勝敗を分けるもの
第32話 勝敗を分けるもの
翌朝。
《黄金の館》の上階では、一人の男が三冊の帳簿を見比べていた。
ヴァルター。
灰色の髪を丁寧に撫でつけ、黒い礼服に身を包んだ男は、窓から差し込む朝日にも目を向けず、数字を追っていた。
昨日の収集記録。
一昨日の収集記録。
そして、三週間前の収集記録。
彼の指が、ある箇所で止まる。
「……南通り、ですか」
時計修理店の周辺。
それまで安定して幸運を収集できていた一帯で、昨日の午前から収集量が急激に落ち込んでいた。
同じ現象は、花屋や菓子店の周辺でも確認されている。
奇妙なのは、全体の収集量が大きく変わっていないことだった。
幸運を集められなくなった対象が現れる一方、別の対象からの収集量が増えている。
装置は不足分を補うように、残された人々から幸運を集め続けていた。
「……説明してください」
ヴァルターが顔を上げる。
向かいに立つ技術責任者は、緊張した面持ちで答えた。
「原因は不明です。起動状態も作用範囲も、設定に変更はございません」
「故障の可能性は?」
「判断できません」
「では、収集量が減った場所に共通する特徴は?」
「それも……」
技術責任者は言葉を濁した。
「我々が把握しているのは、収集と配分の結果だけです。装置の内部で何が起きているのかまでは分かりません」
「……そうでしたね」
ヴァルターは小さく息を吐いた。
《運命変換器》。
幸運を集め、別の誰かへ与える遺物。
その表向きの能力は理解している。
だが、なぜそんなことが可能なのか。
装置が何を基準に対象を選び、どのように幸運を移動させているのか。
それを説明できる者はいなかった。
技術部門が扱えるのは、起動と作用範囲の設定だけ。
だからこそ、今回の異常は厄介だった。
「引き続き、記録を取ってください」
「承知いたしました」
「それと、フィール様にはまだ報告しないように」
技術責任者が顔を上げる。
「……よろしいのでしょうか」
「原因も分からない段階で報告しても、余計な混乱を招くだけです」
「……かしこまりました」
男が退出すると、ヴァルターは別の書類を取り出した。
街の警備担当者から提出された、最近の不審者に関する報告書だった。
数日前から、不運が続く店を訪ね歩いている冒険者たちがいる。
若い剣士。
魔法使い。
獣人の少女。
大盾を持った青年。
そして、素性の分からない若者。
彼らには、もう一人同行者がいた。
昨日、その男は南通りの住民たちに、奇妙なことをしていたという。
「……幸運を祈る?」
ヴァルターは眉をひそめた。
報告書を読み進める。
時計修理店。
花屋。
菓子店。
運搬人。
彼らが訪れた場所と、収集量が減少した場所。
それが、ほとんど一致していた。
「……なるほど」
偶然かもしれない。
祈りなどという曖昧な行為が、遺物に影響を与えるとは考えにくい。
しかし、偶然と切り捨てるには一致しすぎている。
ヴァルターは机の呼び鈴を鳴らした。
従業員が入ってくる。
「お呼びでしょうか」
「本日の午後、《黄金の館》で小規模な競技会を開催します」
「競技会、ですか?」
「ええ。参加費は無料。優勝賞金は一万ユグド」
従業員は驚いたように顔を上げた。
「一万ユグド……かなりの金額ですが」
「構いません」
「競技内容はいかがいたしましょう」
「私が用意します」
ヴァルターは報告書を閉じた。
「それと、こちらの冒険者たちへ招待状を」
「承知いたしました」
「参加を強制する必要はありません。興味を持っていただけるよう、丁寧にお誘いしてください」
従業員が一礼して退出する。
ヴァルターは窓の外を見た。
朝の《煌めき通り》には、今日も大勢の人々が行き交っている。
「……さて」
彼は小さく笑った。
「どのような方々なのでしょうね」
