【第1話】完璧令嬢を捨てたバカ王子、モブ薬師の正論に完敗する
卒業パーティーの大広間は、煌びやかな金銀の装飾と極上のシャンデリアの光で満たされていた。
給仕が運ぶ高級ワインの香りと貴族たちの笑い声が交錯する中、私は壁際の影に身を潜め、手元の皿に乗ったハムサンドイッチを口に運んでいた。
(……うん、今日のサンドイッチはハムが分厚くて当たりの部位だな)
もぐもぐと頬張りながら、私は心の中で静かに自身の現状を整理する。
私の名前はルーク。
この世界では、伯爵家の三男でありながら家業を継ぐこともなく、王都の最果てで小さな薬局を細々と営んでいるモブ薬師だ。
……だが、私にはもう一つの記憶がある。
前世の記憶だ。
前世の私は、日本の某ブラック企業で連日連夜の深夜残業に追われ、月間労働時間が三百時間を超えるような生活を送っていた限界社畜だった。
唯一の生きがいといえば、過酷な勤務の合間、通勤電車の中でプレイしていた乙女ゲーム『蒼穹のプレリュード』の世界に浸ることだけ。
そしてある嵐の夜、日付が変わったオフィスでパソコンの画面を見つめたまま、私の意識は途絶えた。典型的な過労死というヤツだ。
気がついた時には、この『蒼穹のプレリュード』の世界に、物語のシナリオには一切関わらない背景のモブとして生まれ変わっていた。
転生したと自覚した当初は混乱もしたが、前世の社畜時代に培った効率化の知識と、ゲームで得た薬草の知識を掛け合わせることで、十五歳で自立。王都の隅に念願の「定時帰宅ができるマイ薬局」をオープンさせ、のんびりと平和なモブ生活を享受していたのである。
では、なぜそんな一般庶民の薬師が、こんな貴族だらけの卒業パーティー会場にいるのか。
理由は二つ。
一つは、王立学院を卒業する私の出来のいい次兄から「パーティー用の胃薬と二日酔い防止ポーションを持ってこい」と荷物持ち代わりに呼び出されたから。
そしてもう一つ……これこそが最大の理由なのだが、「彼女」の姿をこの目に焼き付けるためだ。
視線の先、会場の広間の中央に佇む一人の女性。
公爵令嬢クラリス・フォン・ルミナス。
金糸を紡いだような見事な縦ロールの髪に、アイスブルーの澄んだ瞳。隙のない完璧な姿勢で佇む彼女こそ、前世の私が過酷な残業生活の中で命を救われていた最愛の「推し」であった。
ゲーム内での彼女は、聖女候補であるヒロインをいじめ抜き、最後は第一王子に婚約破棄を突きつけられて没落する、いわゆる「完璧すぎるが故に孤立する敵役」として描かれていた。
だが、この世界で実際に生きてクラリス様を観察してきた私は知っている。
彼女は悪人などでは絶対にない。
それどころか、彼女は自分の膨大な領地の経営改善、王宮から回されてくる膨大な書類監査、学院での首席維持、そして未来の王妃としての厳しい妃教育に追われ、毎日睡眠時間を三時間程度に削って泥臭く働き続けている、超絶怒涛の「超・優秀な限界社畜令嬢」なのだ。
(ああ、今日のクラリス様も凛とされていて最高に美しい……。だが、よく見ると左目の下にうっすらと疲労の影が見える。あの肌の張りは明らかに睡眠不足と栄養偏重から来るストレス性のものだ。今すぐ私が調合した特製養命ポーションを飲ませて、フカフカの布団で十二時間ほど爆睡させてあげたい……!)
推しの過労死寸前の姿に胸を痛め、私が心の中で泣いていたその時だった。
カツン、と大理石の床を叩く不躾な靴音が響き、楽団の演奏がピタリと止まった。
「クラリス・フォン・ルミナス! 貴様との婚約を、本日この場をもって破棄する!」
大広間の中心から、朗々と響き渡る声。
声の主は、第一王子アルベルトであった。その傍らには、可憐さを前面に押し出したピンク色のドレスを着た男爵令嬢ミリアが、彼の腕にしっかりと抱きついていた。
会場がしん、と静まり返る。
周囲の貴族たちが息を呑み、ヒソヒソと囁き声を交わし始めた。
「……ほう。突然のお言葉でございますね、アルベルト殿下。どのような理由でございましょうか」
クラリス様は背筋を一切曲げず、冷ややかな氷の微笑をたたえて王子を見つめた。
取り乱しもせず、悲鳴も上げない。その態度はあまりにも堂々としていたが、私には見えた。彼女の指先が、扇の陰でほんのわずかに震えているのが。
「しらばっくれるな! 貴様が心優しきミリアに対し、何度も嫉妬から嫌がらせを行い、果ては学院の大階段から突き落とそうとしたことは分かっているのだ! そのような冷酷で邪悪な女を、我が国の王妃にするわけにはいかない!」
アルベルトは勝ち誇った顔で胸を張り、周囲の同意を求めるように見回した。隣のミリアは目元をハンカチで拭い、被害者を演じている。
(……は?)
私の脳内で、前世の社畜時代に何百回と鳴り響いた警報が、ジリジリと爆音を立て始めた。
待て待て待て。
嫌がらせ? 突き落とし?
冗談じゃない。クラリス様の一日のスケジュールを分単位で把握しているこの私が、そんな根も葉もない嘘を見過ごせるわけがないだろうが!
