父への手紙
第34話「父への手紙」
王都へ続く街道を、一台の馬車が走っていた。
《煌めき通り》を出発してから、二時間ほどが経っている。
窓の外には緩やかな丘陵地帯が広がり、風に揺れる草の向こうを、荷物を積んだ別の馬車がゆっくりと進んでいた。
「……あと、どれくらい?」
エリシアが窓の外を眺めながら尋ねた。
「順調なら、日が暮れる前には王都に着くと思うよ」
レオンが答える。
「そっかあ。何だか、あっという間だったね」
「私は結構長く感じたけど」
ミアは膝の上に置いた鞄を抱え直した。
「毎日何かしら起きてたじゃない。聞き込みに、事故の調査に、賭場での競技会まで」
「そうだな」
ダグラスが頷いた。
「結局、依頼の原因は突き止められなかったしな」
「……ごめんなさい」
エリシアが少し肩を落とす。
「何で君が謝るんだい?」
レオンが苦笑した。
「全員で調べた結果だよ。誰か一人の責任じゃない」
「でも、マルセルさん、困ってたよね」
「だからこそ、次に調べる時は準備を整えよう」
レオンは窓の外へ目を向けた。
「少なくとも、偶然で片づけるには不自然なことが起きている。それは確かだからね」
ジョシュアは黙って話を聞いていた。
南通りの時計修理店。
立て続けに起こる事故。
不運を嘆く人々。
そして、昨日の競技会。
思い返しても、分からないことばかりだった。
「……そういえば」
ジョシュアが顔を上げる。
「フィールさんとは、ちゃんとお別れできませんでしたね」
「あっ、そうだ!」
エリシアが声を上げた。
「昨日も会えなかったもんね!」
「忙しかったんだろうね」
レオンが答える。
「《黄金の館》の従業員たちも、彼女には随分と気を遣っていたようだったし」
「……また会えるかな」
エリシアが呟いた。
「会えるさ!」
時風が笑った。
「別に、あいつがどこかへ消えるわけじゃないんだからな!」
エリシアが振り向く。
「時風さんって、フィールと仲がいいよね!」
「そうか?」
「うん! 何か、ずっと前から知ってるみたいだった!」
「はははっ! まあ、長い付き合いだからな!」
ミアが片眉を上げた。
「……どれくらい?」
「そりゃもう、あいつが生まれた頃からさ!」
「えっ!?」
エリシアが身を乗り出した。
「じゃあ、赤ちゃんの頃のフィールも知ってるの!?」
「もちろん!」
「どんな子だった!?」
「よく泣いて、よく笑って、目を離すとすぐどっか行く奴だったな!」
「へえー!」
エリシアは目を輝かせた。
「今のフィールからは想像できないかも!」
「いやいや、今も大して変わらんぞ!」
時風は大笑いした。
ミアはその様子を見ながら首を傾げた。
「……それにしても、時風さんって本当に顔が広いのね」
「人付き合いは大事だからな!」
「その割には、昨日まで昔からの知り合いだって教えてくれなかったけど」
「聞かれなかったからな!」
「……そう」
ミアは追及するのを諦めた。
ジョシュアは時風を見つめた。
「……時風さん」
「ん?」
「フィールさんは、昔から勝負が好きだったんですか?」
「おう!」
時風は即答した。
「負けず嫌いでなあ。負けるとすぐもう一回って言い出すんだ!」
「……そうなんですね」
「勝ってももう一回って言うけどな!」
エリシアが笑った。
「それ、ずっと遊び続けることにならない?」
「そうなんだよ!」
時風は楽しそうに頷いた。
「昔はよく付き合わされたもんさ!」
ジョシュアも小さく笑った。
その笑顔を見ながら、時風は焼き菓子を一つ口に放り込んだ。
馬車は揺れながら、街道を進んでいった。
◇
同じ頃。
《黄金の館》の最上階。
フィールは、執務室の机に向かっていた。
目の前には、一枚の白い紙が置かれている。
羽根ペンを握ったまま、もう随分と時間が経っていた。
「……うーん」
フィールは唸った。
書き出しが決まらない。
いや、書きたいことは決まっている。
問題は、それをどう伝えるかだった。
机の端には、すでに何枚もの書き損じた紙が積み上がっていた。
『お父さんへ』
そこまで書いて、手が止まる。
「……何か違う」
フィールは紙を裏返した。
新しい紙を取り出す。
『時風へ』
「……これも違うなあ」
彼女は椅子の背もたれに身体を預けた。
