笑う男と片目の女
第33話 笑う男と片目の女
「……あの子、昔から変なところで責任を背負い込むでしょう」
「そうだなあ」
時風は笑ったまま答えた。
宿の裏手にある細い路地。
表通りの喧騒が遠くに聞こえる中、セレナは目の前の男を睨んでいた。
「笑い事じゃないのよ」
「笑っちゃいけないのか?」
「そういう話をしてるんじゃないわ」
セレナはため息をついた。
何年経っても、この男との会話は疲れる。
こちらが真剣になればなるほど、相手は楽しそうに笑う。
怒れば怒るほど、ますます面白がる。
昔からそうだった。
「……フィールは、あの遺物を止めようとしてる」
「ほう」
「でも、ヴァルターが止めさせないの」
「へえ」
「急に停止させると危険だとか、幸運の配分が乱れるとか、色々言ってるみたいだけど……」
セレナはそこで言葉を切った。
「……本当なの?」
時風は焼き菓子をもう一つ取り出した。
「何が?」
「装置を止めたら危険なのかって聞いてるの」
「さあなあ!」
セレナの眉が動いた。
「……あなたね」
「俺に聞かれても困るよ」
「嘘」
「ひどいなあ!」
時風は笑った。
「昔から俺のことを疑いすぎじゃないか?」
「疑う理由があるから疑ってるのよ」
セレナは腕を組んだ。
「あなたが本気で何かを隠そうとしたら、私には分からない。それくらい知ってるわ」
「買いかぶりすぎだって!」
「そういうところも変わらないわね」
時風は肩をすくめた。
セレナはしばらく黙っていたが、やがて声を落とした。
「……ねえ、時風」
「ん?」
「フィールを助けてくれない?」
その言葉だけは、冗談ではなかった。
セレナの表情から、いつもの皮肉っぽさが消えている。
「あの子、今でも自分が悪いと思ってるの」
「実際、使うことを決めたのはあいつだろ?」
「……そうよ」
セレナは否定しなかった。
「だから、何も悪くないとは言わない。でも、間違いに気づいたなら、やり直す機会くらいあってもいいでしょう?」
時風は答えなかった。
「ヴァルターは、あの子が罪悪感を抱いてることを知ってる。それを利用してるのよ」
「なるほどなあ」
「……何とかならない?」
時風は少しだけ首を傾げた。
「セレナ」
「何?」
「お前は、どうしたいんだ?」
セレナは目を瞬かせた。
「……どうしたいって」
「フィールを助けたいんだろ?」
「当たり前じゃない」
「じゃあ、助ければいいじゃないか!」
「簡単に言わないで」
セレナは眉をひそめた。
「私は警備を任されてる。勝手に地下へ踏み込んだら、ほかの幹部たちだって黙ってないわ」
「ほうほう」
「それに、装置を壊せば本当に何が起きるか分からない。あなたみたいに何でも笑って済ませられるわけじゃないのよ」
「はははっ!」
時風は楽しそうに笑った。
「そうかそうか!」
「……何が面白いの?」
「いやあ、昔を思い出してな!」
セレナは顔をしかめた。
「昔?」
「あいつが初めて大きな失敗をした時も、お前は同じ顔をしてたよ」
セレナは口を閉じた。
覚えている。
まだフィールが小さかった頃。
祭りの出し物を任された彼女は、張り切りすぎて準備していた仕掛けを壊してしまった。
泣きそうになりながら、何度も謝っていた。
その時、時風は笑って言ったのだ。
『壊れたなら直せばいいさ! 直せないなら、別の面白いことを考えよう!』
そして本当に、壊れた仕掛けの代わりに即興の曲芸を始めた。
客たちは大笑いした。
フィールも、最後には笑っていた。
「……あの頃とは違うわ」
セレナは呟いた。
「今回は、誰かが本当に傷ついてる」
「そうだな」
時風は頷いた。
その返事があまりに素直だったので、セレナは少し驚いた。
「だからこそ、あいつ自身がどうするかだろ?」
「……フィールが?」
「ああ」
時風は焼き菓子の袋を閉じた。
「誰かに間違いを片づけてもらうだけじゃ、また同じことになるかもしれないからな」
セレナは黙り込んだ。
その言葉は、妙に胸に残った。
「……あなたは、何もしないつもり?」
「さあ、どうだろうなあ!」
「またそれ……」
時風は笑った。
「ただ、まあ」
彼は少しだけ声を落とした。
「今は、あいつに考える時間が必要かもしれないな」
セレナは時風を見つめた。
この男が何を考えているのか、相変わらず分からない。
だが、少なくとも。
フィールを見捨てるつもりはない。
それだけは、何となく伝わってきた。
「……分かったわ」
セレナは息を吐いた。
「私も、できることをする」
「おお! いいじゃないか!」
「ただし」
セレナは人差し指を突きつけた。
「ヴァルターには、あなたのことを教えない」
「ん?」
「あの男、最近あなたを調べてるのよ」
「へえ!」
「昨日から、妙に熱心にね」
時風は楽しそうに笑った。
「そりゃ光栄だな!」
