【第5話】最高のホワイト職場にて、推しにプロポーズする
「……え? 辞退、ですか?」
グランヴェル公爵は、あまりに予想外な私の返答に、拍子抜けしたような声を上げて目を見開いた。
「ええ、謹んで辞退させていただきます」
私は至極当然のことのように頷き、眼鏡のツルをクイと指で押し上げた。
「宮廷最高位調合師などという大層なポジションに就けば、朝から晩まで王族や貴族の我儘や権力闘争に付き合わされ、際限のないポーションの大量生産と膨大な事務作業に追われるのは目に見えています。昔の苦い経験から学んだのですが、過剰な地位と名誉はただの『やりがい搾取の罠』です。私は定時に店を閉めて、美味しいご飯を食べ、十分な睡眠を取る生活を心から愛しているのですよ」
「ル、ルーク殿……」
公爵はポカンと口を開けて呆然としていたが、やがてその肩を震わせると、ハッと腹の底から笑い出した。
「ハハハ! 破格の爵位と莫大な財産を『やりがい搾取』の一言で蹴るとは! いやはや、娘が心底惚れ込むだけのことはある常識外れだな」
「お、お父様!? 一体何をおっしゃっているのですか!?」
クラリス様が耳まで真っ赤にして叫んだ。
公爵は嬉しそうに愛娘の頭を優しく撫でると、温かい眼差しを向けた。
「クラリス。お前も王宮に戻る気はないのだな?」
「……はい、お父様」
クラリス様は自分の胸に手を当て、私の隣へそっと寄り添った。
「私はもう、誰かの期待に応えるためだけに自分を殺して働くつもりはありません。ルーク殿の隣で、この温かい街の人々のために働くことが、私の本当の幸せなのです」
「そうか。……ならば何も言うまい。公爵家はお前の選択を全面支援しよう。何か困ったことがあれば、いつでも頼りになさい」
公爵は満足そうに深く頷くと、自警団や騎士たちを引き連れて、夕暮れの街道を爽やかに去っていった。
* * *
スタンピードの危機が去り、アストリアの街には再び穏やかで平和な日常が戻ってきた。
王宮では、バカ王子アルベルトの廃嫡と一生涯の幽閉が正式に発表され、彼の身勝手な罪に加担していた悪徳貴族たちも一網打尽にされたという。
王宮の行政機能はしばらく混乱が続いたが、クラリス様が王都を去る直前に作成していた『王宮業務マニュアルおよび業務引継ぎ書』が発見されたことで、残された官僚たちでも何とか業務が回るようになったらしい。
最後まで完璧なアフターフォローを忘れない、我が推しの素晴らしすぎる仕事ぶりに脱帽するばかりである。
そして、季節は巡り――秋深まる夕暮れ時。
『ルーク薬草店』の裏手に広がる、オレンジ色の夕日に染まった薬草園で、私とクラリス様は二人並んで木製のベンチに腰掛けていた。
澄んだ涼しい秋風が、ふわりと心地よく二人の頬を撫でていく。
「ルーク殿、今日もたくさんのお客様が来られましたわね」
クラリス様は膝の上に置いたハーブティーのカップを愛おしそうに両手で包み込みながら、嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。バルトさんたちの自警団も、すっかりうちのポーション中毒……いえ、常連客になりましたからね。クラリス様の手早い会計と完璧な在庫管理のおかげで、今日も定時前に余裕を持って店を閉めることができました」
「ふふ、私の『事務員』としての仕事、少しはお役に立っていますでしょうか?」
「少しどころではありませんよ。クラリス様がいなければ、うちの店は一日でパンクしています。世界一優秀で、世界一美しい事務員さんです」
私がそう言うと、クラリス様はパッと頬を朱に染め、恥ずかしそうに俯いた。
「もう……ルーク殿はいつも、そうやって私を甘やかしますのね」
「事実を言っているだけですよ。……それに、私はクラリス様をずっと甘やかしたいんです」
