誘い
その日の夜、宿の部屋で夕食を終えたあとも、俺たちはほとんど喋らなかった。
ティアだけはいつも通り、追加で頼んだ肉を最後の一切れまで食べていた。ガルドは椅子に座ったまま腕を組み、さっきから何度も窓の外を見ている。
「来ると思うか?」
「誰が?」
「セイルの手下だよ。お前があそこまで言ったんだぞ。今夜あたり何かしてきてもおかしくねえ」
「何もしないって言ってたじゃん」
「それを信じてんのか?」
「半分くらい」
「半分かよ」
ガルドがため息をついたときだった。
扉が叩かれた。
三人とも動きを止める。
ガルドが無言で槌に手を伸ばし、ティアは食べかけの肉を皿へ戻した。俺は扉の前まで歩き、腰の短剣に触れたまま声をかける。
「はい」
「夜分に申し訳ありません。セイルです」
ガルドと目が合った。
手下どころか、本人だった。
扉を開けると、昼間と同じ服装のセイルが一人で立っていた。後ろの廊下を見ても誰もいない。護衛らしき人間も、武器も見当たらなかった。
「……一人ですか?」
「ええ。何もしないと申し上げたでしょう」
「だからって町長が一人で来ます?」
「大勢で来た方が、皆さんは落ち着かないと思いましたので」
正論だった。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
断る理由を探したが、見つからなかった。ここで追い返しても、セイルが俺たちを調べていることは変わらない。それなら話を聞いた方がいい。
俺は扉を大きく開けた。
セイルは部屋に入ると、勧めてもいないのに空いていた椅子へ静かに腰を下ろした。ガルドはまだ槌から手を離していない。ティアはベッドの端に座り、じっとセイルを見ていた。
「昼間はどうも」
「こちらこそ。なかなか刺激的な時間でした」
セイルは小さく笑い、それから視線をティアへ向けた。
「先に、一つだけ確認させてください」
「何ですか」
「ティアさん」
名前を呼ばれて、ティアの肩がわずかに動いた。
「あなたは、姿を消すことができますね」
部屋が静かになった。
誰も答えない。答えなかったこと自体が、答えになっている気がした。
「……なんでそう思うんですか」
俺が聞くと、セイルは膝の上で指を組んだ。
「昼間、ノアさんは私の言葉を口にされました。『まだまだ足りませんね』と」
「言いましたね」
「あれは地下で、私が一人のときに呟いたものです。少なくとも、私はそう思っていました」
セイルの声は穏やかなままだった。
「扉には鍵をかけていましたし、部屋には私と魔物しかいなかった。それでもあの言葉を知っているということは、あの場に誰かがいたことになります。私に見えない形で」
俺は内心で舌打ちした。
やっぱり、あれは言うべきじゃなかった。
「それから、今朝の広場です。刻印を付けている間、ティアさんはずっと私の手を見ていた。ほかの方々は奴隷を見ていたのに、あなただけは私の手を」
ティアが小さく俯いた。
「それで、三人の中で姿を消せるのはティアさんだろうと考えました。違いますか?」
「……違わない」
答えたのはティア本人だった。
「ティア」
「もうバレてる」
確かにそうだ。ここで否定しても意味はない。
「勝手に入ってすみませんでした」
俺が頭を下げると、セイルは少し意外そうな顔をした。
「謝られるとは思いませんでした」
「勝手に入ったのは本当なので」
「そうですね。ですが、私も皆さんを調べていました。お互い様でしょう」
セイルは昼間と同じことを言った。
それから、改めて俺を見る。
「では、もう一度お聞きします」
来た、と思った。
「近くの村の魔窟を消したのは、あなた方ですか?」
昼間は答えなかった質問だ。
ガルドが俺を見ているのが分かった。ティアも同じだった。
考える。
セイルは一人で来た。護衛も武器も持たずに、俺たちの部屋へ。そして、ティアの能力に気づいていることを自分から明かした。黙っていればそれを利用することもできたはずなのに。
手の内を一枚、先に見せてきたのだ。
だったら、こっちが隠し続けても話は進まない。
「はい」
「おい、ノア」
ガルドが小声で止める。
「いいよ。たぶん、もう分かってて聞いてる」
俺はセイルへ向き直った。
「俺たちが消しました。正確には、消えたって言った方が近いですけど」
「消えた?」
「消すつもりで入ったわけじゃないので。村を襲う魔物をどうにかしたくて、魔窟に入っただけです」
「それで、どうして消えたのですか」
ここから先を話すかどうかで、少しだけ迷った。
師匠に何度も言われた。俺の力を知れば、利用しようとする奴が必ず現れる。
目の前の男は、まさにその一人かもしれない。