◇
「……明日には帰らないと駄目ね」
宿の食堂。
ミアは届いたばかりの手紙を読み終え、小さく息を吐いた。
「ルイ君から?」
エリシアが尋ねる。
「保護院の先生からよ」
ミアは手紙を折り畳んだ。
「ルイは元気にしてるって。ただ、宿泊の延長は明後日の朝までしか受けられないみたい」
「……明後日?」
ジョシュアが尋ねる。
「ええ。ここから王都までの移動時間を考えると、明日の朝には出発しないと間に合わないわ」
ミアは苦笑した。
「あの子、私がいないと夜更かしするから心配なのよね」
「それなら、今日中に調査をまとめよう」
レオンが言った。
「マルセルさんへの報告も必要だしね」
「……でも、まだ分からないことが多いよ?」
エリシアが不安そうに尋ねる。
「そうだね」
レオンは頷いた。
「不運が増えていることは確かだ。でも、その原因を説明できる証拠は見つかっていない」
ダグラスが腕を組んだ。
「昨日、時風さんが祈った人たちの様子はどうなんだ?」
「今のところ、運が良くなったように見えるわ」
ミアが答える。
「ただ、それが本当にお祈りのおかげなのかは分からない」
「はははっ! そう難しく考えるなって!」
時風は朝食のパンを頬張りながら笑った。
「困ってた人たちが喜んでるんだから、いいことじゃないか!」
「それはそうだけど……」
ミアは時風を見た。
「……本当に、ただお祈りしただけなの?」
「もちろん!」
「……絶対、何か隠してるでしょ」
「秘密の祈り方でも教えようか?」
「そういう話じゃないわよ!」
エリシアが笑った。
ジョシュアも、つられて小さく微笑む。
その時だった。
「失礼いたします」
食堂の入口から、宿の従業員が声をかけてきた。
「皆様宛てに、お手紙をお預かりしております」
「……手紙?」
ジョシュアが顔を上げる。
差し出された封筒には、金色の星が描かれていた。
◇
「……競技会?」
レオンが招待状を読み上げた。
『本日午後二時、《黄金の館》にて特別競技会を開催いたします。
参加費無料。
優勝賞金、一万ユグド。
競技内容は、知恵と判断力を競う卓上遊戯。
皆様のご参加を、心よりお待ちしております。』
末尾には、丁寧な筆跡で署名があった。
ヴァルター。
「一万ユグド!?」
ミアの耳がぴんと立った。
「……そんなに大きい金額なんですか?」
ジョシュアが尋ねる。
「大きいなんてもんじゃないわよ!」
ミアは身を乗り出した。
「参加費無料で一万ユグドなんて、普通はあり得ないわ!」
「すごい!」
エリシアが目を輝かせる。
「じゃあ、参加しようよ!」
「待って」
レオンが招待状を見つめた。
「気になることがある」
「何?」
「僕たちは昨日、《黄金の館》に行った。そして今日は、わざわざ宿まで招待状が届いている」
ダグラスが頷く。
「俺たちに参加してほしい理由があるのかもしれないな」
「……この人、誰なんでしょう?」
ジョシュアが署名を指さした。
「ヴァルター……か」
レオンが名前を読み上げる。
「《黄金の館》の関係者だろうね。こんな催しを開けるくらいだから、相応の立場にいる人だと思う」
「……そうですね」
ジョシュアは少し考えた。
「……それなら、街で起きていることについて、何か知っているかもしれません」
「可能性はあるね」
レオンが頷く。
「少なくとも、話を聞いてみる価値はありそうだ」
「でも、相手が何を考えてるか分からないわよ?」
ミアが言った。
「それなら、なおさら慎重に行動しよう」
ダグラスが答える。
「正式な催しなら、人目もある。何かあれば、すぐに引き上げればいい」
「……そうね」
ミアは頷いた。
「ただし、参加費が無料でも、別の賭けに誘われたら断ること。いい?」
「はーい!」
エリシアが元気よく返事をした。