普段なら、こんなことにはならない。
父親に何か言いたい時は、直接言えばよかった。
もっとも、言ったところで真面目に聞いてくれるとは限らない。
困っていると話せば笑い、怒ればさらに笑う。
何かを教えてほしいと頼んでも、肝心なところははぐらかされる。
そういう父親だった。
「……ほんっと、困ったお父さんだよね」
フィールは小さく呟いた。
それでも、嫌いにはなれなかった。
昔から、ずっとそうだった。
時風は何かを強制することがなかった。
転んでも、失敗しても、勝負に負けても。
笑いながら、次はどうするのかと尋ねてくる。
助けを求めれば、気まぐれに手を貸してくれることもある。
けれど、何もかも解決してくれるわけではない。
むしろ、こちらが一番困っている時ほど、面白そうに眺めていることさえあった。
フィールは机の引き出しを開けた。
中から、小さな木製の駒を取り出す。
赤く塗られた道化師の駒。
幼い頃、父親と遊んだ盤上遊戯のものだった。
「……ねえ、お父さん」
駒を指先で転がしながら、呟く。
「今度は、どうすればいいと思う?」
答えは返ってこなかった。
当然だった。
時風は今朝、《煌めき通り》を出発している。
昨日の競技会にも来ていたらしい。
それを聞いた時、少しだけ顔を見に行こうと思った。
けれど、結局行かなかった。
執務室に積み上がった書類。
幹部たちからの報告。
そして、《運命変換器》。
それらを前にすると、どうしても席を立てなかった。
今となっては、会いに行けばよかったと思う。
「……お父さんなら、分かるのかな」
フィールは机の上に置かれた別の書類へ視線を向けた。
《運命変換器》。
幸運を集め、別の誰かへ与える遺物。
その製作者が誰なのか、フィールは知っている。
だからこそ、誰にでも相談できる話ではなかった。
ヴァルターにも教えていない。
技術者たちにも。
ほかの幹部たちにも。
その名前を知ったところで、彼らに装置の仕組みを理解できるとは思えなかったし、何より、知られたくなかった。
けれど、父親なら。
『作者』である時風なら。
何かを知っているかもしれない。
いや、知っていてもおかしくない。
ただし、教えてくれるかどうかは別問題だった。
「……絶対、笑うよね」
フィールは苦笑した。
目に浮かぶようだった。
『はははっ! そりゃ大変だな!』
きっと、そんなことを言う。
そして、何をどうすればいいのか尋ねても、簡単には答えてくれない。
それでも。
会って、話したかった。
装置のことだけではない。
自分が何をしてしまったのか。
何を間違えたのか。
これから、どうしたいのか。
その全部を。
「……よし」
フィールは新しい紙を取り出した。
今度は、迷わずペンを走らせた。
『お父さんへ。
この前は久しぶりに会えて嬉しかったよ。
本当は、もっと話したかったんだけど、忙しくて会いに行けなかった。
今、ちょっと困ってることがあるんだ。
私が始めたことなのに、どうしたらいいか分からなくなっちゃった。
お父さんなら、何か知ってるかもしれないと思って。
でも、全部教えてほしいわけじゃないよ。
ただ、少しだけ話を聞いてほしい。
できれば、ほかの人には内緒で。
フィールより。』
書き終えたフィールは、手紙を見つめた。
「……うん」
少しだけ、肩の力が抜けた。
これなら、伝わるだろうか。
父親は、きっと笑う。
それでも、読んではくれるはずだった。
フィールは手紙を折り畳み、封筒に入れた。
その時。
「フィール」
扉の向こうから声がした。
「入るわよ」
「……セレナ?」
扉が開く。
黒い外套を羽織った女性が、いつもの落ち着いた足取りで入ってきた。
「何してるの?」
「……手紙を書いてた」
「誰に?」
フィールは封筒を持ち上げた。
「お父さん」
セレナは目を細めた。
「……時風に?」
「うん」
「そう」
彼女は向かいの椅子に腰掛けた。
「珍しいわね。あなたがあの人に手紙なんて」
「……だって、もう街を出ちゃったんだもん」
「そうね」
セレナは頷いた。
「今朝、王都へ向かったみたいよ」
フィールは少し俯いた。
「……昨日、会いに行けばよかった」
「忙しかったんでしょう?」
「うん」
「だったら、仕方ないわ」
「……でも」
フィールは封筒を見つめた。
