さようなら。
「――手を握っていてほしい」
そう言った彼芽さんの手は、震えていた。
夕方過ぎの電車内。
不思議とこの車両は、私たちだけの空間になっていた。
その行動を認めたわけじゃない。許したわけでもない。
私は絶対に正しいことだと認めない。断固として。
それでも、彼から手を握ってくるのは初めてのことだった。
それを嬉しいと思う自分が酷く惨めに感じた。
私のためだと言われて、拒絶できない自分もいた。
こういうのを、世間はバカップルと笑うのだろうか。
電車の走る音だけが無闇に響く。
二人の間には妙な隙間があって、互いを繋げるのは手の感触だけ。
その手は未だに震えていて、これから起こることの不吉を知らせている。
不謹慎ですが、電車が止まればいいと思った。
そうすれば、覚悟も揺らいで考え直してくれるかもしれない。
他の乗客の迷惑とかどうでもいいですから。
車窓は無情にも景色を移り変わらせる。
定刻通りに駅に到着して、ホームに降りた。
名前だけ知っている駅を後にする。
知らない土地を二人で歩いて、やっぱり私の足取りは重い。
しばらくして、アパートの前に辿り着いた。
お世辞にも綺麗とは言えない。
かなり年季の入った建物を前に、彼芽さんは息を呑む。
錆びついた階段を上がる。手すりを掴むのも躊躇った。
「巫代さん。お願いがある」
インターホンもない一室を前に、初めて口を開いた。
「ただ、傍にいてほしい」
私はただ手を握った。
それを確認して、彼芽さんは扉をノックした。
いなければどれだけよかっただろう。
一瞬の静寂の中で考えてしまう私は、諦めが悪い。
隙間が開く。こちらを警戒するように僅かな隙間から、顔を覗かせる。
女の姿は酷いものだった。
やつれた体、ぼさぼさのまま伸びきった髪。
目には生気がなく、まるで魂が抜けたような姿。
一目でどんなことがあったのか、嫌な想像が過る。
私でこれなら、彼芽さんにはもっと。
「……何しに来た!」
そんな目も、彼芽さんを捉えた時に豹変する。
光は灯らなくても、混沌としたものが宿っていた。
「何しに来た何しに来た何しに来た何しに来た何しに来た!」
扉を開け放ち、激情に任せて物を投げつけてくる。
手に取れるものを全てひたすら。
「お前のせいで! お前のせいで!」
彼芽さんは甘んじてそれを受け入れていた。
何もしてはいけない。
傍にいてほしい、とはそういうこと。
これは彼芽さんの戦いだ。
何よりも、私は何も知らないから。
その場にいなかった。どんな状態、状況だったのか。
聞伝でしか知らない私の言葉は、中身を伴わない。
体が力む。歯を食いしばって必死に堪える。
その時初めて、彼女は私に気が付いた。
「……へー? 何? 見せびらかしに来たんだ?」
苛立ちを隠そうとせず、相手を馬鹿にする。
「自分は今、幸せですって? 見せびらかしに来たんだ?」
そう言うと、怒り任せに靴箱の上のゴミを一斉に払い落した。
「ざっけんな! 誰のせいでこうなったと思ってるの!」
貴方のせいだ。
貴方自身の責任だ。身から出た錆だ。
自分の行いを棚に上げて、彼芽さんを責めるな。
自分の人生を他人のせいにして委ねるな。
「――だから、謝りにきました」
「………………はぁ?」
呆れたように声を出していた。
ああ。やっぱりそうなんですね。
貴方は、どこまで行っても私の知る彼芽さんでしかないんですね。
真面目な人だから、優しい人だから、きっとそうするだろうと思っていた。
「俺が、もっと早く止めるべきだった。本当にごめんなさい」
短い謝罪だった。
何を言っても言い訳にしかならない、そう言うように。
「はっ、ははっ!」
乾いた笑いが掠れる。
「昔から嫌いだった! 私と同じ癖にずっとニコニコしてやがった!」
それは誰も傷つけない優しい仮面です。
「それなのに、いつも上から見られているようで不快だった!」
それは人を慮る心の在り方です。
「お前の何もかも嫌いだった!」
――私はそういう所が嫌いで、大好きなんです。
そのまま、罵詈雑言を続ける。
一頻り浴せられて、ようやっと顔を上げた。
「……俺はもう、貴方を見ません」
二度と関わらない。決別を込めた言葉。
「へぇ? これで全部チャラになるとでも?」
だと言うのに未練がましく付き纏ってくる。
「私はお前を一生恨み続ける! お前を許さない!」
「さようなら」
いつも以上に淡白な一言だった。
それが、癇に障ったのだろう。
いえ、彼の行う全てが気に喰わないのだろう。
ボロボロの傘を勢い任せに振り下ろしてきた。
――私目掛けて。
ですが、当たったのは私じゃない。
防ぐこともできたはずなのに。
何も反応を示さない彼芽さんに、彼女は化け物を見るようにたじろぐ。
「……これは、ケジメです」
相変わらず表情に変化はない。
「貴方の顔に俺は泥を塗った。だから、今のは受け入れます」
ただ、私にはわかる。
「ですが、巫代さんに手を出すなら――こちらにも考えがあります」
確かに激怒していたことを。
「行こう、巫代さん」
未練を拭いきったのだろう。
さっぱりとその場を後にしてしまった。
「お……お似合いね! 体に傷がある者同士! 病気みたいで気持ち悪い!」
こんな人の言葉でも、チクチクと刺さる。
これ以上はやめてほしい。私は何をするかわからない。
「――はい。俺の自慢です」
ですがやっぱり、彼芽さんは悪魔です。
私をずっと誑かしてくる。
言い返されたのが悔しかったのか、罵声を背中に浴び続けた。
私も彼芽さんも何も言い返さず歩みを続ける。
怒声が聞こえなくなった頃だろう。
「謝ってくれると思ったんだ」
そう言い始めた。
「おかしいだろう? わかっていたんだ、そんな人じゃないって」
違和感。思わず彼芽さんの顔を見る。
「はは! おかしいな! 馬鹿だな俺は!」
笑っていた。
笑いながら怒って、怒りながら涙を流す。
「謝ってもらえたら! 少しでも相手のせいにできるだろうなんて!」
前に、橘さんがしてくれた話を思い出した。
もしかしたら、表情が治るかもしれない。
そんなものは私たちが夢見た妄言でしかない。
蓄積するのは何も、正の感情だけじゃない。
だから、私は彼の独り言を聞いてあげる。
たった一人、彼が弱くなれる場所だから。
傷痕は二度と治らないから、傷痕と呼ばれるのだろう。
次回でこの章は最後です。
あと、次回更新と同じぐらいにタイトル戻そうと思います。やっぱり、あっちのが方がしっくりくるので。