「……笑ってる場合じゃないわ」
「大丈夫だって!」
「何が大丈夫なのよ」
「何とかなるさ!」
セレナは額を押さえた。
「……本当に、昔から変わらないわね」
その時だった。
「時風さーん!」
表通りから、エリシアの声が響いた。
「まだー!?」
「おっと!」
時風は振り向いた。
「呼ばれてるな!」
「……仲間?」
「ああ! 元気な連中だよ!」
セレナは少し考えた。
「……あの子たちも、あなたのことを知ってるの?」
「何を?」
「……もういいわ」
セレナはため息をついた。
「行きなさい。待たせてるんでしょう」
「おう!」
時風は歩き出した。
だが、数歩進んだところで振り返った。
「そうだ、セレナ!」
「何?」
「フィールに伝えといてくれ!」
「……何を?」
時風はにっこり笑った。
「たまには、昔みたいに遊ぼうってな!」
セレナは目を丸くした。
そして、思わず苦笑した。
「……本当に、あなたらしいわ」
時風は大きく手を振り、路地を出ていった。
セレナはその背中を見送った。
「……遊ぶ、ね」
小さく呟く。
今のフィールに、そんな余裕があるだろうか。
けれど。
あの男が言うのなら。
何か意味があるのかもしれない。
◇
「遅い!」
宿の前に戻ると、ミアが腰に手を当てていた。
「ごめんごめん!」
時風は笑った。
「ちょっと知り合いに会ってな!」
「知り合い?」
エリシアが首を傾げる。
「この街にもいるんだ?」
「そりゃいるさ!」
「どんな人?」
「怖い女だよ!」
時風は大笑いした。
ミアが呆れたように呟く。
「……何となく、相手の苦労が分かるわ」
「はははっ!」
ダグラスが御者台から声をかけた。
「そろそろ出発するぞ!」
「おう!」
六人は馬車に乗り込んだ。
馬が歩き始める。
石畳を車輪が転がり、宿の看板が少しずつ遠ざかっていった。
ジョシュアは窓から街を眺めていた。
華やかな建物。
行き交う人々。
大通りの向こうに見える《黄金の館》。
「……また、来るんでしょうか」
ジョシュアが呟いた。
「ん?」
エリシアが振り向く。
「どうしたの?」
「……この街に」
エリシアは少し考えた。
「うん!」
そして、笑った。
「だって、まだ調査が終わってないもん!」
「……そうですね」
「それに、フィールともまた遊びたいし!」
ジョシュアは小さく頷いた。
「……はい」
レオンが窓の外を見た。
「ただ、次に来る時は、もう少し準備しておきたいね」
「準備?」
「うん。今回の調査で分かったことを整理して、必要な情報を集めておくんだ」
ミアが頷く。
「そうね。何も分からないまま歩き回るより、ずっといいわ」
「俺も賛成だ」
ダグラスが答えた。
「次は、もう少し役に立てるようにしたいな」
エリシアは拳を握った。
「よーし! じゃあ、王都に戻ったら作戦会議だね!」
「……その前に、ルイを迎えに行かせて」
ミアが苦笑する。
「あっ、そうだった!」
馬車の中に笑い声が広がった。
時風はそんな五人を眺めながら、満足そうに頷いていた。
「いいねえ!」
そして、窓の外へ目を向ける。
遠ざかる《煌めき通り》。
その中心にそびえる《黄金の館》。
時風は小さく笑った。
「……さてさて」
誰にも聞こえないほどの声で呟く。
「どうなるかなあ」
◇
同じ頃。
《黄金の館》では、幹部たちによる会議が開かれていた。
長い楕円形の卓。
その周囲に、数人の男女が座っている。
上座にはフィール。
その右側にヴァルター。
左側には、セレナの席があった。
さらに、ほかの幹部たちも顔を揃えていた。
商業部門を統括する、エドガー・リンド。
金色の指輪をいくつも嵌めた、恰幅のよい中年男性。
娯楽施設を管理する、リディア・ベルモント。
赤い髪を結い上げた、華やかな服装の女性。
そして、街の情報網を取り仕切る、ノクス・レイヴン。
黒い手袋を嵌めた、痩せた青年だった。
「……では、報告を始めます」
ヴァルターが立ち上がった。
「まず、中央区画における収集状況について」
フィールの表情が険しくなる。
「……また、その話?」
「重要な問題ですので」
ヴァルターは穏やかに答えた。
「ここ数日、一部の対象から幸運を収集できなくなる現象が発生しています」
エドガーが眉をひそめた。
「それは、商売に影響するのか?」
「現時点では、配分量に大きな変化はありません」
「なら問題ないだろう」
「ですが」
ヴァルターは続けた。
「収集できない対象が増えたことで、ほかの対象からの収集量が増加しています」
リディアが扇子を閉じた。
「……それって、最近客が荒れてる原因じゃないの?」
「可能性はあります」
「可能性?」
リディアは目を細めた。
「昨日、うちの劇場でも客同士の喧嘩があったのよ。普段なら笑って済ませるようなことで、殴り合いになったわ」
セレナが頷いた。
