そして、呪いになる。
真っ暗闇。光も、音も、風もない。何もない世界。
「――ぐすっ……ぐすっ……」
……誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。
声のする方に目を向ける。
そこには、歩がいた。
見慣れない、きっちりとした服を着ていた。
「お母さん……」
歩……?
名前を呼ぼうとする。のに、声が出ない。
私に気が付くこともなく、服の裾をぎゅっと握る。
「お姉ちゃん、むかんしんになっちゃったのかな……?」
叫んでも、叫んでも。音にはならない。
「歩がわるいこだから、おはなししてくれないのかな……?」
違うの! 歩違うの!
抱きしめようとして――すり抜ける。
代わりに、お母さんが抱きしめる。お母さんも泣いている。
それでようやく理解した。
もう、撫でてあげることはできない。
歩が泣いても、私は抱きしめて安心させてあげられない。
ずっと一緒だって、約束したのに。
声も涙も出ないから、逃げ場のない感情が心の中で暴れる。
「――あたしたち……友達だったんだよね……?」
星摩さん……
「何で……何で、相談してくれないかなぁ……!」
ごめんなさい……ごめんなさい……!
耳を塞ぐ。ただ、謝り続けることしかできなかった。
死ぬことがこんなに辛いとは思わなかった。
愛してくれることが、こんなに辛いとは思わなかった。
何度も謝る。何度も謝る。声にならないのに、謝り続ける。
「――ごめんなさい」
不意に、自分以外の誰かの謝罪が聞こえた。
見慣れた傷痕、でもいつもの片眼鏡はしてない。
どことなく今よりも幼い彼がいた。
「俺のせいで、爺ちゃんが死んだ」
ドンと、自分を傷付ける。
「俺のせいで、咲里花ちゃんが泣いた」
また一つ、傷が増える。
「俺のせいで――あの子は行方不明になった」
あ……ああ……! ああああああああ!
そうか、この人は。どんな人の悲しみも背負うのだ。誰であろうと。
きっと、今でも焼き付いているのだろう。
その左目が見た、最後の景色を。
……この光景たちは、私が無自覚に自覚していた事実だろう。
私が見たくないと、目を背けた光景だろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「――もう大丈夫です」
気が付けば側に寄り添っていた。
「私が一緒ですから」
誰が、言えるだろうか。
ボロボロになって、へとへとになるまで走り続けて。
それでも足を止めなかった。鞭を打って、足を引き摺った。
そんな人に誰が、頑張れと言えるだろうか。
「もう、休んでいいんです」
この世界で生きるにはあまりに優し過ぎた。あまりに幼過ぎた。
生きとし生ける人が全員幸せなんてことはあり得ない。
幸せと言うのは誰かの不幸の上で出来てる。
神様が願いを叶えてくれる。サンタさんがプレゼントをくれる。
そんなのは、子供が見る夢でしかない。
そうやって、いつしか覚めないといけない夢を、見続けてしまった。
「一緒に、神様に文句言ってやりましょう」
認めない。
こんなに優しい人が、こんなに辛い世界なんて認めない。
私は絶対に認めない。
彼芽さんが間違っているなら、この世界も間違っている。
謝罪が止まった。そしたら急に、瞼が重くなる。
いきなり、肉体が戻ってきたような感じだ。
体の節々に、冷たくて固い感触が広がってくる。
なのに、頭だけは温かくて、ゆっくりと瞼を開けた。
「……大丈夫か?」
膝から頭を持ち上げると、屋上の真ん中だった。
彼芽さんの顔を見ると、ゆっくりと頷かれた。
だとしたら、あれは夢……それとも、走馬灯だろうか。
見たものが本物だったのかどうかは、定かではない。
ただ、足が震えて動かないのだけは確かだった。
「――彼芽さん、貴方は間違えました」
足が立たないから、首に巻きつくように腕を伸ばす。
「貴方は、誰かを選んでよかったんです」
その優しさを、誰かに絞ってよかった。
家族に、橘さんに、あるいは……自分に。
「助けて、って言ってよかったんです」
「……俺は恵まれてるよ」
「だから、自分は泣いてはいけないと?」
自分よりも辛い経験をしている人がいる。だから泣いてはいけない。
そんな理屈、あってたまるもんですか。
苦痛に大小はあっても、苦しいことに代わりはないのだ。
睨んでも、困ったように顔を背けるだけ。
