幸運を祈る人
第31話「幸運を祈る人」
翌朝。
《煌めき通り》は、今日も朝から賑わっていた。
夜通し営業していた賭場から出てくる客。開店準備を始める商人。眠そうな顔で荷物を運ぶ従業員。
そんな人々が行き交う大通りを、一台の荷馬車が走っていた。
「よし、もう少しだ」
手綱を握る男は、鼻歌交じりに馬を進める。
昨日までなら、こんな余裕はなかった。
荷物を積めば縄が切れる。
馬を走らせれば車輪が外れる。
無事に届けたと思えば、今度は届け先の主人が留守にしている。
この三週間、何をやってもうまくいかなかった。
ところが、昨日は違った。
荷物は全て時間通りに届き、急な追加注文まで舞い込んだ。帰り道では落とし物を拾い、持ち主から礼を言われた。
そして今朝も、出発前に車輪の留め具のひびを発見した。
気づかず走っていれば、途中で外れていたかもしれない。
「……いやあ、ついてるな」
男は思わず笑った。
久しぶりに、仕事が楽しい。
最後の荷物を届け終えたところで、男は見覚えのある人物を見つけた。
赤茶けた髪を揺らし、露店の前で焼き菓子を選んでいる男。
「あっ!」
御者は慌てて馬車を止めた。
「おーい! あんた!」
「ん?」
呼びかけられた時風が振り向く。
御者は荷台から飛び降り、その手を両手で握った。
「いやあ、助かったよ!」
「おお、昨日の!」
「そうだよ! 本当にありがとう!」
時風は目を丸くした。
「どうしたんだ、そんなに喜んで」
「どうしたもこうしたもない! あれから一度も事故が起きてないんだ!」
御者は昨日からの出来事を、身振り手振りを交えて話した。
追加注文。
落とし物。
車輪の留め具。
今朝の配達も、全て予定通りに終わったこと。
「三週間も散々だったのに、急に何もかもうまくいき始めたんだ!」
「そりゃよかったなあ!」
「絶対、あんたのおかげだよ!」
「はははっ!」
時風は楽しそうに笑った。
「俺は何もしてないよ?」
「そんなことあるか!」
「いやいや、本当に」
時風は人差し指を立てた。
「ちょっと運が良くなるように、お祈りしただけさ!」
「……お祈り?」
「ああ!」
時風は胸を張った。
「幸運が訪れますように、ってな!」
御者はぽかんとした。
そして、腹を抱えて笑った。
「はははっ! 何だそりゃ!」
「いいだろ?」
「ああ、最高だ!」
男はもう一度、時風の手を握った。
「何にせよ、ありがとう。久しぶりに安心して仕事ができたよ」
「それが一番だな!」
時風は笑って手を振った。
御者が馬車へ戻っていく。
その背中を見送りながら、時風は買ったばかりの焼き菓子を一口かじった。
「……うん、美味い!」
昨日、御者と別れる時にも、時風は同じように幸運を祈っていた。
それが何を意味するのか。
御者はもちろん、周囲にいた誰も気づいていなかった。
◇
「時風さーん!」
しばらくすると、大通りの向こうから声が聞こえてきた。
エリシアだった。
後ろにはジョシュア、レオン、ミア、ダグラスもいる。
「おお、エリシアちゃん!」
「やっと見つけた!」
エリシアは時風の前で足を止めた。
「朝ご飯を食べたらいなくなってたから、どこ行ったのかと思ったよ!」
「ちょっと散歩にな!」
「散歩?」
ミアが疑わしそうに目を細めた。
「……昨日の依頼はどうなったの?」
「ちゃんと進めてるぞ!」
「本当に?」
「もちろん!」
時風は笑った。
「ちょうど今、依頼人と話してたところだ」
「御者の人?」
「ああ!」
その時、荷馬車へ戻りかけていた御者が振り向いた。
「あんたの仲間かい?」
「そうそう!」
「そりゃいい!」
御者は五人に向かって頭を下げた。
「この人には世話になったんだ。おかげで、ずっと続いてた不運が嘘みたいになくなってな!」
「えっ?」
エリシアが目を丸くした。
「不運がなくなったの?」
「ああ! 昨日から何もかもうまくいく!」
「すごい!」
エリシアは勢いよく時風を振り向いた。
「何したの!?」
「何もしてないって!」
「またそれ!」
「ちょっとお祈りしただけだよ」
「……お祈り?」
ジョシュアが小さく尋ねた。
「幸運が訪れますように、ってな」
「……それだけですか?」
「それだけ!」
レオンが顎に手を当てた。
「祈りによって運勢が変化するというのは、興味深いね」
「いや、単なる偶然かもしれないぞ?」
時風はあっけらかんと答えた。
ミアは腕を組む。