「……あなたが一番心配なのよ」
「えへへ」
時風は楽しそうに笑っていた。
「いいねえ! 面白そうじゃないか!」
「時風さんも参加するの?」
「俺は見学にしとくよ」
「えー!」
「若い奴らの活躍を見るのも楽しいからな!」
時風はそう言って、残っていたパンを口に放り込んだ。
◇
午後二時。
《黄金の館》の一角には、特設の競技場が設けられていた。
中央には円形の卓。
その周囲を、観客席が取り囲んでいる。
天井から吊るされた照明が、磨き上げられた床を照らしていた。
「……すごい」
エリシアが周囲を見回す。
「昨日より人が多い!」
「賞金が一万ユグドだからね」
レオンが答えた。
参加者には商人らしい男や旅装束の女性、高価な服を着た青年などがいた。
明らかに賭場慣れした様子の老人もいる。
「……強そうな人が多いわね」
ミアが呟く。
「大丈夫!」
エリシアは胸を張った。
「頭を使う勝負なら、レオンがいるし!」
「僕に全部押しつけるつもり?」
「えへへ」
レオンは苦笑した。
その時だった。
「皆様、お待たせいたしました」
落ち着いた声が響いた。
卓の向こうから、一人の男が現れる。
黒い礼服。
胸元には、金色の星を模した装飾。
整えられた灰色の髪。
男は観客へ向かって、優雅に一礼した。
「本日の進行を務めます、ヴァルターと申します」
拍手が起こった。
「このたびは、私どもの競技会へお越しいただき、誠にありがとうございます」
エリシアが小声で呟く。
「あの人が招待状の……」
「そうみたいだね」
レオンが頷いた。
ヴァルターは微笑みながら、卓の上に小さな木箱を置いた。
「今回の競技は、単純な運だけでは勝てません」
箱の蓋が開かれる。
中には、白い石が並んでいた。
「必要なのは、相手の考えを読み、自らの選択を決める力」
ヴァルターは石を一つ摘まみ上げた。
「競技名は、《最後の一石》」
係員が、卓の上に二十一個の石を並べた。
「ルールは簡単です」
ヴァルターは指を一本立てる。
「二人で交互に石を取ります。一度に取れる数は一個から三個まで。取った石を戻すことはできません」
続いて、石を一個だけ残して他を脇へ寄せた。
「そして、最後の一個を取った者が敗北となります」
観客席がざわめいた。
「……最後を取ったら負け?」
エリシアが首を傾げる。
「そういうことみたいだね」
レオンが答えた。
「先手と後手は、対局ごとに抽選で決定します。対局中の相談は禁止。制限時間内に石を取らなかった場合も敗北です」
ヴァルターは微笑んだ。
「勝者は次の対局へ進み、最後まで勝ち残った方が優勝となります」
「……簡単そう」
エリシアが呟く。
「簡単な遊びほど、奥が深いものですよ」
ヴァルターは穏やかに答えた。
「どうぞ、皆様。存分にお楽しみください」
◇
最初の対局が始まった。
商人風の男と、旅装束の女性。
先手は商人だった。
「三個」
商人が石を取る。
残り十八個。
「二個」
女性が取る。
残り十六個。
「……三個」
商人が取る。
残り十三個。
女性は一個取った。
残り十二個。
商人は三個。
残り九個。
女性は一個。
残り八個。
商人は三個。
残り五個。
女性は一個。
残り四個。
商人は三個。
残り一個。
「……あ」
女性の顔が青ざめた。
取れる石は、最後の一個だけ。
「……負け、ですね」
女性は小さく呟き、その石を取った。
「勝者、先手!」
係員が宣言した。
拍手が起こる。
エリシアは首を傾げた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
ミアが尋ねる。
「何か、最後だけ急に決まった気がして」
レオンは卓を見つめていた。
「……なるほど」
「分かったの?」
「少しだけね」
レオンは指を折り始めた。
