【第4話】モブのポーション、国を救ってしまう
アルベルト王子が惨めな敗北を喫して王都へ逃げ帰ってから、わずか三日後のことだった。
平和な港町アストリアに、悲劇は唐突に、そして最悪の形で訪れた。
「ルークの旦那! 大変だ!! 今すぐ店を閉めて逃げる準備をしてくれ!!」
どどんっ! と薬局の木扉が激しく叩き開かれ、息を切らせた自警団長のバルトさんが飛び込んできた。その顔は土気色に蒼白で、全身から滝のような冷や汗を流している。
「バルトさん、一体どうしたんですか? そんなに慌てて」
「東の『黒の森』の魔物どもが、大発生を起こしやがった! スタンピード(魔物の大規模暴走)だ! 数千を超えるオークやゴブリンの群れが、津波みたいにこの街に向かって押し寄せてきているんだよ!」
「数千……!? スタンピードですって!?」
奥のデスクで帳簿をつけていたクラリス様が驚愕の声を上げ、ガタリと椅子を叩くように立ち上がった。
通常、危険な森林地域の魔物繁殖は、領主と王宮の調査隊が定期的に間引き(防衛駆除)を行うことで厳重に管理されている。スタンピードなど、この十年一度も起きていないはずだった。
「どうして急にそんな大規模な暴走が起きるのですか……? 予兆すらなかったはずですが」
私の問いに、バルトさんは悔しそうに歯噛みをしながら床を強く踏みつけた。
「王都から来たあのアホ王子だよ! あいつ、街道の防衛線に配置されていた熟練の近衛騎士団を無理やり引き連れて、この街までお前らを脅しに来ただろ? その手薄になった隙を突かれて、森の魔導結界が魔物に突破されたんだ! 完全な人災(人的エラー)だよ!」
「……あのバカ王子め」
私は思わず眼鏡のツルを指で強く押し上げた。前世のブラック企業時代、現場の安全基準やシフト管理を完全に無視して人員を削減し、現場を大炎上させた無能な上司の顔が脳裏にフラッシュバックする。リスク管理が一切できていない。まさに最悪のマネジメントミスだ。
「自警団と、駆けつけた領主の騎士団で何とか街道に防衛線を張ってるが……数が違いすぎる! 負傷者が続出して、前線が崩壊寸前なんだ! 旦那、何か……何か手を貸してくれねえか! 今の俺たちには、旦那の薬しか頼れるものがねえんだ!」
バルトさんが床に膝をつき、必死の思いで深く頭を下げた。
「ルーク殿……」
クラリス様が不安そうに私を見つめてくる。そのアイスブルーの瞳には、自分の元婚約者が引き起こした惨事に対する強い罪悪感と、この街の人々を助けたいという強い決意が混ざり合っていた。
「クラリス様、心配いりませんよ」
私は優しく彼女の肩に手を置き、静かに微笑みかけた。
「プロジェクトの大炎上なら、前世で何十回と鎮火させてきました。現場の緊急スクラム対応(緊急救護)は、私の得意分野です。それに……この平和な街を壊させるわけにはいきませんからね」
私は調合室へ向かうと、奥の頑丈な鍵付き保管庫の扉を解錠した。
乙女ゲーム『蒼穹のプレリュード』において、スタンピードは本来、物語後半のクライマックスイベントの一つだ。主人公たちが仲間と共にレベルを上げて挑む難関イベント。だが、ゲーマーであった私は知っている。特効薬の処方としかるべきバフ(能力強化)さえあれば、レベル差などいくらでも覆せるということを。
「クラリス様、手伝っていただけますか? 大至急、保管している全ポーションを搬出します」
「はい! 何をすればよろしいですか!?」
「青い瓶の『超回復ポーション』と、赤色の『筋力爆発試薬』、それから透明な『高速魔力チャージ液』を分類し、木箱に詰めてください。私が即座に調合を追加して効果を倍加させます!」
「承知いたしましたわ!」
クラリス様の手動きは迷いなく、驚くほど正確無比だった。私の指示を完璧に理解し、寸分の狂いもなく薬品を分類し、梱包していく。かつて王宮の過酷な業務を一人で捌いていた彼女の処理能力が、ここで遺憾なく発揮されていた。
私は巨大なフラスコを取り出し、前世の化学知識とゲームの薬草学を融合させた「最高濃度のドーピング調合」を開始した。
高濃度カフェイン、タウリン、超濃縮マナ抽出液、そして秘薬・龍の血草。
一歩間違えれば激痛を伴う劇薬となる成分を、前世の限界社畜時代に培った感覚と超絶的なミリ単位の調整で、人体に無害な「最強の戦闘補助薬」へと昇華させていく。
「よし……特効バフ&全回復コンボ、調合完了です!」
* * *
アストリア郊外、防衛線を構築した広大な平原。
「くそっ、押されるな! 意地でも踏みとどまれ!」
「怪我人を後ろへ下げろ! 衛生兵、ポーションはもうないのか!?」
泥と血に塗れた戦場には、悲鳴と怒号が飛び交っていた。
数千を超える大柄なオークやゴブリンの群れに対し、数百名の自警団と領主騎士団は圧倒的な戦力差の前に防衛線の決壊寸前に追い込まれていた。兵士たちの疲労はすでに限界に達し、剣を握る手すらガタガタと震えている。
「ハハハ! 人間どもめ、喰らい尽くしてやるぞ!」
巨体を持つオークワロードが下道で笑い、大斧を振り下ろそうとしたその時だった。
「全員、一歩も退く必要はありません! 薬師のルークです! これを飲んでくださいっ!!」
大きな荷車を引いた私とクラリス様、そして息を吹き返したバルトさんが戦場の渦中へと突入した。
「バルト団長! 木箱の薬を前線の兵士へ投げ配ってください!」
「おうよ! 野郎ども、旦那の作った特効薬だ! 瓶ごと噛み砕いてでも呑み干せぇっ!」
半信半疑のまま、瀕死の重傷を負っていた前線の騎士が、投げ渡された赤色のポーションを勢いよく煽り呑んだ。
直後――。
ズオオオオッ……!!