「……お祈りだけで運が良くなるなら、誰も苦労しないと思うけど」
「そうだよなあ!」
「何で本人が同意するのよ!」
時風は笑った。
しかし、エリシアは違った。
「じゃあさ!」
彼女はぱっと顔を輝かせた。
「ほかの人にもやってあげようよ!」
時風が目を細める。
「ほう?」
「だって、時計屋さんも花屋さんも困ってたでしょ? この人みたいに運が良くなったら、きっと喜ぶよ!」
「……エリシア」
ミアが口を挟む。
「そんな簡単にいくとは限らないわよ」
「でも、やってみるだけならいいじゃん!」
「それはそうだけど……」
「ねえ、時風さん!」
エリシアは期待に満ちた目を向けた。
「みんなにもお祈りしてあげて!」
時風は少し考えるように首を傾げた。
それから、楽しそうに笑った。
「はははっ! いいねえ!」
「本当!?」
「ああ!」
時風は大きく頷いた。
「じゃあ、みんなで幸運を祈って回ろうか!」
「やった!」
エリシアが拳を握った。
ダグラスは苦笑する。
「まあ、困っている人の話を聞く機会にもなるか」
「そうだね」
レオンも頷いた。
「調査としても無駄ではないと思うよ」
ミアは小さくため息をついた。
「……分かったわ。ただし、今日はあんまり遅くならないでね」
「どうして?」
エリシアが尋ねる。
「ルイのことがあるから」
ミアは少し表情を曇らせた。
「保護院にお願いした宿泊日数、そろそろ延長の連絡をしないと。これ以上長引くなら、私は一度王都に戻るわ」
「あ……」
エリシアが申し訳なさそうに頷く。
「そうだったね。ごめん」
「謝らなくていいわよ。私も調べたいんだから」
ミアは肩をすくめた。
「今朝、保護院宛ての手紙は書いたわ。昼までに伝書便を出すつもり」
「……ルイ君、元気だといいですね」
ジョシュアが言った。
「ええ。あの子、私がいないと夜更かしするから心配なのよね」
ミアは苦笑した。
「まあ、保護院の先生たちが見てくれてるから大丈夫だと思うけど」
「じゃあ、今日は早めに戻ろう!」
エリシアが言った。
「うん。そうしてくれると助かるわ」
時風はそんな五人を眺め、楽しそうに手を叩いた。
「よーし! それじゃあ出発だ!」
◇
最初に訪れたのは、南通りの時計修理店だった。
マルセル・グレインは、彼らの顔を見るなり苦笑した。
「また来てくれたのかい?」
「こんにちは!」
エリシアが元気よく挨拶する。
「今日は、ちょっといいことをしに来ました!」
「いいこと?」
「はい!」
エリシアは時風を指さした。
「この人がお祈りしてくれるんです!」
「……お祈り?」
マルセルは困惑した。
レオンが小声で呟く。
「説明だけ聞くと、怪しい勧誘にしか聞こえないね」
「言わないでよ!」
エリシアが頬を膨らませる。
時風は気にせず、マルセルの前に立った。
「最近、散々だったんだってな」
「ええ、まあ……」
「じゃあ、これからはいいことがあるといいな!」
時風は笑った。
「幸運が訪れますように!」
それだけだった。
手を合わせるでもなく、杖を振るでもなく。
ただ、明るい声でそう言っただけ。
「……終わりですか?」
マルセルが尋ねる。
「終わり!」
「はあ……」
時計職人は曖昧に頷いた。
その時だった。
店の奥から、かちり、と小さな音がした。
「あれ?」
マルセルが振り向く。
作業台に置かれた古い置時計。
何度修理しても止まってしまうと、以前話していた品だった。
その秒針が、ゆっくりと動き始めていた。
「……おや?」
マルセルは慌てて駆け寄った。
時計を持ち上げ、裏蓋を開く。
「……そんな馬鹿な」
「どうしたんですか?」
ダグラスが尋ねる。
「歯車の噛み合わせが……いや、違う。昨日調整した位置で、ちゃんと動いてる」
マルセルは目を瞬かせた。
「何度試しても駄目だったのに……」
エリシアが時風を見る。
「すごい!」
「はははっ! 偶然だろ!」
時風は笑った。
ジョシュアは時計の秒針を見つめていた。
かちり。
かちり。
止まることなく、時を刻んでいる。
「……よかったですね」
ジョシュアが言うと、マルセルはゆっくり頷いた。
「ああ……本当に」
その顔には、久しぶりの安堵が浮かんでいた。
◇
次は花屋。
その次は、配達で失敗が続いていた菓子職人。
さらに、荷物を何度も落としてしまうという若い運搬人。
時風は誰に対しても、同じように笑った。
「幸運が訪れますように!」
ただ、それだけ。