でも、セイルは魔窟が消えたことも、俺たちが関わっていることも、俺の防具が普通じゃないこともほとんど掴んでいる。中途半端に隠せば、もっと悪い形で調べられるだけだ。
「俺が殺したものは、生き返らないんです」
セイルの表情が止まった。
「人間も、魔物も。俺が殺したら、聖堂にも魔窟にも戻らない。死体もそのまま残ります」
「……人間も、ですか」
「はい」
セイルは何も言わなかった。
昼間、俺の質問に一瞬だけ答えが遅れたときとは違う。今度ははっきりと、長い沈黙だった。
やがて視線が俺の胸元へ落ちる。
「その防具は」
「魔窟の一番奥にいた魔物の甲殻です。ガルドが作りました」
「ベルガで買ったのでは?」
「嘘です」
「でしょうね」
セイルが小さく息を吐いた。笑ったようにも見えた。
「魔窟が消えたのは、その奥の魔物を倒したあとですか?」
「そうです。一番奥に、すごく大きいのが一体だけいて。それを俺が殺したら、魔窟全体が揺れ出して、外に出たら崩れて全部なくなりました」
「ほかの魔物は?」
「途中で結構殺しました。でも、それだけじゃ何も起きなかった。消えたのは、あいつを殺した直後です」
だから、たぶん。
「魔窟の一番奥にいる奴を、俺が殺すと消える。今分かってるのはそれだけです」
言い終えると、部屋の中がまた静かになった。
セイルは俺を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……奥の魔物を、あなたが」
その声は、昼間のどんな言葉よりも小さかった。
「では、私も一つお話ししましょう」
しばらくして、セイルが言った。
「地下の魔物のことです」
ガルドが身を乗り出す。ティアもベッドの端で背筋を伸ばした。
「あれは、この街の近くにある魔窟の、一番奥にいた魔物です」
「……魔窟の?」
「ええ。数年前に私が連れてきました。もちろん殺さずに、です。殺してしまえば魔窟へ戻るだけですから」
俺はティアを見る。ティアは小さく頷いた。地下で見た魔物の大きさを思い出しているのだろう。
魔窟の一番奥にいる魔物。
俺が近くの村の魔窟で殺した、あの黒い甲殻の魔物と同じ立場の存在。
「なんでそんなものを」
「強いからです」
セイルはあっさりと答えた。
「魔窟の奥にいる魔物は、ほかの魔物とは格が違います。皆さんも戦われたなら分かるでしょう」
「まあ、ガルドが一回死にましたからね」
「言わなくていいだろ」
ガルドに睨まれた。
「あの魔物に、奴隷たちから集めた力を与えています。昼間お話しした通りです」
「何かを殺すため、でしたっけ」
「ええ」
セイルは否定しなかった。
今度は沈黙も挟まず、まっすぐ俺を見て答えた。
「私は、魔王を殺したいのです」
部屋の空気が変わった。
ガルドが息を呑む音が聞こえた。ティアは瞬きもせずにセイルを見ている。
魔王。
十五年前に世界を変え、姿を消した存在。
師匠が最後に、探せと言い残した相手。
「……魔王を?」
「おかしいですか?」
「いえ。ただ、町長の口から出てくると思ってなかったので」
「町長だから言うのですよ」
セイルは窓の方へ視線を向けた。外はもう暗く、通りの灯りだけがぼんやりと見えている。
「十五年前、魔王はこの世界を変えました。人は殺されても聖堂で戻り、魔物は魔窟で戻る。寿命以外では、誰も死ななくなった」
「知ってます」
「では、その結果どうなったかもご存じでしょう」
セイルの声は穏やかだった。だが、昼間よりわずかに低い。
「死なないから、人は他人を傷つけることをためらわなくなりました。死なないから、殺さずに連れ去るようになった。死なないから、逃げることもできない」
俺は何も言えなかった。
五年前の村。鎖で繋がれて歩かされていた父さんと母さん。
――殺しゃしねえよ。
あの男はそう言った。殺したら逃げられるからだ、と。
「この街の奴隷も同じです。死なない世界だからこそ生まれた。私が作った制度ではありますが、元を辿ればすべて、魔王が世界を変えたことから始まっています」
「だから、魔王を殺せば元に戻る?」
「戻るはずです。少なくとも、私はそう考えています」
セイルは俺へ視線を戻した。
「人は、生き返るべきではないのです」
静かな声だった。
それなのに、なぜか耳に残った。
隣でガルドが黙り込んでいる。きっと同じことを考えているのだろう。ベルガの工房で、俺がガルドに言ったこと。魔王を見つけて世界を元に戻せば、また魔物の素材が手に入る。ベルガをもう一度鍛冶の街にできるかもしれない。
目の前の男が言っていることは、それとほとんど変わらなかった。
「魔王って、殺せるんですか」
