旧水路の異変
第10話 旧水路の異変
冒険者ギルドの掲示板には、赤い文字で書かれた告知が貼られていた。
『北部旧水路周辺への立ち入りを禁止する』
その下には、原因不明の魔力反応を確認したという短い説明が添えられている。
ジョシュアが告知を読んでいると、隣からレオンが顔を覗かせた。
「気になるのかい?」
「うん。朝、行方不明の冒険者がいるって聞いたから」
「そうだね。僕も気にはなる」
レオンは告知の下端を見た。
「ただ、今の僕たちにできることは少ないだろうね」
「……そうよ」
後ろからエリシアが言った。
「せっかく今日の依頼を無事に終えたんだから、危ない場所に首を突っ込むのはやめましょ」
「分かってるよ」
ジョシュアは掲示板から離れた。
農場の依頼で受け取った400ユグドは、まだ革袋の中にある。昨夜からの残金と合わせれば、しばらくは食事と宿代に困らない。
それでも、冒険者になったばかりの自分ができることは限られていた。
「明日はどうする?」
エリシアが尋ねる。
「僕は、できれば装備を見に行きたいかな」
ジョシュアが答えると、彼女は目を丸くした。
「武器?」
「うん。昨日も今日も、何も持ってなかったから」
「それは私も気になってたのよね」
エリシアは頷いた。
「ただ、まともな武器は安くないわよ」
「どのくらい?」
「店によるけど、普通の剣でも1000ユグドくらいはするわ」
ジョシュアは革袋を見下ろした。
まだまだ足りない。
「……もう少し働かないと駄目だね」
「そういうこと」
レオンが横から口を挟んだ。
「中古の武器なら、もう少し安いものもあるよ。ただし、状態を見極める必要があるけど」
「レオンさん、詳しいの?」
「多少はね。明日、見に行こうか」
「ありがとう!」
ジョシュアが笑うと、レオンも小さく笑った。
「その代わり、買う前に必ず相談すること。安いという理由だけで選ぶと、後悔するからね」
「分かった」
エリシアは腕を組んだ。
「じゃあ、明日は午前中に装備を見て、午後から依頼を探す感じでいい?」
「賛成」
「僕も異論はないよ」
3人は翌朝の集合時間を決め、それぞれ帰路についた。
◇
翌朝、ジョシュアは宿の主人から教えられた通りへ向かっていた。
冒険者ギルドから少し離れた場所に、鍛冶屋や防具店が集まる一角がある。
通りには鉄を打つ音が響き、熱した金属の匂いが漂っていた。
「こっちよ!」
先に到着していたエリシアが手を振った。
隣にはレオンもいる。
「おはよう」
「おはよう、ジョシュア」
エリシアは彼の腰を見た。
「今日こそ武器を手に入れたいわね」
「できればね」
「まあ、まずは見るだけでもいいさ」
レオンが言った。
「武器は長く使うものだから、焦って買う必要はない」
3人は通りの奥にある店へ入った。
扉を開けると、金属と油の匂いが鼻をついた。
壁には剣や槍が並び、棚には盾や鎧の部品が置かれている。
奥では、髭を生やした大柄な男が武器の手入れをしていた。
「いらっしゃい」
男は顔を上げた。
「武器を探してるのか?」
「はい。初心者でも扱いやすい剣を見せてもらえますか?」
ジョシュアが答えると、男は彼を頭から足元まで眺めた。
「……変わった格好だな」
「よく言われます」
「そうか」
男はそれ以上追及せず、壁から剣を1本取り外した。
「まずはこれだ。一般的な片手剣だな」
ジョシュアは差し出された剣を受け取った。
革を巻いた柄。
鈍い銀色の刃。
飾り気のない、実用的な武器だった。
「振ってみても?」
「そこの空いた場所ならいいぞ。ただし、人に向けるなよ」
「はい」
ジョシュアは店の端へ移動した。
剣を握り、軽く構える。
手首を動かす。
重さはあるが、扱いにくくはない。
試しに一度だけ振ると、刃が空気を切った。
「……どうだ?」
店主が尋ねる。
「持ちやすいです」