「お父さんに、聞きたいことがあったんだ」
セレナは黙っていた。
何を聞きたいのか。
わざわざ尋ねる必要はなかった。
今のフィールが悩んでいることなど、一つしか思い当たらない。
「……例の遺物?」
フィールは小さく頷いた。
「うん」
セレナは椅子に深く腰掛けた。
「時風なら、何か知ってるかもしれないわね」
「……うん」
「でも、教えてくれるとは限らないわよ」
「知ってる」
フィールは苦笑した。
「お父さんだもん」
その言い方に、セレナも小さく笑った。
「そうね」
しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
やがて、フィールが口を開く。
「……セレナ」
「何?」
「私、間違えたのかな」
セレナはすぐには答えなかった。
フィールは続ける。
「最初は、もっと簡単なことだと思ってた」
机の上の報告書へ視線を向ける。
「幸運が足りない人に、少しだけ分けてあげる。それで誰かが笑顔になるなら、いいことなんじゃないかって」
「……そうね」
「でも、誰かにあげるためには、別の誰かから取らなきゃいけない」
フィールは唇を噛んだ。
「それも、分かってた」
セレナは黙って聞いていた。
「だから、最初は対象を限ってた。賭場で大きな利益を狙う人たちだけにして、影響が広がらないようにしたつもりだった」
「……ええ」
「でも、ヴァルターが勝手に範囲を広げて……」
そこで、フィールは言葉を止めた。
しばらくして、首を振る。
「……違う」
「フィール?」
「それだけじゃない」
彼女は顔を上げた。
「ヴァルターが勝手にやったからって、全部あの人のせいにしたら駄目だよね」
セレナは何も言わなかった。
「最初に使うって決めたのは、私なんだから」
その声は、小さかった。
けれど、はっきりとしていた。
セレナはゆっくりと頷いた。
「……そうね」
慰めるために否定することはしなかった。
フィールが求めているのは、そんな言葉ではないと分かっていたからだ。
「でも」
セレナは続けた。
「間違えたからって、何もできなくなるわけじゃないわ」
フィールが顔を上げる。
「……うん」
「大事なのは、これからどうするかでしょう?」
その言葉に、フィールは少しだけ目を見開いた。
昔、父親にも似たようなことを言われた気がした。
勝負に負けた時。
失敗して泣いていた時。
何もかも嫌になって、駒を投げ出した時。
『負けたなら、次はどうする?』
時風はいつも笑っていた。
その笑顔を思い出して、フィールは小さく息を吐いた。
「……そうだね」
セレナは立ち上がった。
「それで、その手紙はどうするの?」
「……届けたい」
「普通の配達係に渡すつもり?」
「うん。王都までなら、そんなに時間はかからないと思うし」
「やめておきなさい」
セレナは即答した。
フィールが首を傾げる。
「……どうして?」
「ヴァルターが、最近あなたの周囲を気にしてるの」
「……ヴァルターが?」
「ええ」
セレナは腕を組んだ。
「あなたが誰と会って、何を話しているのか。妙に知りたがってるわ」
フィールの表情が曇った。
「……そんなことまで?」
「だから、私が預かる」
セレナは手を差し出した。
「信用できる人間に届けさせるわ」
フィールは少し迷った。
けれど、セレナなら大丈夫だと思った。
父親のことを知っている。
昔から、自分のことも知っている。
何より、今まで一度も、自分の秘密を勝手に他人へ話したことがなかった。
「……お願い」
フィールは封筒を差し出した。
セレナは受け取った。
「任せて」
「……ありがとう」
「いいのよ」
セレナは微笑んだ。
そして、扉へ向かう。
その途中で、ふと足を止めた。
「そういえば」
「何?」
「時風に会えたら、何て言うつもり?」
フィールは少し考えた。
「……うーん」
そして、笑った。
「まずは、久しぶりって言うかな」
「この前会ったばかりでしょう?」
「そうだけど!」
フィールは頬を膨らませた。
「ちゃんと話せなかったんだもん!」
セレナは小さく笑った。
「……そうね」
扉を開ける。
「じゃあ、返事が来るのを待ってなさい」
「うん!」
フィールは頷いた。
扉が閉まる。
