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第1章「零番星」

第1話 零番星の落ちた日


 腹が減った。


 目を覚まして最初に思ったのがそれだった。


 いや、正確には目を覚ました瞬間、何かがおかしいと感じた。見知らぬ空も、鼻をくすぐる湿った土の匂いも、背中に当たる硬い石畳も、何ひとつとして覚えがない。


 ただ、それらについて考えるより先に、腹の虫が盛大に鳴いたのである。


「……腹、減ったな」


 口に出してみたところで、食べ物が現れるわけでもない。


 青年はしばらく仰向けのまま空を眺めていた。


 頭上には、建物と建物の間に切り取られた青空がある。白い雲がゆっくりと流れ、その向こうを一羽の鳥が横切っていった。


 どこにでもありそうな、穏やかな朝だった。


 少なくとも、路地裏で寝ている人間にとっては。


 青年は身体を起こした。


 黒い石壁に囲まれた細い路地。片側には木箱が積まれ、反対側には蓋の外れた樽が転がっている。どこからか焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。


 思わず匂いのする方へ顔を向ける。


 そして、ようやく気づいた。


「……ここ、どこだ?」


 声が妙に大きく響いた。


 当然ながら返事はない。


 青年は立ち上がり、服についた埃を払った。


 身に着けているのは、黒と白を基調とした見慣れない制服だった。肩には布が掛かり、ところどころに細かな装飾が施されている。


 随分と凝った服だ。


 どこの仕立屋で作られたものなのだろう。


 そう考えたところで、青年の手が止まった。


「……あれ?」


 思い出せない。


 服を買った場所も、着た理由も。


 そもそも、昨日何をしていたのかさえ。


 青年は眉をひそめた。


 昨日は何をしていた?


 仕事だろうか。学校だろうか。それとも旅の途中だったのか。


 何も浮かばない。


 ならば、一昨日は?


 先週は?


 先月は?