「そうか。そいつは1000ユグドだ」
ジョシュアは剣を見た。
手元の金額では、まだ買えない。
「……もう少し安いものはありますか?」
「中古ならある」
店主は奥の棚から別の剣を取り出した。
こちらは刃に細かな傷があり、柄の革も少し擦り切れていた。
「600ユグド。刃は研ぎ直してあるが、新品ほど長持ちはしないぞ」
ジョシュアは受け取ってみた。
重さは先ほどとほとんど変わらない。
だが、柄を握ると、わずかに滑る感触があった。
「……これ、少し持ちにくいですね」
「よく気づいたな」
店主が頷いた。
「革が傷んでるんだ。巻き直せば使えるが、別料金になる」
レオンが横から覗き込んだ。
「刃の根元にも傷があるね。深くはないけど、強く打ち合うなら少し不安かな」
「だな。値段相応ってところだ」
店主は素直に認めた。
エリシアがジョシュアに囁いた。
「無理して買わなくていいわよ」
「うん」
ジョシュアは中古の剣を返した。
「もう少しお金を貯めてからにします」
「それがいい」
店主は剣を棚へ戻した。
「命を預ける道具だからな。安物で怪我をするくらいなら、しっかりしたものを買え」
ジョシュアは頭を下げた。
「ありがとうございました」
店を出ると、エリシアが伸びをした。
「やっぱり1000ユグドくらいは必要ね」
「うん。頑張って貯めるよ」
レオンは少し考えてから言った。
「それなら、しばらくは採取や調査を中心にした方がいいね。戦闘になったら、君は後ろに下がること」
「分かった」
「本当に?」
エリシアが顔を覗き込む。
「……信用ないなあ」
「昨日までの行動を思い出してから言って」
ジョシュアは言い返せなかった。
◇
昼前、3人はギルドへ戻った。
掲示板には新しい依頼がいくつか追加されていた。
エリシアが依頼書を眺めていると、受付の方から慌ただしい声が聞こえた。
「だから、まだ戻ってないんだって!」
若い男性の声だった。
振り向くと、受付台の前に冒険者らしい男が立っていた。
茶色い髪を短く切り、革鎧を着ている。顔には疲労が滲んでいた。
リーナが落ち着いた声で対応している。
「捜索隊は今朝も確認に向かっています。新しい情報が入り次第、お伝えします」
「昨日も同じことを言ってただろ!」
男は受付台に手をついた。
「仲間が帰ってこないんだぞ!」
周囲の冒険者たちが振り向いた。
エリシアも足を止める。
「……旧水路のことかしら」
レオンが小さく頷いた。
「おそらくね」
男はなおも訴えていた。
「俺たちは3人で組んでたんだ。あいつらだけ先に調査へ行って、俺は別の仕事があったから……」
そこで言葉が途切れた。
男は拳を握りしめた。
「こんなことになるなら、一緒に行けばよかった」
リーナは静かに答えた。
「お気持ちは分かります。ですが、今は捜索隊の報告を待ってください」
「……待つだけかよ」
男は俯いた。
ジョシュアはその姿を見ていた。
自分たちが昨日聞いた行方不明者には、帰りを待つ仲間がいた。
当たり前のことなのに、今まで考えていなかった。
エリシアが小さく呟く。
「……心配よね」
「うん」
レオンは腕を組んだ。
「ただ、僕たちが動けば解決するという話でもない」
ジョシュアは頷いた。
そのとき、ギルドの扉が勢いよく開いた。
鎧を着た冒険者が2人、肩を貸し合うようにして入ってきた。
片方は足を引きずり、もう片方は腕に包帯を巻いている。
「誰か、治療師を!」
先頭の男が叫んだ。
ギルド内が一気に騒がしくなる。
リーナが受付台から飛び出した。
「どうしたんですか!?」
「旧水路だ! 中で妙なものを見つけた!」
男は息を切らしながら答えた。
「捜索隊の人ですか?」
「ああ……。だが、奥までは行けなかった」
レオンの表情が変わった。
男は続けた。