私の言葉に、クラリス様が小さく息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。
アイスブルーの美しい瞳が、夕日の光を受けて琥珀色に優しく輝いている。
(……ああ、やっぱり綺麗だ)
前世の私が過酷な残業生活の中、過労死寸前の暗闇の中で憧れていた「最愛の推し」。
だが今、目の前にいる彼女は、画面の中の作り物ではない。温かい体温を持ち、泣き、笑い、私を愛おしそうに見つめてくれる、かけがえのない一人の女性だ。
私は深呼吸をし、胸の奥でずっと温めていた決意を言葉にするために、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
「クラリス様」
「はい……?」
「最初は……ただの推し活でした。理不尽な環境で苦しんでいる貴方を助けたい、ただ幸せになってほしいという一心で、王都から連れ出しました」
私は上着のポケットから、小さなベルベットの箱を取り出した。
中に入っているのは、以前、二人で町の職人の店に行った際に、彼女が綺麗だと静かに見つめていた、アイスブルーの魔石があしらわれたシンプルな指輪だ。
クラリス様がハッと息を呑み、小さな両手で口元を覆う。
「でも、ここで一緒に暮らすうちに……毎朝あなたの寝顔と笑顔を見て、美味しいご飯を一緒に食べて、同じ時間を重ねていくうちに、私の中の想いは変わりました。単なるファンや薬師としてではなく……一人の男として、あなたを愛しています」
私はベンチから立ち上がり、彼女の前でそっと右手を差し出した。前世と今世のすべての情熱、そしてこれからの人生のすべてを込めて。
「クラリス・フォン・ルミナス様。私は貴方に、生涯の『ホワイトな環境』を提供することを誓います。一生、過労死とは無縁の幸せな毎日を、私と共に歩んでいただけませんか?」
「ルーク殿……っ」
彼女の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
それは悲しい涙ではなく、溢れ出す幸せを抑えきれない温かい涙だった。
「私……王宮にいた頃は、自分が何のために生きているのか分かりませんでした。誰かに必要とされるためだけに、必死で自分を偽って、走り続けてきました……」
彼女は涙を拭いながら、私の差し出した手を、両手でギュッと強く握り返した。
「でも、貴方が私を見つけてくれた。私に自由をくれて、休むことを教えてくれて、本当の私を愛してくれた……! 私にとっての救い主は、世界でただ一人、貴方だけですわ!」
クラリス様はベンチから立ち上がると、弾むような勢いで私の胸へと飛び込んできた。
抱きしめた彼女の身体は驚くほど小さく、そして柔らかく温かかった。髪から漂うほんのり甘い桃の香りが、私の胸いっぱいに広がっていく。
「喜んで……お受けいたしますわ! ルーク殿の『終身雇用』、謹んでお受けいたします!」
「クラリス様……!」
彼女は泣き笑いの素晴らしい笑顔を浮かべ、爪先立ちになると、そっと私の頬に温かい唇を寄せた。
夕暮れの薬草園。
オレンジ色の光の中で、私たちは深く、温かい誓いのキスを交わした。
かつてブラック企業で過労死したモブ薬師と、ブラックな王宮で潰れかけていた完璧令嬢。
二人が選んだのは、地位も名誉もないけれど、世界で一番甘くてホワイトな新しい人生だ。
「さあ、クラリス様。そろそろ夕飯の準備をしましょうか。今日は特製のハンバーグですよ」
「まあ! ルーク殿のハンバーグ、大好物ですわ! お手伝いいたします!」
「はいはい、有給休暇中なんですから無理は禁物ですよ?」
「ふふ、ルーク殿と一緒なら、お料理も最高の娯楽ですもの!」
手をしっかりと繋ぎ、仲良く店舗の二階へと階段を上っていく二人。
小鳥のさえずりと、楽しげな笑い声が、秋の夕暮れの街に優しく溶けていくのだった。




