【第2話】完璧令嬢とモブ薬師のホワイトな新生活
王都の喧騒から馬車で三日。
深い緑に囲まれた静かな港町アストリアの街外れに、木もれ日に包まれた小さな二階建ての店舗がある。
『ルーク薬草店』――それが、私の営む薬局だ。
店舗の二階にある生活スペースのキッチンで、私は朝の朝食の準備をしていた。
フライパンの上でジューシーな厚切りベーコンが爆ぜ、香ばしい脂の香りが部屋中に満ちていく。カリッと焼いたパン、フレッシュな採れたて野菜のサラダ、そして丁寧に淹れたハーブティー。
「……おはようございます、ルーク殿」
階段から、少し遠慮がちな声が聞こえた。
振り返ると、そこには薄桃色の綿生地で作られたシンプルなワンピースを着たクラリス様が立っていた。
かつて王立学院の卒業パーティーで、重厚で絢爛豪華なドレスに身を包み、隙のない優雅さを誇っていた公爵令嬢の姿はそこにはない。
寝起きのためか、金糸のような髪が少し跳ねており、アイスブルーの瞳はまだ眠たげに揺れている。
(……尊い。朝の寝起きクラリス様、破壊力が限界突破しているんだが?)
私は心の中で必死に語彙力を喪失させながらも、表面上は穏やかな「良心的な店主」の笑みを貼り付けた。
「おはようございます、クラリス様。夕べはよく眠れましたか?」
「ええ……信じられないくらいに。私、生まれて初めて……朝の八時まで一度も目を覚まさずに眠りましたわ」
クラリス様はどこか夢でも見ているかのように、自分の手元を見つめた。
王都を夜逃げ(円満退職)してから一週間。彼女はずっと、この店で私の居候として過ごしている。
「それは良かったです。クラリス様が以前暮らしていた王宮や公爵家は、睡眠時間を削ることが美徳とされる異常な労働環境(ブラック職場)でしたからね。まずはしっかりと脳と身体を休めることが最重要課題です」
「……あんな風に、ベッドに入ってすぐに意識が遠のく感覚、今まで知らなかったのです。いつもは翌日の書類のことや、公務のスケジュールのことばかり頭を巡って、胸が苦しくなって……」
彼女は食卓の椅子にゆっくりと腰を下ろした。
私は焼き立てのベーコンエッグとパン、そして湯気の立つハーブティーを彼女の前に並べた。
「さあ、冷めないうちにどうぞ。本日のハーブティーは、精神の緊張をほぐし、胃腸の働きを整えるカモミールとカモミールオレンジのブレンドです」
「いただきます……」
クラリス様はフォークを取り、小さく一口ベーコンを口に運んだ。
咀嚼し、飲み込んだ瞬間、彼女の表情がパッと華やいだ。
「美味しい……! ベーコンの脂がとてもジューシーで、ハーブティーの爽やかな香りと完璧に調和していますわ」
「よかったです。クラリス様は栄養状態が著しく偏っていましたからね。タンパク質とミネラル、そしてビタミンを意識して献立を組んでいます」
「ルーク殿は……薬師なのに、お料理もこんなに上手なのですか?」
「一人暮らしが長いですから。それに、前世で……いえ、昔いた場所で、体に悪いインスタント食品ばかり食べて体調を崩した苦い経験がありましてね。食事は人間の基本ですよ」
クラリス様はハーブティーのカップを両手で包み込み、フッと息を吹きかけた。
その瞳に、ほんの少しだけ陰りが差すのを見逃さなかった。
「私……こんな風に、朝からゆっくり食事をして、美味しいと思えるなんて思いもしませんでした。今までは、決められた時間内にマナー通りに口へ運ぶだけの『作業』でしたから」
「これからは作業ではなく、食事を楽しんでください。ここは誰にも命令されず、誰の書類も処理しなくていい場所です」
私がそう言うと、クラリス様は少しだけ困ったように眉を下げた。
「でも……私、ルーク殿に助けていただいてばかりで、何もお返しができていませんわ。宿代も、この美味しいお食事代も……。公爵家を飛び出してきた私には、身一つしか資産がありませんのに」
「お返しなど不要です。……と言いたいところですが」
私はわざとらしく自重するように手帳を取り出した。