「入口から少し進んだところで、壁が光り始めたんだ。魔法陣みたいなものが浮かび上がって……」
「魔法陣?」
リーナが聞き返す。
「ああ。見たこともない文字が並んでた」
男は震える手で壁を指さすような仕草をした。
「その直後、通路の奥から何かが動く音がして……仲間が吹き飛ばされた」
周囲が静まり返った。
「何に襲われたんですか?」
リーナが尋ねる。
男は首を横に振った。
「分からない。暗くて、姿が見えなかった」
「魔物では?」
「……あんなの、普通の魔物じゃない」
男は顔を歪めた。
「攻撃が当たらなかったんだ」
レオンが小さく息を呑んだ。
「……どういうことだい?」
男は彼を見た。
「剣を振った。確かに当たるはずだった。なのに、刃がすり抜けたんだ」
ジョシュアは思わずレオンを見た。
レオンは真剣な表情で考え込んでいた。
「実体がない……? いや、そうとは限らないか」
エリシアが小声で尋ねる。
「そんな魔物、いるんですか?」
「いるにはいる。でも、今の話だけじゃ判断できない」
負傷した冒険者たちは、駆けつけた職員に支えられて奥へ運ばれていった。
ギルドの中には、不安そうな声が広がっていた。
「旧水路って、そんな危ない場所だったのか?」
「行方不明者はどうなったんだ?」
「魔法陣って何だよ……」
リーナは受付へ戻ると、周囲の冒険者たちに告げた。
「北部旧水路への立ち入りは禁止されています。許可のない方は絶対に近づかないでください」
その声には、いつもの穏やかさがなかった。
◇
騒ぎが落ち着いた後、3人は食堂の端に座っていた。
エリシアは腕を組んだまま、難しい顔をしている。
「……怖い話だったわね」
「そうだね」
ジョシュアが答えた。
レオンは机の上に指で小さな円を描いていた。
「魔法陣が現れた、か……」
「何か分かるんですか?」
エリシアが尋ねる。
「まだ何とも言えない。ただ、自然に発生する魔力反応とは少し違う気がする」
「誰かが魔法を使ってるってこと?」
ジョシュアが聞く。
「その可能性はあるね」
レオンは頷いた。
「ただし、魔法陣にも色々ある。単純な結界もあれば、何かを封じるためのものもある」
「封じる……」
エリシアが呟いた。
「つまり、旧水路には何かが封印されているかもしれないってこと?」
「可能性の話だよ。まだ決めつけるには早い」
レオンは椅子にもたれた。
「それに、魔法陣が本当に存在したのかも確認できていない。負傷した人の証言だけだからね」
ジョシュアは頷いた。
分からないことが多すぎる。
それでも、少なくとも普通の調査依頼ではなくなっているのは確かだった。
「……今日は別の依頼を受けよう」
ジョシュアが言った。
エリシアは少し驚いたように彼を見た。
「いいの?」
「うん。今の僕たちが行っても、足手まといになると思うから」
レオンは微笑んだ。
「賢明な判断だね」
「それに、武器も買わないといけないし」
「そうだったわね」
エリシアは笑った。
「じゃあ、今日は稼ぎましょ!」
3人は席を立った。
掲示板へ向かおうとした、そのときだった。
「――ちょっと待ってくれ」
背後から声がした。
振り向くと、先ほど受付で怒鳴っていた茶髪の冒険者が立っていた。
男はジョシュアたちを見つめている。
「さっき、旧水路の話をしてただろ」
レオンが警戒するように答えた。
「ええ。ですが、僕たちは立ち入り禁止の場所へ行くつもりはありませんよ」
「分かってる」
男は首を横に振った。
「頼みたいのは、別のことだ」
エリシアが眉を寄せる。
「別のこと?」
男は懐から、小さな金属製の飾りを取り出した。
銀色の円盤に、見慣れない模様が刻まれている。
「行方不明になった仲間が、調査へ行く前にこれを拾ったんだ」
レオンの視線が円盤に向いた。
「……どこで?」
「旧水路の近くだ。道端に落ちてたらしい」
男は円盤を握りしめた。