彼女は毎日、朝の五時に起きて領地からの報告書を精読し、午前中は妃教育、午後は学院の講義を受け、放課後は王宮の財務監査を手伝い、夜は自室で書類仕事だ。
他人に嫌がらせをする時間も体力も、彼女の二十四時間の中には一秒たりとも存在しない!
「おいおい、王子様よ……言わせておけば好き勝手言ってくれちゃって」
私は食べかけのサンドイッチをトレイに置くと、眼鏡のツルをクイと押し上げた。
胸の奥から湧き上がってくるのは、推しを理不尽に踏みにじられたことへの怒りと、杜撰な濡れ衣に対する前世のプロジェクトマネージャーとしての猛烈な不快感だった。
私は人垣をすり抜け、大広間の真ん中へと足を踏み出した。
「あのー、失礼いたします。ちょっとよろしいでしょうか」
「なんだ貴様は! 平民の服を着た見慣れぬ者が、我々の神聖な儀場に立ち入るな!」
アルベルトが不機嫌そうに私を怒鳴りつける。
私は全く動じず、懐から一冊の分厚い皮革の手帳を取り出した。私が日常的に王都の流通や貴族たちの動向、そしてクラリス様の過密スケジュールを記録している「業務ログノート」だ。
「申し遅れました。私は王都で薬局を営んでおります、薬師のルークと申します。殿下、先ほど『クラリス様がミリア様を大階段から突き落とした』とおっしゃいましたね?」
「そうだ! ミリアが恐怖に怯えながら私に証言したのだ! 疑う余地もない!」
「では、客観的なファクト(事実)を確認させていただきましょう」
私は手帳のページを素早くめくり、該当のログを開いた。
「事件があったとされるのは、先月二十二日の午後三時十五分ですね。……殿下、その時間帯、クラリス様がどこにおられたかご存じですか?」
「そんなもの、知るか! どこかでコソコソと悪巧みでもしていたのだろう!」
「いいえ、違います。クラリス様はその時間、王宮の第3会議室にて、財務卿および商務伯爵同席のもと、『来年度の魔石供給に関する国家予算の最終監査』を行っておられました」
私は手帳から一枚の羊皮紙を抜き取り、大広間の全員に見えるように掲げた。
「これはその会議の議事録の複写です。財務卿の署名と魔法印が押されています。会議の拘束時間は午後一時から午後五時までの四時間。一歩も部屋から出ておられません。つまり、物理的にクラリス様が階段で人を突き落とすことは絶対に不可能です。もし可能だったとすれば、彼女は光速で移動するか、身体を二つに分離させる神業を使ったことになりますね」
「な……なに……!?」
アルベルトの顔が引きつった。周囲の貴族たちからも「財務卿との会議……」「確かにあそこは厳重だ」という声が漏れ始める。
「ついでに申し上げますと」私は攻撃の手を緩めない。「ミリア様が『教科書を破られた』と主張される先月十日、クラリス様は公爵領の減税申請の精査をしておられました。『お茶会で毒を盛られた』とされる先月十五日、クラリス様は王立図書館の閉鎖書庫で歴史書の編纂作業におられました。すべて第三者の証明付きのアリバイが存在します」
私は手帳をバチンと音を立てて閉じた。
「殿下。貴方はちゃんとした調査(エビデンスの収集)も行わず、ミリア様の主観的な証言だけで、国のために骨身を惜しんで働いてきたクラリス様を断罪しようとした。これは組織のトップとして失格であり、単なる『無能な上長によるパワーハラスメント』です」
「ぱ、パワ……何だそれは! 戯れ言を抜かすな!」
「戯れ言ではありません。そもそも、殿下」
私は一歩、アルベルトに向かって踏み込んだ。
「クラリス様がこれまで貴方の代わりにこなしてきた公務の量をご理解されていますか? 貴方が学業を放り出してミリア様と遊んでいる間、彼女がどれだけの書類に目を通し、どれだけのトラブルを未然に防いできたか! 彼女の労働力によって、この国の行政がどれだけ助けられてきたか!」
私は胸を張り、朗々と言い放った。
「もし本日付で婚約を破棄されるというのであれば、クラリス様がこれまで提供してきた無償残業の労働対価、および精神的慰謝料の精算を要求いたします。概算で、金貨一万枚。今すぐこの場でお支払いいただけますか?」
「き、金貨一万枚……っ!? そんな巨額、払えるわけが――」
「払えないのであれば、ただの無責任な踏み倒しですね」
アルベルトは顔を真っ青にして絶句し、腕にしがみついていたミリアもあまりの正論の暴力にガタガタと震え出していた。
静まり返る大広間の中、私はアルベルトたちに背を向け、呆然と立ち尽くしていたクラリス様のもとへ歩み寄った。
彼女は氷のような表情を崩し、見開いたアイスブルーの瞳で私を見つめていた。
「ルーク……殿? 貴方は、一体なぜ私のために、ここまで……」
私は推しの前でそっと右手を差し出し、前世と今世のすべての情熱を込めて言った。
「クラリス様。こんな劣悪なブラック環境、今すぐ辞表を叩きつけて逃げ出しましょう。私の薬局には、美味しいハーブティーと、十分な睡眠時間と、貴方を心から敬愛する私が待っています」
クラリス様はポカンと口を開けた後――まるで積もっていた雪が解けるように、ふっと柔らかく、この世で一番美しい笑顔を咲かせた。
「……ふふ。ええ、喜んで。こんなやりがいのない職場、今日限りで退職させていただきますわ」
彼女は私の手をギュッと握り返した。
こうして私は、前世からの推しである完璧令嬢の手を引き、理不尽な王宮から華麗に「円満退職」を果たしたのだった。




