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灰牙狼の森

第37話 灰牙狼の森


 王都南西に広がる《灰枝の森》は、冒険者たちにとって馴染み深い狩場の一つだった。


 街道から比較的近く、薬草や木材などの資源も豊富。森の浅い場所には危険度の低い魔物が多く、新人冒険者が経験を積むには適した場所とされている。


 ただし、奥へ進めば話は変わる。


 木々は密集し、足元には深い窪みや獣道が増える。視界も悪くなり、群れを作る魔物に遭遇する危険性が高くなる。


 そして今回、ジョシュアたちが討伐を依頼された《灰牙狼》も、そうした魔物の一種だった。


「……思ってたより暗いね」


 エリシアが頭上を見上げた。


 まだ午前中だというのに、重なり合う枝葉が日光を遮り、森の中には薄暗い影が広がっている。


「足元に気をつけて」


 先頭を歩くミアが振り返った。


「根っこが多いから、転んだら危ないわよ」


「分かった!」


 エリシアは元気よく答えた。


 その後ろを、ダグラスが大盾を背負って歩いている。


 レオンは杖を片手に、周囲の木々へ注意を向けていた。


 ジョシュアは最後尾だった。


 そして。


「いやあ、いい天気だなあ!」


 時風が笑った。


 彼は小さな布袋を肩に担ぎ、まるで散歩でもしているかのような足取りでついてきていた。


「……時風さん」


 ミアが振り返る。


「本当に一緒に来るの?」


「おう!」


「でも、依頼を受けたのは私たちよ?」


「知ってるぞ!」


 時風は頷いた。


「だから、俺は手を出さない!」


「……本当に?」


「本当だとも!」


 時風は胸を張った。


「今日は見学だ!」


 ミアは疑わしそうに目を細めた。


 昨日の訓練を思い出せば、時風が普通の冒険者ではないことは明らかだった。


 木の枝一本で五人を相手にし、最後まで余裕を失わなかった。


 だが、本人は自分の実力について何も説明しようとしない。


「……まあ、危なくなったら助けてくれるんでしょうね?」


「はははっ!」


 時風は笑った。


「まずは自分たちで何とかしてみろ!」


「……答えになってないんだけど」


 ミアはため息をついた。


 その時だった。


「……待って」


 彼女の耳がぴくりと動いた。


 全員が足を止める。


「どうした?」


 ダグラスが尋ねた。


「……何かいる」


 ミアはしゃがみ込み、地面を調べた。


 湿った土の上に、いくつもの足跡が残されていた。


 狼に似た形。


 だが、通常の狼よりも大きい。


「……灰牙狼かもしれない」


 レオンが近づいた。


「数は?」


「少なくとも四体。足跡の大きさが違うから、成獣だけじゃないかも」


 ミアは周囲を見回した。


「それに、まだ新しいわ」


 エリシアが剣の柄に手をかける。


「……近くにいる?」


「たぶん」


 ミアは頷いた。


 ダグラスが盾を構えた。


「警戒して進もう」


 ジョシュアも剣を抜いた。


 昨日の訓練を思い出す。


 一人で戦わない。


 仲間の動きを見る。


 相手がどこへ動くのか考える。


「……僕は、後ろを見ています」


 ジョシュアが言った。


 レオンが頷く。


「お願いするよ」


 五人は慎重に歩き始めた。


 時風は少し離れた場所で、楽しそうにその様子を眺めていた。


◇


 最初に異変に気づいたのは、ミアだった。


「……止まって!」


 彼女が小声で告げる。


 全員が動きを止めた。


 前方の茂み。


 その奥で、何かが動いた。


 がさり。


 枝葉が揺れる。


 次の瞬間。


「グルルル……」


 低い唸り声が響いた。


 茂みの中から、一頭の狼が姿を現した。


 灰色の毛並み。


 鋭く発達した牙。


 通常の狼より大きな身体。


「……灰牙狼」


 レオンが呟いた。


 だが、それだけではなかった。


 右側の茂みから、もう一頭。


 左側の木陰から、さらに一頭。


 そして、後方からも足音が聞こえた。


「……四体!」


 ミアが叫んだ。


 灰牙狼たちは、すでに五人を囲むように動いていた。


 エリシアが剣を構える。


「……来る!」


 正面の灰牙狼が地面を蹴った。


 一直線に、エリシアへ飛びかかる。


「はあっ!」


 エリシアは剣を振り下ろした。


 だが、狼は直前で横へ跳んだ。


 剣が地面を叩く。


「……っ!」


 エリシアの身体が前へ流れる。


 その隙を狙い、右側の狼が飛びかかった。


「エリシア!」


