に続けた。


「母ちゃんの薬が欲しかったんだよ。三日も熱が下がらないし、飯だって……」


「ルカ」


「俺、ほかにどうしたらいいか分かんなかったんだ!」


 女性は震える手を伸ばし、少年の頬に触れた。


「……ごめんね」


 その一言で、ルカは俯いてしまった。


 ジョシュアには、何を言えばいいのか分からなかった。


 悪いことをした少年と、病気の母親。


 どちらも目の前にいるのに、何か一つ言えば解決するような話ではない。


 エリシアも黙っていた。


 やがて彼女は寝台の女性に向き直る。


「私たち、まず診てもらえる人を探します。そのあとで、ルカのしたことについても話しましょう」


 女性はゆっくり頷いた。


「……ありがとうございます」


 家を出るとき、ルカがジョシュアを呼び止めた。


「なあ」


「何?」


「何で助けるんだよ。俺、あんたのこと蹴ったのに」


「痛かったよ」


「……悪かった」


「うん」


 ジョシュアは自分の脛を軽くさすった。


 まだ少し痛む。


「でも、お母さんが病気なのは、僕を蹴ったこととは関係ないから」


 ルカは口を開けたまま、しばらく固まっていた。


「……変なやつ」


「今日、二回目だ」


「は?」


「エリシアにも言われた」


 後ろでエリシアが笑った。


「ほら、行くわよ。薬屋が閉まる前に」


 ジョシュアは頷き、彼女の後を追った。


 通りに戻ると、夕方の陽射しが建物の隙間から差し込んでいた。


 街にはまだ人が多い。荷車を押す商人、買い物帰りの親子、仕事を終えたらしい職人たち。


 誰もが行く場所を知っているように見えた。


 ジョシュアだけが、どこへ帰ればいいのか分からない。


「ねえ、ジョシュア」


 隣を歩くエリシアが声をかけた。


「はい」


「敬語じゃなくていいって。私、そんなに偉くないし」


「分かった」


「それでさ。今夜、泊まる場所はあるの?」


「ない」


「お金は?」


「ない」


「知り合いは?」


「たぶん、いない」


「……思ったより深刻ね」


 エリシアは立ち止まり、額を押さえた。


「どうするつもりだったの?」


「まずはご飯を食べようと思ってた」


「その次は?」


「食べながら考えようかと」


「行き当たりばったりにも程があるでしょ!」


 通行人が何人か振り返った。


 ジョシュアは思わず肩をすくめる。


「……怒らせた?」


「心配してるの!」


 エリシアは頬を膨らませたあと、ふっと力を抜いた。


「まあ、いいわ。薬屋が先。そのあとご飯。それから宿のことを考えましょ」


「ありがとう」


「まだ何もしてないってば」


 そう言って歩き出す彼女の足取りは、少し速かった。


 ジョシュアはその背中を追いながら、ふと考えた。


 もし今日、あの広場を通らなかったら。


 もし、逃げてきたルカを捕まえなかったら。


 自分は今頃、何をしていただろう。


 考えても答えは出ない。


 ただ、今は一人で歩いていない。


 それだけは確かだった。


◇


 薬屋は、大通りに面した小さな店だった。


 扉を開けると、乾燥させた草の匂いが鼻をくすぐる。


 棚には色とりどりの瓶や包みが並び、奥では白髪交じりの店主が帳面をつけていた。


「いらっしゃい。何をお探しかな」


 エリシアが事情を説明する。


 店主は話を聞き終えると、腕を組んだ。


「三日も熱が続いているなら、薬を売る前に診察が必要だね」


「やっぱりそうですよね」


「咳もあるんだろう? 原因によって使う薬が違う。適当に飲ませるのは勧められない」


「診てくれる人を知りませんか?」


「いるにはいるが……」


 店主は少し言い淀んだ。


「往診を頼むなら、診察代と薬代がかかるよ」


 エリシアが小袋に手を当てる。


「……どのくらいですか?」