「その後、あいつらは水路へ向かった。俺は別の仕事で一緒に行けなかった」
ジョシュアは円盤を見た。
表面には、細い線が複雑に絡み合った模様が刻まれている。
ただの装飾には見えなかった。
「これが、何か関係していると思うんですか?」
ジョシュアが尋ねる。
「分からない。だが、あいつらがいなくなる前に気にしていたものなんだ」
男はレオンを見た。
「さっき、魔法陣の話をしてただろ。あんた、魔法使いなんだよな?」
「そうですが」
「これが何なのか、分からないか?」
レオンは少し迷ってから手を差し出した。
「見せてもらっても?」
男は円盤を渡した。
レオンは表面の模様をじっくりと観察した。
指先で縁をなぞり、裏返す。
その表情が、少しずつ険しくなっていった。
「……これは」
エリシアが身を乗り出した。
「何か分かったんですか?」
レオンは答えなかった。
代わりに、円盤を机の上へ置いた。
「君たち、少し離れて」
「え?」
「いいから」
その声は、普段の軽い調子とは違っていた。
ジョシュアとエリシアは顔を見合わせ、椅子を引いた。
レオンは杖を取り出し、円盤へ向けた。
杖の先端に青い光が灯る。
その光が円盤に触れた瞬間だった。
金属の表面に刻まれた模様が、淡く輝き始めた。
「……光った?」
エリシアが呟く。
レオンは杖を動かさなかった。
円盤の上に、小さな光の線が浮かび上がる。
線は空中で絡み合い、複雑な図形を描き始めた。
まるで、見えない誰かが文字を書いているようだった。
「……魔法陣?」
ジョシュアが尋ねる。
レオンは小さく頷いた。
「そうだね。ただ、これは普通の魔法陣じゃない」
「どういうこと?」
「少なくとも、僕が知っている形式とは違う」
光の線が増えていく。
円盤の上に、幾重もの円が重なった。
その中心に、奇妙な紋様が浮かび上がる。
ジョシュアは、その模様を見つめた。
どこかで見たことがあるような気がした。
だが、思い出せない。
レオンが杖を引こうとした。
その瞬間、円盤が激しく震えた。
「……まずい!」
レオンが叫ぶ。
青い光が弾けた。
机の上に置かれていた食器が揺れ、周囲の冒険者たちが振り向いた。
円盤から、細い光の筋が伸びる。
それは一直線に、ジョシュアの胸元へ向かっていた。
「ジョシュア!」
エリシアが叫ぶ。
ジョシュアは反射的に身を引いた。
だが、光は彼の身体に触れる直前で止まった。
空中に浮かんだまま、細かく震えている。
レオンが息を呑んだ。
「……何だ、これは」
光の筋は、しばらくジョシュアの前で揺れていた。
そして、何かを確かめるように一度だけ明滅すると、円盤の中へ戻っていった。
模様の光が消える。
食堂には、重苦しい沈黙が残った。
ジョシュアは自分の胸元を見下ろした。
何も変わっていない。
痛みもない。
ただ、先ほどの光が自分へ向かってきたことだけは、はっきりと分かった。
「……ジョシュア、大丈夫?」
エリシアが駆け寄る。
「うん。何ともないよ」
「本当に?」
「本当に」
レオンは円盤を見つめていた。
その表情は、今まで見たことがないほど真剣だった。
「……これは、ギルドに預けた方がいい」
茶髪の冒険者が尋ねた。
「何か分かったのか?」
レオンは首を横に振った。
「正体は分からない。ただ、魔力を流しただけで勝手に起動する道具を、持ち歩くべきじゃない」
彼は円盤に触れないよう注意しながら、布で包んだ。
「リーナさんに報告しよう」
ジョシュアは頷いた。
エリシアも異論を唱えなかった。
3人が受付へ向かおうとしたとき、ジョシュアはもう一度だけ円盤を見た。
布に包まれた金属片は、今は何の反応も示していない。
だが、ほんの一瞬。
誰にも聞こえないほど小さな音が、耳の奥で鳴った気がした。
金属同士が触れ合うような、乾いた音だった。