 ダグラスが叫ぶ。


 大盾が割り込んだ。


 鋭い牙が盾に食い込む。


「ぐっ……!」


 衝撃が腕に伝わる。


 ダグラスは足を踏ん張った。


「下がれ!」


 盾を押し出し、狼を弾き返す。


 その瞬間。


「レオン、左です!」


 ジョシュアが叫んだ。


 レオンが振り向く。


 左側の狼が、すでに跳躍していた。


「……っ!」


 詠唱する時間はない。


 レオンは咄嗟に身を引いた。


 狼の爪が外套を裂く。


「危ない!」


 ミアが飛び込んだ。


 短剣を振り、狼の横腹を浅く切りつける。


「ギャンッ!」


 狼が悲鳴を上げた。


 だが、倒れない。


 ミアはすぐに距離を取った。


「……硬い!」


 レオンは杖を構え直した。


「助かった!」


「お礼は後!」


 ミアが叫ぶ。


 四頭の灰牙狼は、再び距離を取っていた。


 獲物を観察するように、低く唸っている。


「……思ったより厄介だね」


 レオンが息を吐いた。


「一頭ずつ来てくれればいいんだけど」


「そんな都合よくいかないわよ!」


 ミアが答える。


 ダグラスは盾を構え直した。


「……どうする?」


 その問いに、ジョシュアが顔を上げた。


 四頭。


 前方に二頭。


 左右に一頭ずつ。


 最初に飛びかかった狼は、エリシアの剣を避けていた。


 右側の狼は、ダグラスの盾を警戒している。


 左側の狼は、ミアに傷を負わされた。


 そして、もう一頭。


 まだ攻撃していない狼がいる。


「……あの狼」


 ジョシュアが呟いた。


 少し離れた場所にいる、身体の大きな灰牙狼。


 他の狼たちは、その個体が動くたびに位置を変えていた。


「……あれが、群れを動かしているのかもしれません」


 レオンが目を細めた。


「……なるほど」


 ミアが頷く。


「確かに、あの大きいのだけ、ずっと様子を見てる」


「じゃあ、あいつを倒せばいいんだね!」


 エリシアが剣を構えた。


「待って」


 ジョシュアが言った。


 エリシアが振り向く。


「……どうしたの?」


「……一人で行くと、囲まれます」


 エリシアは口を閉じた。


 昨日の訓練。


 時風に何度も指摘されたことだった。


 相手を追いかけすぎる。


 攻撃した後のことを考えていない。


「……そうだった」


 エリシアは剣を握り直した。


「じゃあ、どうする?」


 ジョシュアは仲間たちを見回した。


「……昨日と同じです」


 レオンが小さく笑った。


「五人で一つの動きを作る、か」


「……はい」


 ダグラスが盾を構えた。


「分かった」


 ミアも短剣を握り直した。


「……やってみましょう」


◇


 最初に動いたのは、エリシアだった。


「はあっ!」


 正面の狼へ踏み込む。


 だが、今度は剣を大きく振らなかった。


 相手の鼻先へ刃を向け、逃げる方向を限定する。


「グルッ!」


 狼が右へ跳んだ。


「ダグラス!」


 ジョシュアが叫ぶ。


「おう!」


 ダグラスが盾を構えたまま前へ出る。


 逃げた狼の進路を塞ぐ。


 狼は急停止した。


 その瞬間。


「水よ、我が呼び声に応え、流れとなって敵を打て――《水弾》!」


 レオンの詠唱が完成した。


 水弾が狼の胴体を直撃する。


「ギャウッ!」


 狼が吹き飛ばされた。


 地面を転がり、木の根元に衝突する。


「……一体!」


 エリシアが叫んだ。


 だが、まだ倒れていない。


 狼はよろめきながら立ち上がろうとしていた。


「ミア!」


 ジョシュアが声を上げる。


「分かってる!」


 ミアが駆けた。


 倒れた狼の側面へ回り込み、短剣を突き出す。


 刃が首元へ深く入った。


 狼は一度だけ身体を震わせ、そのまま動かなくなった。


「……よし!」


 ミアが息を吐いた。


 だが、次の瞬間。


「グオオッ!」


 大きな灰牙狼が吠えた。


 残る三頭が、一斉に動き始める。


「……来る!」


 ダグラスが叫んだ。


 右側から一頭。


 左側から一頭。


 そして、正面から大きな一頭。


 三方向からの同時攻撃だった。


「……っ!」


 エリシアが剣を構える。


 ダグラスが盾を前に出す。


 レオンは詠唱を始めようとした。


 だが、間に合わない。


「……レオン!」


 ジョシュアが叫ぶ。


 左側の狼が、レオンへ飛びかかっていた。


「……っ!」


 ジョシュアは反射的に走った。


 剣を振る。


 狼の爪が、目の前まで迫る。