「警備への通報も増えてる」
「しかし、収集そのものは以前から行われています」
ヴァルターが答えた。
「現在の問題が、必ずしも装置によるものとは限りません」
「……そうかしら」
リディアは不満そうだった。
その時。
「もう、やめようよ」
フィールが口を開いた。
全員の視線が集まる。
「これ以上、街の人たちを巻き込みたくない」
ヴァルターが微笑んだ。
「フィール様。お気持ちは理解しておりますが……」
「危険なんでしょ?」
フィールが遮った。
「急に止めると、何が起きるか分からないって」
「……はい」
「でも、それって本当に確かなことなの?」
ヴァルターの笑みが、わずかに止まった。
「……と、おっしゃいますと?」
「技術者たちは、装置の仕組みを理解してないんだよね?」
「それは……」
「だったら、どうして止めた時だけ危険だって分かるの?」
会議室が静まり返った。
セレナは黙ってフィールを見つめていた。
ヴァルターはゆっくりと答えた。
「危険であると断定しているわけではありません。可能性を考慮しているのです」
「……可能性」
「ええ。万が一、停止によって予期しない影響が発生した場合、責任を取ることができません」
フィールは唇を噛んだ。
ヴァルターは続ける。
「ですから、慎重に進めるべきだと申し上げているのです」
「……でも」
フィールが言いかけたところで。
「一つ、よろしいかしら」
セレナが口を開いた。
ヴァルターが振り向く。
「何でしょう、セレナ殿」
「停止する危険性が分からないのなら、動かし続ける危険性も分からないんじゃない?」
ヴァルターは黙った。
セレナは続けた。
「現に、街では不運が増えてる。警備への通報も増えてる。なのに、装置を動かし続ける方が安全だと言える根拠はあるの?」
「……それは」
「少なくとも、私にはないように思えるわ」
エドガーが口を挟んだ。
「だが、今さら止めたら損失が出るぞ」
「損失?」
セレナが振り向く。
「ええ。契約している商人たちへの配分もある。急に供給を止めれば、信用問題になる」
「……人が怪我をするより大事?」
「そうは言っていない!」
エドガーは顔をしかめた。
リディアが小さく笑った。
「でも、そう聞こえるわね」
「何だと?」
「やめなさい」
フィールが言った。
その声は、いつもの明るいものではなかった。
「……喧嘩しないで」
会議室が静かになる。
フィールはゆっくりと顔を上げた。
「私、もう一度考えたい」
ヴァルターが眉を動かした。
「……何を、でしょうか」
「《運命変換器》を、どうするか」
フィールは全員を見渡した。
「今までみたいに、ただ動かし続けるんじゃなくて」
少しだけ、声が震えた。
「本当に必要なのか。止めるなら、どうすればいいのか」
そして、はっきりと言った。
「ちゃんと、私たちで決めたい」
セレナは小さく微笑んだ。
ヴァルターは表情を変えなかった。
ただ、机の下で指を組み直した。
「……承知いたしました」
彼は静かに頭を下げた。
「では、改めて検討いたしましょう」
その声は、どこまでも穏やかだった。
◇
会議が終わった後。
セレナは廊下を歩いていた。
「……少しは、変わったかしら」
小さく呟く。
フィールは、自分で考え始めている。
それは良いことだった。
だが、まだ足りない。
ヴァルターは簡単には引き下がらないだろう。
商業部門も、利益を失うことを嫌がる。
ほかの幹部たちも、それぞれの思惑を抱えている。
セレナは窓の外を見た。
遠くに、王都へ続く街道が見える。
「……時風」
彼女は小さく笑った。
「あなた、本当に何を考えてるのかしら」
その時。
「セレナ殿」
背後から声がした。
振り向くと、ヴァルターが立っていた。
「……何かしら」
「少々、お伺いしたいことがありまして」
ヴァルターは穏やかに微笑んだ。
「最近、この街で妙な行動をしている男性について、ご存じありませんか?」
セレナの表情は変わらなかった。
「妙な行動?」
「ええ。困っている住民に幸運を祈って回っているそうです」
「……へえ」
「どうやら、収集状況の変化と関係がある可能性がありまして」
セレナは肩をすくめた。
「祈っただけで幸運が変わるなら、面白い話ね」
「まったくです」
ヴァルターは笑った。
「ですが、念のため調べておきたいのです」
「そう」
セレナは歩き出した。
「私は知らないわ」
「……左様ですか」
「ええ」
彼女は振り返らずに答えた。
「警備の仕事で忙しいの。ほかを当たってちょうだい」
ヴァルターはその背中を見送った。
やがて、静かに呟く。
「……なるほど」
セレナの姿が角を曲がって消える。
ヴァルターは微笑んだ。
「知らない、ですか」
その言葉を、彼が信じたかどうか。
廊下には、誰も答える者はいなかった。