 背筋が冷たくなった。


 記憶を探ろうとするたび、頭の中に奇妙な空白が広がっていく。


 何もない。


 本当に、何も。


 自分がどこで生まれ、誰と暮らし、何をして生きてきたのか。


 家族の顔すら思い浮かばなかった。


「……冗談だろ」


 青年は壁に手をついた。


 心臓が早鐘を打っている。


 息を吸っても、胸の奥が苦しい。


 落ち着け。


 まずは落ち着こう。


 自分の名前。


 そうだ、名前くらいは。


「ジョシュア」


 自然に口から出た。


「……ジョシュア」


 もう一度呟く。


 違和感はない。


 それが自分の名前だという確信だけはあった。


 だが、姓があるのかどうかさえわからない。


 ジョシュアは額を押さえた。


「名前しか覚えてないって……どういうことだよ」


 考えても答えは出なかった。


 しばらくして、ジョシュアは路地の出口へ歩き始めた。


 ここで座り込んでいても仕方がない。


 誰かに事情を聞けば、何かわかるかもしれない。


 そう思ったのだ。


 そして路地を抜けた瞬間、彼は足を止めた。


「……すごいな」


 目の前には、広い石畳の通りが続いていた。


 両側には木骨造りの建物が並び、赤や緑の屋根が朝日を受けて輝いている。道端では商人が果物を並べ、荷車を引いた男が通行人に道を空けるよう叫んでいた。


 遠くには尖塔を備えた巨大な建物が見える。


 そのさらに向こうには、白い城壁と、空へ突き出す城の塔。


 大勢の人々が行き交っていた。


 人間だけではない。


 尖った耳を持つ女性。


 小柄ながら肩幅の広い髭面の男。


 頭に獣の耳を生やした少年。


 そして、背中に大きな翼を持つ人物までいる。


 ジョシュアは目をこすった。


 もう一度見る。


 やはり翼がある。


 しかも、その人物は何事もないように露店で野菜を選んでいた。


「……そういうものなのか?」


 誰に尋ねるでもなく呟いた。


 周囲の人々は気にした様子もない。


 ならば、珍しいことではないのだろう。


 少なくとも、この街では。


 ジョシュアは人の流れに混ざって歩き始めた。


 通りには食べ物の屋台が多かった。


 串焼きの肉。


 香辛料をまぶした焼き芋。


 果実を煮詰めた甘い菓子。


 そして、パン。


 とりわけパン屋の前を通ったときには、思わず足が止まってしまった。


 店先には丸いパンが山のように積まれている。


 焼き色のついた表面から、まだ湯気が立っていた。


「お兄さん、買ってくかい?」


 店主らしい中年の女性が声をかけてきた。


「あ、ええと……」


「今朝焼いたばっかりだよ。ひとつ三十ユグド。二つなら五十五でいいよ」


「ユグド?」


 女性が怪訝そうな顔をした。


「なんだい、外国から来たのかい?」


「……多分?」


「多分って、あんたねえ」


 呆れたように笑われた。


 ジョシュアは自分の服を探った。


 胸元。


 腰。


 内側のポケット。


 何もない。


 硬貨どころか、紙切れ一枚出てこなかった。


「……すみません。お金、持ってないみたいです」


「なんだ、冷やかしかい。だったらそこ退いとくれ。後ろのお客さんが待ってるよ」


「あ、はい。すみません」


 慌てて道を空ける。


 店主はすぐに次の客へ声をかけ始めた。


 ジョシュアは名残惜しそうにパンを見つめたが、やがて諦めて歩き出した。


 空腹が一段と強くなった気がする。


 どうやら、記憶がなくても腹は減るらしい。


 当たり前のことなのに、少し腹立たしかった。


 それからしばらく街を歩き回り、ジョシュアは大通りから少し外れた広場にたどり着いた。


 中央には噴水があり、その周囲を子供たちが走り回っている。


 噴水の縁に腰掛け、ジョシュアは水面を覗き込んだ。


 そこには見知らぬ青年の顔が映っていた。


「……これが、俺か」


 自分の顔を見ても、何の感慨も湧かない。


 いや、顔そのものがわからないわけではない。


 鏡に映っているのが自分だということは理解できる。


 ただ、そこに至るまでの人生が、まるごと抜け落ちている。


 不思議な感覚だった。


 他人の身体を借りているような気さえする。


「はあ……」


 ため息をついた。


 とりあえず、今後どうするか考えなければならない。


 住む場所はない。


 金もない。


 知り合いもいない。


 仕事もない。


 自分が何をできるのかもわからない。


「……詰んでないか、これ」


 思わず天を仰いだ。


 そのときだった。


「待ちなさーいっ!」


 広場の向こうから、少女の叫び声が聞こえた。


 ジョシュアが顔を向ける。


 人混みを縫うように、一人の少年が走っていた。


 年齢は十二、三歳ほどだろうか。


 痩せた身体に薄汚れた服。腕には茶色い革袋を抱えている。