 その瞬間。


 何かが、頭の奥で動いた。


 相手の足。


 跳躍の角度。


 牙の向き。


 着地する位置。


 それらが、一瞬だけ鮮明に見えた。


「……!」


 ジョシュアは剣を動かした。


 狼の身体が、刃の横を通り過ぎる。


 そして。


 剣先が、狼の肩を浅く切り裂いた。


「ギャンッ!」


 狼が地面に落ちる。


 ジョシュアは目を見開いた。


「……当たった」


 だが、そこで動きが止まった。


 続けて斬ろうとした瞬間、身体の奥に重い違和感が走ったのだ。


 足が動かない。


 腕が、思うように上がらない。


「ジョシュア!」


 ダグラスの声が響いた。


 ジョシュアは顔を上げた。


 傷を負った狼が、再び飛びかかろうとしている。


「……っ!」


 避けられない。


 そう思った瞬間。


「うおおっ!」


 ダグラスが割り込んだ。


 盾が狼を弾き返す。


「大丈夫か!」


「……はい!」


 ジョシュアは頷いた。


 ダグラスは短く言った。


「無理するな!」


「……すみません」


「謝るな!」


 ダグラスは盾を構え直した。


「俺が守る!」


 その言葉に、ジョシュアは息を呑んだ。


 守る。


 仲間を守る。


 昨日、時風が言っていたこと。


 五人で戦う。


 その意味が、今になって少しずつ分かり始めていた。


◇


 戦闘は、さらに続いた。


 エリシアは大きな灰牙狼と向き合っていた。


「……っ!」


 鋭い牙が迫る。


 エリシアは横へ跳んだ。


 狼が地面を蹴り、すぐに追撃してくる。


「……速い!」


 剣を振る。


 だが、狼は避ける。


 昨日の時風と同じだった。


 追いかければ追いかけるほど、こちらの動きが大きくなる。


 その隙を狙われる。


「……落ち着いて」


 エリシアは小さく呟いた。


 時風の言葉を思い出す。


『剣が届くところまで、自分から走ってるだろ?』


 相手を追いかけない。


 動く場所を考える。


 エリシアは剣を構え直した。


 大きな灰牙狼が低く唸る。


 そして、跳躍した。


「……今!」


 エリシアは一歩だけ横へ動いた。


 狼の牙が空を切る。


 その着地地点へ、剣を振り下ろす。


「はああっ!」


 刃が、狼の背中を捉えた。


「ギャアッ!」


 血が飛び散る。


 狼が地面を転がった。


「……当たった!」


 エリシアは目を見開いた。


 だが、まだ終わらない。


 狼は傷を負いながらも立ち上がった。


 その瞳には、怒りが宿っていた。


「……来る!」


 エリシアが剣を構えた。


 しかし。


「エリシア、下がって!」


 レオンの声が響いた。


 彼はすでに杖を掲げていた。


「風よ、我が呼び声に応え、刃となって敵を裂け――《風刃》!」


 風が渦を巻く。


 鋭い刃となって放たれる。


 エリシアはすぐに身を引いた。


 風刃が、大きな灰牙狼の胴体を切り裂いた。


「グオオッ!」


 狼が悲鳴を上げる。


 その身体が、大きくよろめいた。


「ダグラス!」


 ジョシュアが叫ぶ。


「おう!」


 ダグラスが踏み込んだ。


 盾で狼の進路を塞ぎ、短剣を突き出す。


 刃が、傷口へ深く入った。


 大きな灰牙狼は一度だけ身体を震わせた。


 そして、ゆっくりと地面に倒れた。


 動かなくなる。


「……倒した?」


 エリシアが呟いた。


 レオンが息を吐いた。


「……ああ」


 ダグラスは盾を下ろした。


「……倒したな」


 だが、まだ二頭残っていた。


 その二頭は、倒れた大きな灰牙狼を見つめていた。


 低く唸る。


 そして。


 一頭が後退した。


 もう一頭も、それに続く。


「……逃げる?」


 ミアが呟いた。


 灰牙狼たちは、ゆっくりと森の奥へ下がっていった。


 やがて、茂みの向こうへ姿を消した。


 五人は、しばらく動かなかった。


 森に静けさが戻る。


 風が枝葉を揺らす音だけが聞こえていた。


「……終わった?」


 エリシアが尋ねた。


「……たぶん」


 レオンが答えた。


 ミアは周囲を確認した。


「……気配は離れていくわ」


 ダグラスが大きく息を吐いた。


「……助かったな」


 ジョシュアは剣を下ろした。


 手が、少し震えていた。


 初めてではない。


 魔物と戦ったことは、以前にもある。


 だが、今回の戦闘は違った。


 仲間たちの動きを見て、声をかけた。


 自分が攻撃し、仲間に守られた。