「最後の一個を相手に渡せば勝ち。つまり、自分の番が終わった時点で一個残せればいい」
「うん」
「その一つ前を考えると……」
レオンは小さく呟いた。
「五個、九個、十三個……」
ジョシュアが顔を上げた。
「……四個ずつ?」
「そう」
レオンは微笑んだ。
「五個残っている状態で自分の番が来ると、何個取っても相手に一個から三個残る。相手は一個残すように取れるから、こちらが負ける」
エリシアが首を傾げる。
「……つまり?」
「一個、五個、九個、十三個、十七個、二十一個」
レオンは卓の石を指さした。
「この数で自分の番が来ると、相手が間違えない限り勝てない」
「えっ!?」
エリシアが驚いた。
「じゃあ、最初から二十一個って……」
「先手が不利だね」
レオンは頷いた。
「後手が正しく対応すれば、必ず勝てる」
ミアが眉をひそめた。
「それ、先手になったらどうするの?」
「相手が間違えるのを待つしかない」
「……そんな」
ダグラスが腕を組んだ。
「運だけでは勝てないと言っていたが、先手と後手を決める抽選は重要なんだな」
「そういうことだね」
レオンは頷いた。
ジョシュアは卓を見つめていた。
二十一個の石。
最後を取った者が負け。
相手が正しく打てば、先手は勝てない。
「……でも」
ジョシュアが小さく呟く。
「……相手が、間違えたら」
レオンが振り向いた。
「そう。そこが勝負になる」
◇
対局は次々と進んだ。
エリシアは初戦で先手を引き、あっさり敗北した。
「うわああっ!」
卓に突っ伏す。
「何もできなかった!」
「相手が間違えなかったからね」
レオンが苦笑する。
「くやしい!」
ダグラスも先手を引いた。
途中まで粘ったものの、相手が正確に石を取り続け、敗北。
ミアは後手を引き、危なげなく勝利した。
「……なるほどね」
ミアは残った石を見つめた。
「一個取られたら三個。二個取られたら二個。三個取られたら一個」
「そういうこと」
レオンが頷く。
「相手と自分で、合計四個ずつ取ればいい」
ミアは少し得意そうに笑った。
「これなら覚えられるわ」
レオン自身も後手を引き、勝利した。
そして。
「次の対局!」
係員が声を上げた。
「ジョシュア様、前へ!」
ジョシュアはゆっくり立ち上がった。
「……はい」
対戦相手は、賭場慣れした様子の老人だった。
老人はジョシュアを見るなり、小さく笑った。
「若いの。こういう遊びは初めてか?」
「……はい」
「そうかそうか」
老人は楽しそうに頷いた。
「なら、少し教えてやろう」
係員が抽選箱を差し出す。
老人が札を引く。
そこには、後手と書かれていた。
「……ほう」
老人の口元が緩む。
ジョシュアは先手。
卓には、二十一個の石。
「それでは、始めてください」
係員が宣言した。
ジョシュアは石を見つめた。
しばらく考える。
そして、一個取った。
残り二十個。
老人は三個取る。
残り十七個。
ジョシュアは二個取った。
残り十五個。
老人は二個取る。
残り十三個。
そこまでは、予想通りだった。
老人は微笑んだ。
「悪いが、勝負はもう決まっているぞ」
「……そうですね」
ジョシュアは頷いた。
そして、石を一個取った。
残り十二個。
老人は三個取る。
残り九個。
ジョシュアは二個取った。
残り七個。
老人は二個取る。
残り五個。
ジョシュアは一個取った。
残り四個。
老人は三個取った。
残り一個。
「……終わりだな」
老人が笑う。
ジョシュアは最後の石を見つめた。
「……はい」
そして、その一個を取った。
「勝者、後手!」
拍手が起こる。
ジョシュアは静かに席を立った。
「……ありがとうございました」
「礼儀正しい若者だ」
老人は満足そうに笑った。
観客席へ戻ると、エリシアが駆け寄ってきた。
「惜しかったね!」