 その後ろを、剣を腰に下げた少女が追いかけていた。


 栗色の髪を後ろで束ね、革製の胸当てを着けている。


 顔立ちは整っているが、今はそれどころではないらしい。


「こらっ! 人の財布を盗んで逃げるなーっ!」


「うるせえ! 追ってくんな!」


 少年が振り返って叫ぶ。


 そして、そのまま前を向いた。


 ジョシュアと目が合った。


「……あ」


 少年が声を漏らした。


 進行方向には噴水。


 右側には人混み。


 左側にはジョシュア。


 少年は一瞬迷い、左へ進路を変えた。


 ジョシュアの脇をすり抜けようとする。


 その瞬間、ジョシュアの身体が動いた。


「うわっ!?」


 少年の悲鳴が上がった。


 気づけばジョシュアは半歩横へ移動し、少年の腕を掴んでいた。


 勢いよく走っていた少年は、突然のことに体勢を崩す。


 ジョシュアは反射的にその身体を支えた。


 革袋が地面に落ちる。


 鈍い音がした。


「……え?」


 ジョシュア自身が驚いていた。


 何をしたのか、よくわからなかった。


 ただ、少年が横を通り過ぎようとした瞬間、身体が勝手に動いたのだ。


 少年は掴まれた腕を振りほどこうと、必死にもがいた。


「離せよ! このっ!」


「あ、ちょっと待って。暴れると危ないから」


「うるせえ!」


 少年がジョシュアの脛を蹴った。


「痛っ!」


 思わず手を離す。


 少年はその隙に逃げようとした。


 しかし。


「捕まえたっ!」


 追いついた少女が、少年の襟首を掴んだ。


「ぐえっ!」


「まったく! どれだけ走らせるのよ!」


「離せって! 俺が何したってんだよ!」


「財布盗んだでしょ!」


「拾ったんだよ!」


「持ち主が返してって叫んでたじゃない!」


「聞こえなかった!」


「嘘つき!」


 少女と少年が言い争いを始めた。


 ジョシュアは脛をさすりながら、その様子を眺めていた。


 なかなか痛い。


 記憶がなくても痛覚は正常らしい。


 そんなことを考えていると、少女がこちらを向いた。


「あっ! そこの人!」


「……俺?」


「そう! さっきはありがとう! おかげで捕まえられたわ!」


「ああ、いや……」


 ジョシュアは困ったように笑った。


「たまたまだよ」


「たまたま?」


「うん。なんか、身体が勝手に動いて」


「へえ?」


 少女は興味深そうにジョシュアを見た。


 そして、ふと首を傾げる。


「……ところで、あなた、その服どうしたの?」


「服?」


「うん。見たことない制服だけど。どこかの騎士団の人?」


「いや……」


 ジョシュアは自分の服を見下ろした。


「わからない」


「……わからない?」


「うん」


「自分の服なのに?」


「そう」


 少女の眉間に皺が寄った。


 当然の反応だと思う。


 自分でもおかしいと思っているのだから。


「あなた、変な人ね」


「……よく言われる?」


「なんで疑問形なのよ」


「いや、言われたことがあるかどうかも覚えてなくて」


 少女が黙った。


 ジョシュアも黙った。


 その間にも、少年は逃げようと身体を捻っている。


「……ねえ」


 少女が口を開いた。


「もしかして、記憶喪失とか?」


「多分」


「多分って……」


「名前しか覚えてないんだ」


 少女は目を丸くした。


「えっ!? 本当に!?」


 その声が思いのほか大きかったのか、近くを歩いていた人々が振り返った。


 ジョシュアは少し居心地が悪くなった。


「……そんなに驚くこと?」


「驚くに決まってるでしょ! 名前しか覚えてないって、相当大変なことじゃない!」


「まあ、そうなんだけど」


「家は? 家族は? どこから来たの?」


「全部わからない」


「お金は?」


「ない」


「食べ物は?」


「ない」


「泊まる場所は?」


「ない」


 少女の表情が、質問を重ねるごとに険しくなっていく。


 最後には、何か信じられないものを見るような顔になっていた。


「……あなた、今までどうやって生きてたの?」


「それを俺も知りたいんだけど」


「冗談言ってる場合じゃないでしょ!」


「いや、結構本気で……」


 そのとき、盛大な腹の音が響いた。


 少女が口を閉じる。


 ジョシュアは自分の腹を押さえた。


 少年が吹き出した。


「ぷっ……なんだよ兄ちゃん、腹減ってんのかよ!」


「……そうみたいだな」


「だっせえ!」


「君に言われると、ちょっと傷つくな」


 少女は二人を交互に見た。


 そして、大きなため息をついた。


「……もう!」


 腰に手を当て、ジョシュアを睨む。


「とりあえず、あなたは何か食べなさい!」


「え?」


「お腹空いてるんでしょ!」


「まあ、うん」


「だったら食べる! 話はそれから!」


 随分と強引な少女だった。


