2. 「売りこめ! 人魚姫ちゃん!」
「それにしても……そうですか。あの夜、私を助けてくれたのは、あなただったのですね」
にこにこと、笑顔で何度もうなずく彼女。
その屈託のない笑みを見ていると、ふしぎと私の心も晴れやかになるようでした。
『あっ! そういえば、王子さま!!』
「なんでしょうか」
『あのとき、わたし連絡先書いておいたじゃないですか!』
『なのに、なんで連絡くれなかったんですか!?』
そんなフリップを見せながら、頬を膨らませて子供っぽく怒る彼女。
ああ、あれか……と、私はよれよれになった一枚の紙を懐から取り出しました。嵐の翌朝、目覚めたときに私の胸元に置かれていたものです。
「……これですか?」
『そう、それです! よければ連絡くださいって書きましたよね!!』
「そうですね」
『あ……それとも、もしかして向こうのルートに……』
「向こうのルート?」
彼女はすっかり真っ青になり、涙目で必死に何かをフリップに書きこんでいます。私は、本当にこの人は表情豊かだなあ……などと思いながら、その様子を何気なく眺めていました。
『……王子さま、あのあと建物から出てきた女の人に介抱されていたじゃないですか』
『それで、あの人が王子さまを助けたと思い込んで、彼女のルートに……』
建物から出てきた女の人……というのは、海辺の修道院にいた女性のことでしょう。
王都から迎えが来るまでの間、あの修道院で共に過ごしたので、彼女のことはよく覚えています。
「いえ。私を助けてくれたのが彼女でないことは、分かっていました」
『そうですか……よかった……』
『じゃなくて! それならなんで連絡くれなかったんですか!』
「いや……この紙、水に濡れてほとんど読めなかったので」
『……え?』
私は、彼女に向けてそっと紙を広げてみせます。
「連絡ください!」という文字と、差出人の名前がかろうじて読めるくらいで、あとの文字は滲んで判読不能になっています。それを見た彼女は、絶望した様子で、わなわなと震えながらフリップを身体の前に掲げました。
『そ、そんな……わたしが水も滴るいい女だったばっかりに……』
「さてはそんなに落ち込んでませんね」
『はい! ポジティブさが取り柄なので!!』
次の瞬間には、彼女はけろっとして笑顔を取り戻していました。
そんな彼女を尻目に、私は紙に書かれた差出人の名前に目を落とします。
「……ところで、この差出人名なんですが」
『はい』
「……“王子さま専用♡ はいぱー☆ラブリー人魚姫”ってなんですか」
『愛情マシマシです♡』
「まず情報量が多いです」
『略して専ラブ人魚です♡』
「絶望的に語呂が悪い」
どこまでも楽しそうな彼女にため息をつきながら、私は紙を自分の懐に戻しました。
……とはいえ、ここまで言わせてしまった以上、そろそろ向き合わなければならないこともあります。
「……人魚姫さん、でいいのでしょうか」
『はい! あなたの人魚姫です!』
「あなたは、それほどまでに私のことを好いてくれているのですね」
『もちろんです! 一目惚れです! 運命です!!』
「運命です!!」フリップを手に、目をきらきらさせて、ずい、ずいと人魚姫さんが迫ってきます。愛情の圧が強い。物理的に。
その勢いに圧された私は、フリップ越しに彼女を押し戻すのがやっとでした。
「……声と、人魚の下半身を捨ててまで。それでもあなたは、私に会いたかったのですか」
私がそう口にすると、彼女の動きがぴたりと止まります。
見ると彼女は、胸元にフリップを抱えたまま、さも不思議そうな顔で大きな目をぱちくりさせていました。
そんなに変なこと言っただろうか……と困惑する私に、彼女は再びフリップを見せてきます。
『え、声とヒレで足とか普通に爆勝ちトレードでは?』
「ノリが軽すぎる」
『まあ、確かに声はちょっと惜しかったですけど、それで王子さまに会いに行けるなら余裕でアドです!』
「アドとか言わないでください」
『いやー! わたしの歌声聴いたらきっと王子さまもメロメロだったんだけどなー!!』
……彼女は、なぜこんなに嬉しそうな顔ができるのだろう。
自信のあった声と、慣れ親しんだ人魚のヒレを捨てる。きっとそれは彼女の一生を大きく左右する、重大で、痛みを伴う決断だったはずです。
なのに、それをおくびにも出さず無邪気に笑う。そんな彼女に、私は目をうばわれていました。
「というか、声だけではなく……人魚の下半身にも、未練はないのですか?」
『……王子さま、ご存知ですか』
『はるかな昔、人間の祖先は海から陸に上がったのです』
「何の話ですか」
人魚姫さんがあまりに神妙な顔をするものですから、思わず一瞬身構えてしまいました。
そして、フリップを裏返すと同時に、ぱっと笑顔に戻る彼女。
『つまりヒレとかもう進化論的に型落ちです! なので未練はありません!』
「そんな無茶苦茶な……」
そう、無茶苦茶なのです。少なくとも論理的には。
にもかかわらず、彼女の表情からは本当に、後悔や未練がまったくうかがえない。そこが彼女のふしぎなところです。
そんなことを思っている間にも、彼女はフリップを手に、きらきらした目でこちらを見あげています。
『というか、あったとしても王子さまへの想いに比べれば些細な問題なので!』
「そ、そうですか……」
『はい!』
「……それはそうと」
そこで、私は人魚姫さんの足に目をやります。
色白ですらりと伸びた、傷ひとつない綺麗な足。それでもやはり、もともと人魚の身体にないものを無理やり得たのですから、何かしらの歪みは生じているかもしれません。
「……その足。不便だったり、痛んだりはしませんか」
『え? ……あ、初期ロットの話ですか?』
「なんて??」
気のせいかな。ただ彼女の足を気遣っただけなのに、どう考えてもこの場面に似つかわしくない言葉が返ってきたような気がする。初期ロット??