花屋では、売れ残ると思っていた花束に買い手がついた。
菓子職人は、行方が分からなくなっていた注文書を棚の隙間から見つけた。
運搬人は、荷物を積み込む前に傷んだ木箱に気づき、破損を防ぐことができた。
どれも、小さな出来事だった。
奇跡と呼ぶには地味すぎる。
けれど、不運続きだった人々にとっては、何より嬉しい変化だった。
「ありがとう!」
「助かったよ!」
「今日は久しぶりにいい日になりそうだ!」
そんな言葉を聞くたびに、エリシアは嬉しそうに笑った。
「ねえ、ジョシュア!」
「……うん?」
「やっぱり、やってよかったね!」
「……うん」
ジョシュアも微笑んだ。
「……みんな、嬉しそうだ」
「でしょ!」
少し離れたところで、ミアが時風を見ていた。
「……ねえ、レオン」
「何だい?」
「これ、本当に偶然だと思う?」
レオンは少し考えた。
「一つ一つなら、十分あり得ると思う」
「……一つ一つなら?」
「これだけ続くと、さすがに気になるね」
二人は時風を見た。
当の本人は、露店で買った焼き菓子を頬張っていた。
「ん? 食うか?」
「……結構よ」
ミアは深いため息をついた。
◇
夕方。
《黄金の館》では、一人の男が卓を叩いていた。
「おかしいだろ!」
男は高価な上着を着た、常連客だった。
「昨日まで勝ってたんだぞ! 何で今日は一度も当たらないんだ!」
「お客様、どうかお静かに」
係員が頭を下げる。
「うるさい! もう一度だ!」
男は残った札を卓に置いた。
配られた札を見る。
悪くない。
少なくとも、勝負できる手だった。
「……よし」
男は口元を歪めた。
だが、次の一枚で全てが崩れた。
「……は?」
係員が淡々と告げる。
「お客様の負けでございます」
「……嘘だろ」
男は呆然とした。
それは、その日七度目の敗北だった。
別の卓でも、似たようなことが起きていた。
普段なら滅多に負けない客が、立て続けに勝負を落とす。
必ず当たると豪語していた男が、賭けた数字をことごとく外す。
大勝ちを続けていた客が、ほんの小さな判断ミスで手持ちの金を失う。
誰かが細工したわけではない。
係員たちは、いつも通りに仕事をしている。
ただ。
これまで当たり前のように訪れていた幸運が、突然消えたかのようだった。
そして、異変は賭場の外でも起きていた。
中央区画の商店で、店主が突然棚を倒した。
別の通りでは、配達員が何もない場所で転び、積み荷を散乱させた。
料理店では、火加減を誤った料理人が鍋を焦がした。
普段なら起きないような失敗。
いつもなら避けられたはずの事故。
それらが、少しずつ増え始めていた。
◇
《黄金の館》地下。
《運命変換器》の周囲で、技術者たちが慌ただしく動いていた。
「……おかしい」
一人が帳簿を睨んでいた。
「どうした?」
「収集量が合わない」
「設定を変えたのか?」
「いや、何も触ってない」
技術者は首を振った。
「範囲も、運用状態も昨日と同じだ」
「なら、何が問題なんだ?」
「……分からない」
男は額の汗を拭った。
「昨日まで幸運を収集できていた場所から、今日はほとんど集まってこないんだ」
「故障か?」
「それも分からない」
別の技術者が声を上げた。
「こっちも変だ!」
「今度は何だ!?」
「収集先が偏ってる!」
帳簿に記された数値を見て、全員が顔をしかめた。
幸運の収集が止まったわけではない。
ただ、これまで広く分散していた収集先の一部が、突然、反応しなくなっていた。
その一方で、残された対象からの収集が増えている。
「……何だ、これは」
責任者が呟いた。
装置の運用は続いている。
配分先への供給も、今のところ維持されている。
だが、そのために必要な幸運が、以前より少ない人数から集められていた。
収集できなくなった対象を補うように。
残された人々から、より多くを奪っている。
「……こんな設定、あったか?」
「いや……」
「誰かが操作したのか?」
「してない! 起動も範囲も変えてない!」
技術者たちは互いに顔を見合わせた。
装置の動かし方は知っている。
作用範囲の設定方法も知っている。
幸運を集め、別の誰かへ配分する能力も理解している。
しかし、内部で何が起きているのかまでは分からない。
収集できない対象が現れた理由も。
その分を別の対象から補う理由も。
誰一人として、説明できなかった。
「……ヴァルター様に報告しろ」
責任者が言った。
「今すぐだ」
◇