 ジョシュアは思わず笑ってしまった。


「……ありがとう。でも、お金が」


「私が出すわよ!」


「いいのか?」


「いいの! 人助けしたと思えば安いものよ!」


 少女はそう言い切った。


 それから、何かを思い出したように少年を見下ろす。


「あ、でもその前に、この子を自警団に連れていかないと」


「げっ!」


 少年が顔を引きつらせた。


「ちょ、待てよ! 自警団だけは勘弁してくれ!」


「駄目。盗みは盗みでしょ」


「頼むって! 返すから!」


「返せばいいってものじゃないの!」


 また言い争いが始まった。


 ジョシュアは落ちた革袋を拾い上げた。


 中には硬貨が入っているらしく、持ち上げると小さく音が鳴った。


 少年はそれを見つめていた。


 先ほどまでの威勢は、もうない。


「……なあ」


 ジョシュアが声をかける。


 少年が顔を上げた。


「どうして盗んだんだ?」


「……別に」


「別に?」


「金が欲しかっただけだよ!」


 吐き捨てるような声だった。


 少女が眉をひそめる。


「だからって、人の物を盗んでいい理由には――」


「わかってるよ!」


 少年が叫んだ。


 広場にいた数人がこちらを振り返った。


「わかってるって! そんなこと!」


 少年は唇を噛みしめた。


 その目には、涙が浮かんでいた。


「……でも、しょうがねえだろ」


 声が小さくなる。


「母ちゃん、三日も寝込んでんだよ」


 少女の表情が変わった。


「……え?」


「薬買う金なんかねえし、仕事だって子供だからって雇ってもらえねえし……」


 少年は俯いた。


「だから……」


 そこで言葉が途切れた。


 ジョシュアは少年を見つめた。


 嘘かもしれない。


 捕まったから同情を引こうとしているだけかもしれない。


 実際、少年がどんな生活を送っているのか、ジョシュアにはわからない。


 けれど、腹が減っているときに、食べ物を買う金すらない。


 その苦しさだけは、今の自分にも少しわかった。


「……なあ」


 ジョシュアは少女に声をかけた。


「何?」


「この子の母親、確かめに行けないかな」


「え?」


「本当に病気なら、誰か助けてくれる人がいるかもしれないだろ」


 少女は少し考え込んだ。


 少年は驚いたようにジョシュアを見ている。


「……あなた、さっき会ったばかりの子を信じるの?」


「信じるっていうか……」


 ジョシュアは頭を掻いた。


「本当かどうか、見に行けばわかるんじゃないか?」


「…………」


「もちろん、盗んだのは悪いことだけどさ」


 少女は少年に目を向けた。


 少年は何も言わなかった。


 やがて、少女は深く息を吐いた。


「……わかったわ」


「いいのか?」


「ただし!」


 少女は少年の顔を覗き込んだ。


「嘘だったら、今度こそ自警団に連れていくからね!」


「……わかったよ」


「あと、お財布はちゃんと返すこと!」


「わかってるって……」


 少女はようやく襟首から手を離した。


 少年は逃げなかった。


 ジョシュアは革袋を少女に渡した。


 彼女はそれを受け取り、近くの露店の主人に持ち主への返却を頼むと、少年へ向き直った。


「それじゃ、案内して」


 少年が小さく頷いた。


 三人は広場を後にした。


 歩き始めてしばらくすると、少女がジョシュアを見上げた。


「そういえば、まだ名前聞いてなかったわね」


「ああ。ジョシュアだよ」


「ジョシュア?」


「うん。それだけは覚えてる」


「そっか」


 少女は微笑んだ。


「私はエリシア。エリシア・ヴェルナー!」


「エリシア」


「よろしくね、ジョシュア!」


 差し出された手を、ジョシュアは握った。


 少女の手は温かかった。


 少し硬い。


 剣を握る人間の手なのだろうか。


 そんなことを考えながら、ジョシュアは小さく笑った。


「よろしく、エリシア」


 自分が何者なのか。


 なぜ記憶を失ったのか。


 どうして見知らぬ街に倒れていたのか。


 何ひとつわからないままだった。


 けれど、少なくとも今は、一緒に歩いてくれる人がいる。


 そのことに、ジョシュアは少しだけ安心していた。


 差し当たっての問題は、ひとつ。


「……エリシア」


「何?」


「ご飯、あとでもいいから食べさせてもらえる?」


「わかってるわよ!」


 少女の呆れた声が、朝の通りに響いた。


 ジョシュアの腹が、もう一度鳴った。


 少年が笑った。


 今度は、ジョシュアも一緒に笑った。


 こうして、記憶を失った青年の新しい一日が始まった。


 まずは少年の母親を訪ね、それから食事をする。


 その先のことは、まだ何も決まっていない。

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