『わたしが飲んだ魔法の薬、なんか初期ロットは不良品だったみたいで、歩くたびに激痛が走ったらしいんですよ』
「そうなんだ……」
『でも今はもう大丈夫です! 行政指導も入ったみたいなので!』
「魔法の薬って、もっと神秘的なものだと思ってたな……」
私が子供の頃から抱いていた、魔法というものに対するイメージが音を立てて崩れ去っていきます。魔法使いも消費者庁とか気にするんだ……。
とはいえ、人魚姫さんが平気ならそれでいいじゃないか、と私は自分に言い聞かせることにしました。
『でも、なんで急に初期ロットの話を?』
「いや、別に初期ロットの話がしたかったわけではなく」
『?』
「……私のために、あなたがつらい思いをしているなら、私としても胸が痛いなと。そう思っただけです」
『王子さま……わたしのこと、心配してくれるんですか……?』
「それはするでしょう」
ただでさえ目の前で人が傷つくのはいたたまれないし、まして彼女は私の命の恩人でもあるのだから、と。私としてはそのくらいの軽い気持ちで言ったのですが、これが思ったよりも刺さったようです。
彼女は頬を赤く染め、目を大きく見開いて、フリップを口元まで持ちあげて――
『えっ、やだ、無理……』
「む、無理!?」
まさかそこまで拒絶されるとは思いませんでした。王子、ちょっとへこむ。
それを見た人魚姫さんが、慌てた様子で何かをフリップに書きこんで、こちらに見せてきました。
『ち、違うんです! 無理っていうのは嫌ってことじゃなくて、かっこよすぎるって意味で!』
「……そうなんですか……?」
『ちょっとトキメキが溢れすぎただけで、王子さまを傷つけるつもりはなかったんです! ホントすみません!!』
どうやら言い回しが独特だっただけで、嫌われたわけではなかったようです。王子、ちょっと安心。
しかし、トキメキが溢れすぎたという言葉に違わず、今度は彼女の様子がちょっとおかしい。
『それより王子さま、結婚しましょう。今すぐしましょう』
「いきなり言われても」
『だって、王子さまと結ばれなかったら、わたし泡になって消えちゃうんですよ』
「それはそうですが……」
『わたし、まだ消えたくないです! 毎朝あなたにオマール海老のビスク作らせてください!!』
「オマール海老のビスク」
『普通はお味噌汁とかみたいですけど、わたしならオマール海老のビスク作っちゃいます! お得!!』
「そんな通販番組みたいな」
人魚姫さんの愛情が重い。あと朝からオマール海老のビスクもちょっと重い。
終始押されっぱなしの私に、彼女はさらに畳みかけてきます。
『歩けます! 書けます! 料理できます! しかも顔がいい!! かなり当たり個体です!!』
「言い方」
『今なら海で獲れた真珠のネックレスもついてくる!』
「通販番組に寄せにいかなくていいですから」
『送料も無料! 勝手に歩いてあなたの家にお届け! 足があってよかったーーー!!』
また微妙に触れづらいことを……。
とはいえ、彼女の無邪気な顔を見ていると、それすらも杞憂なんじゃないかと思えてきてしまいます。
彼女は本当に、一片の後悔もなく、人間の姿になってよかったと思っているのではないかと。
『どうですか、王子さま! 結婚したくなりませんか!!』
「だ、だからそんな急に言われても」
『数量限定です! わたしが一人しかいないだけですけど!!』
なおもぐいぐいと迫る人魚姫さんに動揺していると、背後からこちらに近づいてくる足音が聞こえてきます。
振り返ってみると、侍女の一人が階段を駆け降りてくるところでした。
「殿下! こちらにいらっしゃいましたか!」
「ど、どうかしましたか」
「どうかしましたかではありません! まもなく隣国の王女さまがお見えになりますよ!」
「えっ」
『……えっ??』