呆れるしかない。この人はそういう生き物だ、そうあってしまう人だ。
「それでも、誰かを選べないのなら――」
首に回した手で、顔をこちらに向けさせる。
それでしっかりと顔を、目を合わせた。
「私だけを、選んでください」
その優しさを、その苦痛を、私だけに注いでくれればいい。
私だけを見て、私だけに共感して、私だけになればいい。
彼芽さんが大きく目を見開く。戸惑いや、照れも混じっている。
この人はきっと、昔は感情が豊かだったんだろう。
いえ、今でも豊かなんですが、豊か過ぎたんです。
だから、体が心を守るために、表情が止まった。
「巫代さんは……」
目を離させないでいると、ゆっくりと口を開く。
「俺が、このまま――」
「はい。そうです」
「まだ、全部言ってない」
言いたいことなんてわかる。
私はきっと、貴方がいないと駄目になる。
「私は、自分に自信がありません」
いつか、貴方に言われたことだ。
だから、私を認めてくれる人。大切な人がこの手から離れることに、甚く耐えられない。
結局の所、自分の在り方を他人に委ねている。
彼芽さんは視線を外して、困ったように白い息を吐いた。
「そう、か……それは、やだなぁ……」
そうやって、子供のように愚痴った。
互いに、しばらく動くことができなかった。
「――遅いから、送ってくよ」
「友達の家に泊まるって言っちゃいました。鍵も持ってません」
「そうか……………………困ったな」
「はい。困りました」
「………………本当に、困ったな」
そう言って眼鏡を弄っていた。
「――やっぱり、他の肌と比べると浮きますね」
薄暗い部屋で、なぞるように傷に指を沿わせる。
私はこの傷を元通りに治せたわけじゃない。
「醜い傷だ」
「そうですね。お世辞でも褒められません」
この傷に、これからも苦しむことになるだろう。
「巫女さんの髪は、こんなに綺麗なのにな」
手で髪を梳かしながら話す。
初めて。いや、この場合はようやく褒めてくれたと言うべきだ。
褒めてくれたのは一人だけ。この言葉に嘘はない。
ただもう一人。遠くからずっとこちらを見ていた人がいた。
嫌悪でもなければ好奇でもない。じっと見ていた。
あれを人はきっと、見惚れると言うのだろう。
「何で褒めてくれなかったんですか」
「それは、その、だな」
ジトーっと見ると、ばつが悪そうに言い淀む。
かと思えば、小学生みたいに口を尖らせた。
「言ったら、照れ臭いだろ。たぶん、巫代は馬鹿にしてくると思って」
「……はい?」
「浴衣も、水着も。コスプレだって、本当に綺麗だった」
「……ぷっ! ふふふっ! あはは!」
事実、夏の頃の私なら茶化しただろう。
身から出た錆だとは言え、そんな理由だったなんて。
「笑うことないだろ」
「すみません、ふふっ。なら、これからは全部言ってください」
「笑わないか?」
「嬉しいのに笑いませんよ。あ、でも正直な彼芽さんは彼芽さんで、可笑しいです」
「結局は笑うのか」
なんにせよ嬉しいことに変わりはない。
このことを前の私に言ったら、どんな顔をするだろう。
正直言うとわからない。いつから、何に惹かれたのかサッパリわからない。
わからないけど、今は堪らなく愛おしい。
「時間、いいのか?」
ベッドの横の時計を指差す。
あとちょっとで、シンデレラの魔法が解けそうだ。
でも、意図が全く読めなくて首を捻る。
そして、やっと理解して絶句する。
「まさか……今更逃げ出すと思ったんですか⁉」
「……いや、一応確認を」
「……因みに言っときますが、殴りませんからね?」
「……それは良かった」
どこまで律儀なんですかね、この人。
――ハッピーエンド。
なんて、感動的な終わりじゃない。
根本的な解決は何もできていない。
彼の心が癒された訳じゃない。割れた陶器を見れるように取り繕っただけ。
ヒビは見て取れるし、触れば簡単に崩れる。
生きる目的が私にすり替わった。私という人間に依存した。
それは私も同じ。彼芽さんに依存している。
けど、いい。人間はそんなに強くない。人間は縋る物がなければ生きられない。
ただの傷の舐め合いでしかないかもしれない。
もしかしたら私たちのこの思いを、愛と呼ぶのかもしれない。
……別に言語化できなくていい。
気持ちだけは本物だ。正真正銘、偽りの無い。
――そして私は、彼の呪いになれた。