報告を受けたヴァルターは、しばらく無言だった。
「……つまり」
彼はゆっくりと口を開いた。
「収集範囲は変わっていない。しかし、一部の対象から幸運を集められなくなった」
「はい」
「その分、別の対象からの収集量が増えている」
「……その通りです」
ヴァルターは指先で机を叩いた。
「原因は?」
「不明です」
「復旧は?」
「……方法が分かりません」
ヴァルターの指が止まった。
「何ですって?」
「設定上の異常は確認できません。起動状態も正常です。ですが、収集先の偏りだけが拡大しています」
ヴァルターは椅子に深く腰掛けた。
運用停止を求めるフィール。
増え続ける不運の報告。
そして、原因不明の収集異常。
偶然にしては、出来すぎていた。
「……誰かが、何かをしている」
彼は小さく呟いた。
「しかし、誰が……?」
技術責任者は答えられなかった。
ヴァルターはしばらく考え込んだ後、顔を上げた。
「最近、この街で妙な動きをしている者はいませんか?」
「妙な動き、ですか?」
「例えば、不運に関する噂を調べている者など」
技術責任者は首を振った。
「私には、そこまでは……」
「結構です」
ヴァルターは立ち上がった。
「こちらで調べましょう」
窓の外では、夜の街が輝いていた。
そのどこかで、誰かが笑っている。
そして別のどこかでは、理由も分からない不運に苦しんでいる。
ヴァルターは窓を閉めた。
「……余計なことを」
低い声が、部屋に落ちた。
◇
夜。
ジョシュアたちは宿の食堂にいた。
「いやー、今日は楽しかったね!」
エリシアが満足そうに伸びをする。
「みんな喜んでくれたし!」
「……そうね」
ミアは伝書便の控えを鞄にしまった。
王都児童保護院への手紙は、昼のうちに発送してある。
返事が届くまでには、少し時間がかかるだろう。
「でも、明日には一度、依頼を整理しましょう」
「うん!」
「マルセルさんにも、途中経過を伝えないとね」
レオンが言った。
「それに、今日の出来事は少し気になる」
「お祈りのこと?」
「そう」
レオンは時風を見た。
「時風さん。本当に、何もしていないんですか?」
「お祈りしただけだって!」
時風は笑った。
「……それで運が良くなるものなんですか?」
ダグラスが尋ねる。
「さあなあ!」
「さあって……」
「世の中、不思議なこともあるだろ?」
時風は焼き菓子を口に放り込んだ。
エリシアが楽しそうに笑う。
「じゃあ、明日もお祈りして回ろうよ!」
「……待って」
ミアが顔を上げた。
「何?」
「今日、何人にお祈りしたの?」
「えっと……」
エリシアは指を折り始めた。
「時計屋さん、花屋さん、菓子職人さん、運搬人さん、それから……」
「御者の人も含めたら、結構な人数だね」
レオンが言った。
「……うん」
ミアは考え込んだ。
「それだけの人の運が良くなったなら……」
そこで言葉を止めた。
ジョシュアが顔を上げる。
「……ミア?」
「……何でもない」
ミアは首を振った。
「ただ、ちょっと気になっただけ」
ジョシュアはしばらく彼女を見ていた。
そして、昨日の会話を思い出した。
誰かの幸運が増えれば。
その分、別の誰かが不運になるのではないか。
「……時風さん」
「ん?」
「……もし、誰かの運が良くなったら」
ジョシュアはゆっくりと尋ねた。
「……その分、誰かが悪くなったりするんでしょうか」
時風は笑った。
「どうだろうなあ」
「……分からないですか?」
「幸運ってのは、なかなか難しいものだからな!」
時風は椅子の背にもたれた。
「ただ、一つ言えることがある」
「……何ですか?」
時風はジョシュアを見た。
「誰かを助けたいと思う気持ちまで、悪いものにする必要はないってことさ」
ジョシュアは少し考えた。
「……そう、ですね」
「ああ!」
時風は笑った。
「大事なのは、その先をどうするかだよ」
その言葉の意味を、ジョシュアはまだ理解できなかった。
窓の外では、街の灯りが揺れていた。
幸運を祈られた人々は、久しぶりに穏やかな夜を迎えている。
一方で、その幸運を奪えなくなった《運命変換器》は、別の人々から、より多くの幸運を集め続けていた。
誰も知らないところで。
街の幸運は、少しずつ偏り始めていた。
そして、その偏りが何を引き起こすのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。
ただ一人を除いて。




