九 甘い気配
濃厚な蜜のかぐわしさに似た禍々しいほど甘美な気配。濃霧のように纏って立つのはひとりの華奢な少女であった。真っ赤な縁飾とレースと飾紐をたっぷり使った豪奢なドレス、ふくらむ裾と絞った袖から細い手足がちらりと覗く。小さな頭に冠のような鍔広帽子を被り、そこから零れる黄金の巻き毛に、きらめく造花をあしらっている。そんな、美しい少女である。ひどく麗しい少女である。少女であるが、人間ではない。
姿態は少女のそれであるのに、高さ大きさは赤子ほど。肌は透き通る雪白の磁器、目は空色の硝子玉。光はなく、焦点も合わず、虚ろなままに彷徨っている。血の気も温度も感じられない。人間ではない。人形である。ひとりでそこに佇んでいる。
ふうわり、かくんと首が傾く。風かだれかのせいではなかった。人形が自ら首を傾げた。袋井が呟く。エイミーさま。
銅室冴白の、推測通りだ。依代はエイミーだった。だからこうして、ひとりでに動く。二階の部屋にいたはずなのに、いつの間にやら外に来ている。
しかし、それ以上動こうとしない。空気を眺めて立ち尽くしている。烈しく渦巻く甘い気配を発しているのが嘘のようだが、いつまた動くか予測不能で、暴れだす恐れもじゅうぶんにある。まずは結界をと思ったそのとき、うしろで銅室冴白が言った。
「袋井さま。どうぞこちらへ」
袋井をさがらせる。直後、広介は一瞬のあいだ今の状況を忘れてしまった。まばたきの間に周りを囲った、頼もしすぎる結界のせいだ。詠唱なしで「結」を使った。広介もやれないことはないが、ここまでのものはなかなかできない。
目に映るものはなにもなくとも、精緻なのだとよくわかる。洋館前の一角を切り取るように小さく囲み、きちんと頭上も覆ってあった。エイミーと修祓師のふたりで、見えない部屋に閉じこもる形だ。離魂と、依坐と依代は、結界からなるこの部屋へ出入りすることは不可能となる。
「────倉代修祓師」
呼ばれて、広介は我に返った。結界の外の袋井に告げる。
「今から、修祓をいたします。そこより前に出てはいけません。お邸の皆さんにすぐお伝えください、念のためではありますが、ここに近づいてはいけません」
「はい……」
「ご安心ください。傷つけません」
笑って、うなずいてみせると、袋井は何度もうなずき返した。よろめきながらも離れていった。そして、修祓師と依代だけが、洋館の前に残された。
あたりの空気が一段冷めて、背筋までが冷えるのを感じる。近くまで来るとはっきりわかる。かなり手強い離魂だった。銅室冴白の覚知したとおり、一級で間違いないだろう。広介はすうと息を吸った。
「銅室さん、ありがとうございます」
いえ、とすぐにこたえが返る。
「依代が急激に移動しました。お知らせもできず申し訳ございません」
そんなの、こちらは気づかなかった。言おうとすると、先を越された。
「では、直ちに修祓いたしましょう。さきほど説明しそびれましたが、エイミー嬢と藤丸子爵には、同じ離魂が憑いていたようです。ふたり、で分け合っていたのでしょう。ですが現在、二階には、離魂の気配はございません。エイミー嬢に集まっているようです。したがって今が好機かと」
「よくわからないけど好機ですよね」
だって、出てきてくれたのだ。近くに行かねば「迎」はできない。
「はい。祓いましょう」
「いえ迎えます」
広介が言下に否むと、銅室冴白は足を踏み出す。真横に並ぶ格好になる。ひらり、エイミーのドレスがひらめく。
「では補助させていただきます」
「──補助?」
「遠慮会釈、不要です」
この傑級の実力は確かだ。詠唱なしでも祓えるだろうに、こちらに委ねて補助すると言う。「迎」を使うことについて、初対面でちくちく刺してきたのに。やはり、よくわからないけれどそんなことより修祓が先だ。広介は足を踏み出した。茫と宙を見るエイミーに向かい、真っ直ぐに歩み寄っていく。
人形。近づくほど人形だ。古びて、くたびれた人形だ。肌はうっすらと黒ずんでおり、華やぐ衣装は日に焼けてほつれ、髪は重たげに絡まっていて、そして瞳は、哀しげだった。一歩ごと濃くなる離魂の気配が、やはり幻のようで苦しい。
────そこのお方、こちらです。
エイミーの青く虚ろな瞳が、すでにすぐ目の前にある。広介は芝生にひざまずき、彼女に両手を差し伸べた。
掌に、赤い光が滲む。彼女のほうへ広がっていく。光は空の瞳に届く。そこから、ひとつぶ零れて落ちる、見えない雫が見えた気がした。その雫ごと抱きしめた。
光がすべてを包み込み、静かに迎え入れていく。迎えたすべては、器の内で身をよじり燃える激流となる。