俺が聞くと、セイルは少しだけ目を細めた。
「普通には無理でしょう。あれは、この世界で一番死から遠い存在です。何度殺しても戻ってくる。そうなるように、自分で世界を作り変えたのですから」
「じゃあ、地下の魔物を強くしても」
「ええ。殺すこと自体はできても、戻ってくるでしょう」
「意味なくないですか?」
「戻ってこなくなるまで、殺し続けるつもりでした」
セイルは当然のように言った。
「魔王の力は無限ではありません。世界をこれほど大きく作り変えたのです。何度も戻れば、いずれ必ず綻びが出る。私はそう考えて、十五年かけて準備をしてきました」
「……詳しいですね」
「何がです?」
「魔王のこと。まるで会ったことあるみたいに話すから」
セイルは一瞬だけ黙った。
「十五年もあれば、色々と調べられますから」
そう言って、穏やかに笑った。
それ以上は聞けなかった。聞いても、答えてくれる気がしなかった。
「ですが」
セイルの視線が、もう一度俺の上で止まる。
「あなたの話が本当なら、その準備はほとんど必要なくなるかもしれません」
「ノアさん」
セイルが椅子に座り直した。
「あなたは魔王を探しているのでしょう?」
「……なんで分かるんですか」
「昼間、私が何かを殺そうとしていると気づいたとき、あなたは『誰を』と聞こうとしました。私の目的が、あなたにとって他人事ではなかったからではありませんか」
本当に、よく見ている。
「探してます」
「では、話は早い」
セイルは俺をまっすぐ見た。
「協力しませんか」
ガルドが「は?」と小さく声を漏らした。
「私は十五年かけて、魔王を殺す方法を探してきました。ですが、戻ってこなくなるまで殺し続けるというのは、言ってしまえば力押しです。どれだけの時間がかかるか、私にも分からない」
「でも、俺なら」
「ええ。あなたが殺したものは戻らない。それが魔王にも通じるなら、一度で終わります」
セイルの声に、わずかに熱がこもった気がした。
「私には十五年分の情報と、この街があります。人も金も動かせる。あなたが魔王を探すうえで、きっと役に立つはずです」
「その代わりに、俺に魔王を殺せってことですか」
「魔王を倒すまで、互いに力を貸す。それだけです」
俺はすぐには答えなかった。
ガルドを見る。腕を組んだまま、険しい顔でセイルを睨んでいる。ティアは俺を見ていた。何も言わないが、決めるのはお前だと言われている気がした。
「一つ、先に言っておきます」
「どうぞ」
「俺は魔王を殺すって決めてるわけじゃないです」
セイルの眉がわずかに動いた。
「師匠に言われたんです。魔王を探せって。でも、殺せとは言われなかった。見つけたら、どうするかは自分で決めろって」
「殺さないこともある、と?」
「分かりません。会ってないので」
俺は正直に答えた。
「魔王をどうするかは、会ってから決めます。それでもいいなら」
セイルはしばらく俺を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「構いません。見つけなければ、何も始まりませんから」
「あと、もう一つ」
「まだありますか」
「協力するなら、それまで刻印はやめてください」
部屋の中が、また静かになった。
「奴隷の人たちの苦しみを集めて、魔物を強くしてたんですよね。俺が魔王を殺せるかもしれないなら、もう必要ないはずです」
セイルはすぐには答えなかった。
膝の上で組んでいた指を、ゆっくりとほどく。
「……新しく刻むのは、やめましょう」
「新しく、だけですか」
「ええ。今ある刻印と、奴隷の制度は残します」
「なんで」
「制度をなくせば、この街は荒れます。それは事実です」
セイルの声に迷いはなかった。
「昼間もお話ししましたが、死ななくなった人間は、他人を傷つけることをためらわなくなった。私が身分を分ける前のグレイザは、殺し合いが日常でした。殺されても戻るのだから構わない、と。今の制度を明日なくせば、あの頃に戻るだけです」
「でも、刻印は」
「刻印があるからといって、彼らの苦しみが増えるわけではありません」
セイルは俺を見た。
「刻印は、彼らが感じた苦しみを集めるだけです。苦しみを生むものではない。刻印を消しても、彼らが奴隷であることも、働いて疲れることも、何も変わりません。ただ、その苦しみが誰にも使われずに消えていくだけです」
言い返そうとして、言葉が出なかった。
正しいかどうかは分からない。でも、間違っていると言い切れるほどの答えを、俺は持っていなかった。
奴隷の制度をどうにかしたいなら、それこそ死なない世界そのものをどうにかするしかない。
つまり、魔王を見つけるしかない。
「……分かりました」