「……うん」
「でも、途中まですごく頑張ってた!」
「……ありがとう」
レオンは少し不思議そうに尋ねた。
「ジョシュア。途中で、勝てないことには気づいていたよね?」
「……うん」
「なら、どうして最後まで同じように取ったんだい?」
ジョシュアは少し考えた。
「……相手が、どう取るのか見たかったから」
「……なるほど」
レオンは頷いた。
「相手が間違えないか、確かめていたんだね」
「……うん」
ジョシュアは卓を見つめた。
勝てない勝負だった。
少なくとも、相手が正しく打ち続ける限り。
それでも、最後まで考えることはできる。
相手の選択を見て、次を予測することはできる。
そのことが、少しだけ面白かった。
◇
競技会が進むにつれ、会場の空気が変わっていった。
後手が圧倒的に有利。
その事実に気づいた参加者たちは、抽選結果に一喜一憂するようになった。
先手を引いた者は落胆し、後手を引いた者は安堵する。
だが、全員が正しく打てるわけではなかった。
焦って石を取りすぎる者。
残りの数を数え間違える者。
勝ちを急いで、最後の一個を取ってしまう者。
そうした小さな失敗が、時折、勝敗をひっくり返した。
ミアは二回戦で敗れた。
後手だったにもかかわらず、途中で一個多く取ってしまったのだ。
「……やっちゃった」
ミアは額を押さえた。
「残りの数、ちゃんと数えてたつもりなのに……」
「惜しかったね」
レオンが慰める。
「……あなたは勝ってるから余裕ね」
「いや、そんなことは……」
「あるでしょ」
ミアは頬を膨らませた。
そのレオンも、次の対局で先手を引き、敗北した。
こうして、五人全員が競技から脱落した。
「……結局、誰も優勝できなかったね」
エリシアが苦笑する。
「まあ、そう簡単にはいかないさ」
ダグラスが答えた。
その時だった。
「皆様、お疲れ様でございました」
ヴァルターが近づいてきた。
彼は五人へ向かって、丁寧に一礼した。
「いかがでしたか? 今回の競技は」
「面白かったです!」
エリシアが答える。
「でも、先手が不利すぎませんか?」
「おや」
ヴァルターは微笑んだ。
「お気づきになりましたか」
「レオンが教えてくれたんです!」
「なるほど」
ヴァルターはレオンへ視線を向けた。
「優秀でいらっしゃる」
「いえ、単純な規則ですから」
レオンは軽く頭を下げた。
「ただ、最初から先手が不利なことを承知で競技を開いたのは、少し意地が悪いですね」
ヴァルターは小さく笑った。
「その通りです」
「……認めるんですか?」
ミアが驚く。
「ええ」
ヴァルターは頷いた。
「この遊戯では、最初の抽選が大きな意味を持ちます。しかし、抽選で後手を得たからといって、必ず勝てるとは限らない」
彼は卓へ視線を向けた。
「有利な立場を与えられても、それを生かせなければ敗北する。逆に、不利な立場でも、相手の失敗によって勝機が生まれる」
ジョシュアは黙って聞いていた。
「……まるで、人生のようでしょう?」
ヴァルターが微笑む。
エリシアは首を傾げた。
「……そうですか?」
「ええ」
ヴァルターは静かに続けた。
「幸運に恵まれる者もいれば、不運に見舞われる者もいる。それでも、最後に結果を決めるのは本人の選択です」
その言葉に、ジョシュアは顔を上げた。
「……でも」
「はい?」
「……最初から、勝てない場合もありますよね」
ヴァルターの笑みが、わずかに止まった。
「……と、おっしゃいますと?」
「……相手が間違えなければ、先手は勝てません」
ジョシュアは静かに言った。
「……どれだけ考えても、どれだけ頑張っても」
レオンが小さく頷いた。
「確かに、完全に正しい手を選び続ける相手には、先手の勝ち筋がありません」