 そして、全員で二頭の灰牙狼を倒した。


「……僕たち」


 ジョシュアが呟いた。


「……勝てたんですね」


 エリシアが笑った。


「うん!」


 そして、拳を握った。


「やったね!」


◇


「はははっ!」


 少し離れた木の上から、笑い声が聞こえた。


 五人が振り向く。


 時風が枝に腰掛け、楽しそうに手を振っていた。


「いやあ、なかなかいい戦いだったな!」


「……時風さん!」


 ミアが叫んだ。


「どこにいたのよ!?」


「ここだぞ!」


「見れば分かるわよ!」


 時風は大笑いした。


 そして、軽く地面へ飛び降りた。


「はははっ! お疲れさん!」


 エリシアが駆け寄る。


「どうだった!?」


「よかったぞ!」


 時風は頷いた。


「昨日の訓練が、ちゃんと役に立ってたな!」


 エリシアは嬉しそうに笑った。


「本当!?」


「おう!」


 時風は五人を見回した。


「エリシアは相手を追いかけすぎなくなった!」


「うん!」


「レオンは仲間の動きを見て魔法を撃てた!」


「……まだ詠唱の時間は課題だけどね」


「ミアは相手の隙を見て攻撃できた!」


「……まあ、少しはね」


「ダグラスは仲間を守る位置を考えられた!」


「……ああ」


「ジョシュアは、全体を見て声をかけられた!」


「……はい」


 時風は満足そうに笑った。


「でもな!」


 五人が顔を上げる。


「まだまだだ!」


「ええー!」


 エリシアが肩を落とした。


 時風は笑った。


「そりゃそうだろ! 灰牙狼四頭に囲まれて、二頭倒すのが精一杯だったんだからな!」


 レオンが頷いた。


「……確かに」


 ミアも腕を組んだ。


「依頼の条件は三体以上。まだ足りないわ」


 ダグラスが倒れた狼を見た。


「……このまま帰るわけにはいかないな」


 エリシアは剣を握り直した。


「じゃあ、もう一体探そう!」


「待って」


 レオンが止めた。


「魔力も体力もかなり使ってる。今すぐ次の群れを探すのは危険だよ」


 ミアが頷いた。


「そうね。まずは休憩。それから、どうするか決めましょう」


 ジョシュアも頷いた。


「……賛成です」


 時風は楽しそうに笑った。


「はははっ! いい判断だ!」


 そして、布袋を開けた。


 中から、包み紙に入ったパンと干し肉が出てくる。


「腹が減っただろ!」


 エリシアが目を輝かせた。


「ご飯!?」


「おう!」


 時風は笑った。


「ちゃんと持ってきたぞ!」


 ミアは呆れたようにため息をついた。


「……本当に遠足みたいね」


「はははっ!」


 時風は大笑いした。


 五人は木陰に腰を下ろした。


 食事を取りながら、先ほどの戦闘を振り返る。


 何が上手くいったのか。


 何が危なかったのか。


 次は、どうすればいいのか。


 話し合うことは、いくらでもあった。


 そして、彼らはまだ知らなかった。


 この森での経験が、後に自分たちを救うことになるのを。


 その頃。


 遠く離れた《煌めき通り》では、別の動きが始まっていた。


 《黄金の館》の地下。


 《運命変換器(フォルトゥーン)》が置かれた部屋で、一人の男が報告書を読んでいた。


 灰色の髪。


 黒い礼服。


 胸元には、金色の星の紋章。


 ヴァルターだった。


「……また、変化が出ているのか」


 彼は報告書を机に置いた。


 装置の作用範囲は変わっていない。


 起動状態にも異常はない。


 それなのに、幸運の配分結果には偏りが生じていた。


 特定の人物から、以前ほど幸運を集められなくなっている。


 その一方で、別の対象から集められる量は増えていた。


「……誰かが、介入している」


 ヴァルターは呟いた。


 その脳裏に、一人の男の姿が浮かぶ。


 笑っていた男。


 人々に、幸運を祈っていた男。


「……轟時風」


 ヴァルターは、その名前を静かに口にした。


 そして、机の上に置かれた別の報告書へ手を伸ばした。


 そこには、王都へ向かった五人のFランク冒険者たちについての情報がまとめられていた。


 ヴァルターは目を細めた。


「……なるほど」


 紙を一枚めくる。


 そこには、ジョシュアの名前があった。


 ヴァルターはしばらく、その名前を見つめていた。


「……少し、調べてみる必要がありそうですね」


 静かな地下室に、紙をめくる音だけが響いていた。

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