騎士の全身から、まるで燃え上がる炎のような真っ赤な魔力のオーラが爆発的に噴き出した。
深かった切り傷や刺し傷が一瞬で塞がり、絶望的に落ち切っていた体力が全回復するどころか、筋肉が二倍近くに盛り上がり、瞳に圧倒的な闘志が宿る。
「う、うおおおっ!? 体が軽い! 痛みが消えた!? いや、それどころか……体の中から爆発的な力がみなぎってくるぞおおおっ!!」
覚醒した騎士が一閃すると、振り下ろされた大剣の衝撃波だけで、目前にいた巨漢オーク三体が遥か後方へと吹き飛ばされた。
「な、なんだあの桁外れの威力は!?」
「俺にもくれ! そのポーションをくれぇっ!」
薬が戦場全体に行き渡った瞬間、形勢は一変した。
『超回復ポーション』によって傷病者が一瞬でゼロになり、『筋力爆発試薬』を飲んだ兵士たちが文字通り一騎当千の鬼神と化す。さらに後方の魔導師部隊には『高速魔力チャージ液』が配られ、本来なら数分かかる広域の極大攻撃魔法が、待ち時間ゼロで連発され始めた。
「いけぇぇぇっ! 押し返せぇぇぇっ! バカ王子に任せてたまるかぁっ!」
バルト団長を筆頭に、超ドーピング状態となった兵士たちが咆哮を上げながら怒涛の反撃を開始する。
数千を誇っていた魔物の大群は、たった三十分という驚異的な短時間で、一匹残らず全滅・壊滅させられたのだった。
「「「勝った……! 俺たちの勝ちだぁぁぁっ!!」」」
地鳴りのような勝ちどきと歓声が、夕暮れの平原に響き渡った。
戦場の中心で、絶句したままその光景を見つめていた一人の人物がいた。
このアストリア領を治める領主、グランヴェル公爵――クラリス様の実の父親であった。
「……信じられん。我らの精鋭部隊すら苦戦した大軍ぜいを、わずか一人の薬師が持ち込んだ薬品だけで……無傷で制圧したというのか……?」
公爵は震える手で自身の剣を鞘に収めると、戦場を駆け回って怪我人の手当てを行っていた私とクラリス様のもとへ、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「クラリス……! 無事だったか!」
「お父様……!」
クラリス様が目を見張る。公爵は愛娘の無事を確認すると胸を撫で下ろし、それから私に向かって深く、深く頭を下げた。
「薬師ルーク殿とお見受けする。娘を救い、そして我が領地と大切な民を救っていただいたこと、心より感謝申し上げる。……そして、王都での我が身内の不始末、誠に申し訳なかった」
「公爵様、頭をお上げください。私はただ、自分の大切な居候と、この大好きな街を守りたかっただけです」
「……なんと謙虚な。アルベルト殿下からは『お前は不敬な平民にだまされている』と聞かされていたが、真実は真逆であったか」
公爵は苦々しい表情で語り始めた。
実は、アルベルト王子が独断で防衛線の騎士団を動かし、結果としてスタンピードを引き起こしたという報告は、すでに王都の国王陛下のもとへ届いていたのだという。
今回のスタンピード発生という国家的大罪、そして私やクラリス様に対する理不尽な弾圧。すべてが国王の知るところとなり、王宮では緊急の大査問会議が開かれていた。
「アルベルト殿下はすでに王宮近衛隊によって拘束された。即位の権利は永久に剥奪(廃嫡)、さらに国家反逆および過失致死未遂の罪により、一生涯閉鎖修道院への幽閉が決定した」
公爵の言葉に、クラリス様は静かに目を伏せた。だが、その顔に迷いや未練の色は微塵もなかった。
「自業自得、ですわね。自らの責任を果たさず、他人に押し付け続けた結果です」
「ああ。……クラリス、そしてルーク殿」
公爵は二人を交互に見つめ、真摯な声で言い添えた。
「国王陛下はお二人に対し、深く深謝しておられる。クラリスには公爵家としての名誉回復と王宮への復職を、ルーク殿には宮廷最高位調合師の爵位と、莫大な金貨の恩賞を提示されている。……どうだろうか、私と共に王都へ戻ってきてはくれまいか?」
一瞬、心地よい秋風が通り抜け、静寂が訪れた。
宮廷最高位調合師の爵位。それは薬師として考え得る限りの最高の栄誉であり、一生遊んで暮らせる富と権力が約束される破格のオファーだ。
私は隣に立つクラリス様を見た。
彼女もまた、澄んだアイスブルーの瞳でじっと私を見つめ返していた。
(……フッ、迷うまでもないな)
私は前世の地獄のような社畜時代を思い出し、心の中で苦笑した。
富も名誉も結構だが、そんな場所へ戻れば、また超絶怒涛の過重労働と泥沼の政治的駆け引きに追われる「ブラックな日常」に逆戻りだ。
「公爵様。大変ありがたいお話ですが――」
私は眼鏡のツルをクイと押し上げ、爽やかな笑顔できっぱりと言い放った。
「その内定、謹んで辞退させていただきます」