「クラリス様がもし気になさるなら、一つだけ『業務委託』をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「業務委託……ですか?」
「ええ。実はうちの薬局、私一人で採集から調合、接客、帳簿付けまでやっていましてね。そろそろ事務処理のサポートが欲しいと思っていたところなんです。もしよろしければ、日中の数時間だけ、店の帳簿整理と在庫管理を手伝っていただけませんか?」
クラリス様のアイスブルーの瞳が、パッと輝いた。
「帳簿整理……! 本当に、私などでよろしいのですか!? 数字の計算と分類なら、公爵家の領地会計でずっとやってまいりましたわ!」
「助かります。報酬は三食昼寝付き、さらに週休二日と有給休暇のお約束です。いかがでしょう?」
「喜んでお受けいたしますわ! ルーク殿!」
嬉しそうに胸を張る彼女を見て、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
前世のゲームで見たクラリス様は、常に周囲の期待に応えるためだけに一人で完璧を求められ、失敗を許されず、誰も頼れずに孤立していた。
だが、今の彼女は、自分の能力が誰かの役に立つことを純粋に喜んでいる。ただの一人の少女として。
(よし、完璧だ。クラリス様の自己肯定感を高めつつ、過剰な罪悪感を消し去るミッション、第一段階クリア)
食後、二人は一階の店舗へと下りた。
木造の棚には、私が調合したガラス瓶入りのポーションや、乾燥させた薬草が所狭しと並んでいる。
「ルーク殿、こちらの棚の分類から始めても?」
「ええ、お願いします。私は奥の調合室で、本日分のポーションを作っていますから」
クラリス様は早速ペンと用紙を取り出し、驚くべき手際の良さで棚の薬草をカウントし始めた。目にも留まらぬ速さで書類が整理されていく。さすがは国一番の才女、仕事が早すぎる。
私は苦笑しつつ、調合室のフラスコに向き合った。
(さて、私も仕事をするとしよう)
私はフラスコに、前世の社畜知識とゲームの薬草学を掛け合わせた特殊な調合を施していく。
作るものは『特製栄養回復ポーション』。
この世界の一般的なポーションは、傷を治す「回復魔法」の効果を補助する程度のものが主流だ。
だが、私が作るポーションは違う。前世の限界社畜時代、あらゆる栄養ドリンクやエナジードリンクを飲み比べ、カフェインとタウリンとビタミン群の「最強の黄金比率」を知り尽くした私が作った、いわば超濃縮型のドーピング栄養剤である。
肉体疲労の瞬間回復はもちろん、集中力アップ、魔力回復、さらには肩こりや眼精疲労まで一発で吹き飛ばす。
「よし、本日の仕込み完了」
昼過ぎ、お店のドアにつけられた鈴が、カランカランと心地よい音を立てて鳴った。
「ルークの旦那! いるかい! 例のヤツをくれ!」
店に飛び込んできたのは、この街の自警団長である大柄な男、バルトだった。
彼は肩を落とし、目の下に酷いクマを作っている。
「いらっしゃいませ、バルトさん。また夜勤続きですか?」
「聞いてくれよ旦那! 隣町の街道近くで魔物の出没が増えててよ、三日間ろくに寝ずに見回りなんだ。もう目がショボショボで、剣を振る力も残ってねえ……」
「大変ですね。でしたら、いつもの『特効栄養ポーション・プレミアム』をどうぞ」
私はカウンター越しに、小さな青いガラス瓶を差し出した。小包一箱で銀貨三枚。決して安くはないが、この街の労働者たちには爆発的な人気を誇る商品だ。
「助かるぜ! 一口で効くからな、旦那の薬は!」
バルト団長は瓶のコルクを勢いよく抜くと、一気に煽り呑んだ。
直後――。
バツンッ! と、まるで電流が走ったかのような音が店内に響いた(気がした)。
バルト団長の目がカッと見開かれ、全身の筋肉が隆起する。目の下のクマが一瞬で消失し、肌にツヤが戻った。
「おおお……! 背中の重みが消えた!? 視界が……視界がめちゃくちゃクリアだ! 今なら飛んでいるハエの足の本数まで数えられるぞ! 筋肉に力が満ちあふれてくるううううっ!」
「乱用は禁物ですよ。しっかり効果が切れたら寝てくださいね」