ヴァルターは二人を見つめた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……おっしゃる通りです」
彼は手袋を直した。
「ですが、それでも人は勝負をする」
「……はい」
「なぜでしょう?」
ジョシュアは少し考えた。
「……分かりません」
「そうですか」
ヴァルターは穏やかに頷いた。
「では、いつか答えが見つかるとよろしいですね」
そして、五人へ一礼した。
「本日はご参加いただき、ありがとうございました」
◇
競技会が終わった後。
ジョシュアたちは《黄金の館》を出ようとしていた。
「……何だか、変な人だったね」
エリシアが呟く。
「ヴァルターさん?」
レオンが尋ねる。
「うん。ずっと笑ってたけど、何考えてるのか分からなかった」
「……同感だね」
レオンは頷いた。
ミアが腕を組む。
「それに、あの競技会。何だか私たちを見ていたような気がするのよね」
「考えすぎじゃないか?」
ダグラスが尋ねる。
「そうかもしれないけど……」
ミアは首を傾げた。
ジョシュアは振り返った。
《黄金の館》の奥。
金色の装飾が施された階段。
その上階へ続く通路。
昨日、フィールが従業員に呼ばれて向かった場所。
「……フィールさん」
ジョシュアが小さく呟く。
「ん?」
エリシアが振り向いた。
「どうしたの?」
「……今日は、いないんですね」
「ああ、そういえば!」
エリシアが周囲を見回す。
「昨日は一緒に遊んだのにね」
「忙しいんじゃないかな」
レオンが答えた。
「従業員の人たちも、ずいぶん気を遣っていたし」
「……そうだね」
ジョシュアは頷いた。
その時。
「おーい!」
聞き慣れた声が響いた。
時風だった。
彼は入口近くの柱にもたれ、楽しそうに手を振っていた。
「終わったかー?」
「時風さん!」
エリシアが駆け寄る。
「見てた!?」
「もちろん!」
「私、すぐ負けちゃった!」
「はははっ! 見事な負けっぷりだったな!」
「そこは慰めてよ!」
時風は大笑いした。
ミアがため息をつく。
「……もう、帰りましょう」
「そうだな!」
時風は頷いた。
「明日は王都へ戻るんだろ?」
「ええ。朝一番で出るつもり」
「なら、今日は早めに休まないとな!」
六人は《黄金の館》を後にした。
◇
上階の執務室。
ヴァルターは、窓の外を眺めていた。
大通りを歩く六人の姿が、人混みの中へ消えていく。
その背中を見送りながら、彼は机の上の報告書を開いた。
時計修理店。
花屋。
菓子店。
そして、幸運を祈る男。
報告書に記された特徴と、先ほど見かけた年長の同行者の姿が重なる。
「……あの方ですか」
ヴァルターは小さく呟いた。
競技会の間、男は一度も参加しなかった。
観客席で笑い、時折拍手を送り、周囲の者と談笑していただけ。
不審な行動は何もなかった。
それが、かえって気にかかった。
ヴァルターは呼び鈴を鳴らした。
従業員が入ってくる。
「お呼びでしょうか」
「先ほどの冒険者たちについて、引き続き調査を」
「承知いたしました」
「特に、同行している年長の男性を重点的に」
従業員は頭を下げた。
「かしこまりました」
「それから、南通りの収集記録をもう一度確認してください。昨日の訪問時刻と照合したい」
「承知いたしました」
従業員が退出する。
ヴァルターは椅子に腰掛けた。
「……さて」
彼は静かに笑った。
「どこまで、ご存じなのでしょうね」
その頃、地下では《運命変換器》が回り続けていた。
幸運を収集できない対象は、昨日よりも増えている。
その分、残された人々からの収集量は、さらに増加していた。
誰かが救われる一方で。
別の誰かが、理由も分からない不運に見舞われている。
それでも、装置は止まらない。
与えるべき幸運を集めるために。
ただ、動き続けていた。