静かになった執務室で、フィールはもう一度、木製の駒を手に取った。
「……お父さん」
小さく呟く。
「今度は、ちゃんと話そうね」
◇
その日の夕方。
王都ユグド。
ジョシュアたちを乗せた馬車は、無事に城門を通過していた。
「着いたー!」
エリシアが大きく伸びをした。
「やっぱり王都は人が多いね!」
「《煌めき通り》も十分多かったと思うけど」
ミアが苦笑する。
「でも、こっちは落ち着くわ」
レオンが頷いた。
「慣れた場所だからね」
ダグラスは荷物を下ろしながら尋ねた。
「今日はこのまま解散するか?」
「そうね」
ミアが答えた。
「私は明日の朝、ルイを迎えに行かないといけないし」
「……今日じゃなくて、大丈夫なんですか?」
ジョシュアが尋ねる。
「ええ。保護院には明日の朝までお願いしてあるから」
ミアは頷いた。
「今日は家に戻って、掃除と買い物を済ませておくつもり」
「手伝おうか?」
エリシアが尋ねた。
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
ミアは笑った。
「ルイが帰ってきたら、しばらくゆっくりしてあげたいし」
「そっか!」
レオンが杖を持ち直した。
「じゃあ、次に集まる日を決めておこうか」
「明後日くらい?」
エリシアが提案する。
「それなら、ミアも少し休めるだろう」
ダグラスが頷いた。
「……いいと思います」
ジョシュアも答えた。
「じゃあ、明後日の昼、冒険者ギルドで」
レオンがまとめる。
「そこで、今回の調査を整理しよう」
「うん!」
エリシアは元気よく頷いた。
こうして、五人はそれぞれの帰路についた。
時風は最後まで楽しそうに手を振っていた。
「じゃあなー!」
「時風さんは、どこに行くの?」
エリシアが尋ねる。
「俺か?」
時風は笑った。
「ちょっと用事があるんだ!」
「用事?」
「そうそう!」
それ以上は説明しなかった。
エリシアは首を傾げたが、深く追及しなかった。
「じゃあ、またね!」
「おう!」
時風は大きく手を振った。
そして、人混みの中へ消えていった。
◇
王都の夜。
時風は、一軒の酒場に入っていた。
古びた木製の扉。
使い込まれた椅子。
壁には、何年も前の冒険者募集の紙が貼られている。
「おう、時風!」
店主が声をかけた。
「久しぶりだな!」
「はははっ! 元気だったか!」
「お前は相変わらずだな!」
時風はカウンターに腰掛けた。
「とりあえず、いつもの!」
「はいよ!」
店主が酒を注ぐ。
時風はそれを受け取り、楽しそうに笑った。
「いやあ、久しぶりの王都もいいもんだな!」
「どこ行ってたんだ?」
「ちょっと遊びにな!」
「またかよ!」
店主は呆れたように笑った。
時風は酒を一口飲んだ。
その時だった。
「……失礼します」
入口から、一人の男が入ってきた。
地味な外套。
目立たない服装。
男は店内を見回し、時風を見つけると近づいてきた。
「……時風様、でしょうか」
時風は振り向いた。
「ん?」
「お預かりしているものがございます」
男は封筒を差し出した。
時風は受け取る。
封筒には、見覚えのある筆跡があった。
「……ほう」
時風は楽しそうに笑った。
「フィールからか!」
男は軽く頭を下げた。
「それでは、失礼いたします」
そう言って、店を出ていった。
時風は封筒を開いた。
中の手紙を読む。
短い文章だった。
飾り気のない、素直な言葉。
読み終えた時風は、しばらく黙っていた。
そして。
「……はははっ!」
大きく笑った。
「そうかそうか!」
店主が振り向く。
「何だ、どうした?」
「いやあ!」
時風は手紙を丁寧に折り畳んだ。
「娘から手紙が来てな!」
「へえ! お前、娘がいたのか!?」
「いるぞ!」
「初耳だぞ!」
「言ってなかったからな!」
店主は呆れたように笑った。
「……お前、本当に何考えてるか分からねえな」
「はははっ!」
時風は大笑いした。
そして、酒をもう一口飲む。
「……さて」
彼は小さく呟いた。
「どう返事しようかなあ」
窓の外では、王都の夜が静かに更けていく。
遠く離れた《煌めき通り》では、今日も《運命変換器》が動き続けていた。
誰かの幸運を奪い。
別の誰かへ与えながら。
止まることなく。
ただ、回り続けていた。