「症状次第だから、ここでは言い切れないね。まずは本人を診てもらわないと」


 ジョシュアは棚を見回した。


 瓶の一つに、小さな札が下がっている。


 そこに書かれた文字を、彼は何気なく読んだ。


「……解毒薬、五十ユグド」


「え?」


 エリシアが振り向く。


「何?」


「いや、値札を読んだだけ」


「読めるんだ」


「……あ」


 ジョシュアは札を見つめ直した。


 自分の名前以外、何も覚えていないはずだった。


 それなのに、文字の意味は自然に頭に入ってくる。


 さっき、街の看板を見たときもそうだった。


 どうして読めるのかと聞かれれば、答えられない。


「読み書きは覚えてるみたい」


「へえ。じゃあ、何もできないってわけじゃないのね」


「そうだといいけど」


 エリシアは少し考え、店主に向き直った。


「すみません。診てくれる方の場所を教えてください。まず相談してみます」


 店主は頷き、紙片に道順を書いてくれた。


 礼を言って店を出る。


 外はもう、夕暮れに近づいていた。


「これからどうする?」


 ジョシュアが尋ねると、エリシアは紙片を掲げた。


「診療所に行く。まだ開いてるといいんだけど」


「そのあと、ルカの家に戻る?」


「もちろん。引き受けたんだから」


 ジョシュアは頷いた。


 すると、エリシアがじっとこちらを見る。


「……何?」


「いや。あんた、思ったより落ち着いてるなって」


「そうかな」


「普通、記憶もお金もないって分かったら、もっと慌てない?」


 もっともな疑問だった。


 ジョシュア自身、不安がないわけではない。


 今夜眠る場所もないし、明日どうやって食事をするのかも分からない。


 けれど、慌てたところで思い出せる気もしなかった。


「怖くないわけじゃないよ」


 ジョシュアは答えた。


「ただ、何から困ればいいのか分からなくて」


「……何それ」


「とりあえず、一つずつ何とかするしかないかなって」


 エリシアは少しだけ黙った。


 そして、急に笑い出した。


「ははっ! ほんと、変な人!」


「三回目だ」


「数えてるの?」


「今日覚えたことだから」


 エリシアはまた笑った。


 ジョシュアもつられて笑う。


 空腹は相変わらずだったが、さっきより足取りは軽かった。


 そのとき。


 ぐうう、と、ひときわ大きな音が響いた。


 エリシアの笑いが止まる。


 ジョシュアは腹を押さえた。


「……ごめん」


「もう! 分かったわよ!」


 エリシアは通りの先を指さした。


「あそこの屋台で何か買う! 歩きながら食べなさい!」


「いいの?」


「このまま倒れられたら困るの!」


 屋台からは、焼きたてのパンの香りが漂っていた。


 ジョシュアは思わず足を速める。


「ありがとう、エリシア」


「だから、まだ買ってないって!」


 彼女の声が、夕暮れの通りに響いた。


 ジョシュアは振り返らずに答える。


「じゃあ、買ってもらったらもう一回言うよ」


「そういう問題じゃない!」


 その日、ジョシュアはようやく食事にありついた。


 温かいパンを一口かじった瞬間、思わず目を閉じた。


 表面は香ばしく、中は柔らかい。空っぽだった胃に、少しずつ熱が広がっていく。


「……おいしい」


「大げさねえ」


 エリシアは呆れたように言ったが、その声はどこか嬉しそうだった。


 ジョシュアはもう一口かじる。


 自分が誰なのかは、まだ分からない。


 けれど、パンの味が分かることも、誰かに礼を言えることも、今の自分に残っているものなのだと思った。


「ほら、食べ終わったら急ぐわよ」


「うん」


 二人は診療所へ向かって歩き出した。


 その背後で、街の鐘が夕刻を告げた。

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