「ありがとな旦那! これで今日の夜勤も楽勝だ! おーい野郎ども、巡回行くぞオルァッ!」
咆哮を残し、バルト団長は風のように店を飛び出していった。相変わらず凄まじい即効性である。
その一部始終を、帳簿を付けていたクラリス様が呆然とした目で見つめていた。
「ル、ルーク殿……? 今のポーションは、一体……?」
「ん? ああ、ただの疲労回復薬ですよ。前世……じゃなくて、昔考案した独自のレシピでして」
クラリス様は震える手で、私が置いていた予備のポーション瓶を手に取った。
「ただの疲労回復薬……? いいえ、あり得ませんわ! 飲んだ瞬間に魔力回路が劇的に活性化し、細胞の自己修復速度が通常の数十倍に跳ね上がっていました……! こんなもの、王宮の最高級宮廷調合師でも作れませんわよ!?」
「え、そうですか? カフェインとタウリンに、ちょっと魔力回復草を黄金比率でブレンドしただけなんですが」
「黄金比率と言いますが! これ、国家機密レベルの超規格外ポーション(チートアイテム)ですわよ!?」
クラリス様が目を丸くして身を乗り出してきた。
いつも凛として落ち着いていた彼女が、驚きのあまり少女のように表情をコロコロと変えている。
(ああ、可愛い。驚いた顔も最高に推せる……)
「まあまあ、クラリス様。効き目が良いならそれで万々歳じゃないですか。それに、美味しい薬じゃなきゃ誰も飲んでくれませんからね」
私はそう言って笑い、カウンターの下から別の小さめの瓶を取り出した。
「それより、クラリス様。こちらをどうぞ」
「……これは?」
ほんのり甘い桃の香りがする、綺麗なピンク色の液体だ。
「クラリス様専用に調合した『美容と安眠の特製シロップ』です。お仕事の合間に、温かいお湯で割って飲んでみてください。お肌に潤いを与えて、今夜もぐっすり眠れますよ」
「私……専用……?」
「ええ。私の大切な居候であり、優秀な事務員のクラリス様の健康を守るのが、この薬局の店主の責務ですから」
私が微笑むと、クラリス様はポーション瓶を愛おしそうに両手で抱え込んだ。
彼女の白い頬が、ぽっと鮮やかな朱色に染まっていく。
「……ずるいですわ、ルーク殿」
「え?」
「そんな風に、自然な顔で……私だけのための特別をくださるなんて」
クラリス様は俯き、耳まで真っ赤にしながら、蚊の鳴くような小声で呟いた。
「私……王宮にいた頃は、誰も私自身を見てくれませんでした。『公爵家の娘』として、『完璧な未来の王妃』としてしか扱われませんでしたわ。期待に応えるのが当たり前で、誰も私の体調なんて心配してくれなかった……」
彼女はそっと瓶を胸に押し当て、アイスブルーの瞳を潤ませて私を見上げた。
「なのに、貴方は……私の体を気遣ってくれて、美味しいご飯を作ってくれて、こんな素敵な薬まで……。私、こんな風に『一人の人間』として大切にされたこと、一度もありませんでしたの」
「クラリス様……」
「ルーク殿。私……ここにいて、よろしいのでしょうか? 貴方の側に、ずっと……」
震える声で尋ねる推しの姿に、私の胸は激しく高鳴った。
前世のゲームでは、誰にも理解されずに押し潰されてしまった完璧なヒロイン。
今、目の前で赤くなりながら、すがるような瞳で私を見つめている。
私は彼女の小さな手を、そっと両手で包み込んだ。
「勿論です、クラリス様。ここがあなたの家です。あなたが望むなら、いつまでだって、ずっとここにいてください」
「……っ、はい!」
クラリス様は溢れそうになった涙を拭い、今日一番の、太陽のように眩しい満面の笑みを咲かせた。
(……ああ、やっぱりこの笑顔が見たかったんだ)
推しの幸せを守れた達成感と、手に伝わる彼女の温もりに浸りながら、私は心に誓った。
絶対に、この平穏で甘い新生活を誰にも邪魔させはしない、と。
――だが、この時の私たちはまだ知らなかった。
優秀すぎるクラリス様と、私の作る特効薬を同時に失った王宮が、この時すでに**完全な業務崩壊**を起こしていたことを。
自由を手に入れたクラリス様と、モブ薬師ルークの物語は、ここからさらに加速していくのだった。