「ノア」
ガルドが低い声で言う。
「いいのかよ」
「よくはないけど」
俺はセイルを見た。
「新しく刻まない。それは約束してください」
「約束します」
「じゃあ、協力します」
セイルが、ほんの少しだけ息を吐いた気がした。
「ありがとうございます」
そう言って頭を下げる。昼間と同じ、丁寧な仕草だった。
「……一応聞くけどよ」
ガルドが口を挟んだ。
「まさか、俺たちと一緒に旅するとか言わねえよな?」
「いいえ」
セイルは首を横に振った。
「私はこの街を離れられません。私がいなくなれば、今の仕組みはすぐに揺らぐでしょう。刻印を付けられるのも私だけですから」
「新しくは付けないんですよね」
俺が言うと、セイルは小さく笑った。
「ええ。ですが、聖堂から戻った者に付け直すのも私の仕事です。それに、街の長が突然いなくなれば、それだけで騒ぎになります」
「じゃあ、どうやって協力するんですか」
「皆さんは今まで通り旅を続けてください。私は十五年分の情報と、この街の人間を使って魔王を探します。何か分かれば、すぐにお知らせします」
「どうやって知らせるの?」
ティアが聞いた。
「念話を使います」
「ねんわ?」
「離れた相手に、声を届ける魔法です。一度顔を合わせた相手なら、どれだけ離れていても届きます」
セイルがそう言った直後だった。
――このように。
頭の中に、直接セイルの声が響いた。
「うわっ」
思わず声が出た。隣ではガルドが椅子から腰を浮かせ、ティアは両手で耳を押さえている。耳を塞いでも意味はなさそうだった。
「……気持ち悪っ」
「慣れますよ」
セイルは涼しい顔をしていた。
「何か分かれば、こうしてお知らせします。皆さんの方で何か掴んだときは、私の名前を思い浮かべて呼んでください。こちらから繋ぎます」
セイルは三人を順番に見た。
「そして魔王が見つかったときは、私もそちらへ向かいます。そこから先は、ご一緒させていただきましょう」
「……それまでは別行動ってことか」
「ええ」
ガルドが少しだけ肩の力を抜いた。正直、俺も同じだった。この男と毎日一緒に旅をする自分は、あまり想像できない。
顔を上げたセイルは、ふと思い出したように言った。
「そういえば、一つ伺ってもいいですか」
「何ですか」
「魔王のことは、誰から聞いたのです? 十五年前の世界がどうだったか、魔王が何をしたのか。ずいぶん詳しく知っているようでしたが」
「師匠からです」
セイルの表情は変わらなかった。
ただ、返事が少しだけ遅れた。
「……師匠、ですか」
「十五年前、魔王と戦ったらしいです。あんまり詳しくは話してくれませんでしたけど」
「その方は、今どちらに?」
「死にました。寿命で」
「そうですか」
セイルはそれだけ言って、俺の顔を見ていた。
さっきまでの、こちらを探るような目とは少し違う。何かを確かめているようにも、何かを思い出しているようにも見えた。
「何か?」
「いいえ」
セイルは穏やかに笑った。
「良い師匠だったのでしょうね」
「……まあ、たぶん」
それ以上、セイルは何も聞かなかった。
椅子から立ち上がり、扉の方へ向かう。その途中で足を止めて、振り返った。
「最後に一つだけ、お願いがあります」
「何ですか」
「あなたの力を、この目で確かめさせてください」
「確かめる?」
「地下の魔物です」
ティアが顔を上げた。
「あれは、この街の近くにある魔窟の一番奥にいた魔物です。あなたがあれを殺し、その魔窟が消えれば、あなたの話は本当だということになる」
セイルは俺を見る。
「明日の夜、役所の地下でお待ちしています」
「……何年もかけて育ててきたんですよね。いいんですか」
「ええ」
セイルは迷わずに頷いた。
「あなたが本物なら、あれはもう必要ありませんから」
そう言い残して、セイルは部屋を出ていった。
足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
俺は扉を閉め、そのまま背中をもたれかけた。
「……協力することになっちゃった」
「なっちゃったじゃねえよ」
ガルドが槌から手を離し、大きく息を吐いた。
「本当に信用していいのか、あいつ」
「分からない」
「分からねえのに受けたのか」
「目的は同じだったから」
魔王を見つけて、世界を元に戻す。
セイルの言っていたことは、俺たちがベルガで話したこととほとんど同じだった。だからこそ、断る理由が見つからなかった。
「ノア」
ベッドの端に座っていたティアが言った。
「何?」
「あの人、魔王を殺したら、そのあと何するの?」
俺もガルドも、すぐには答えられなかった。
人が、ちゃんと死ぬ世界に戻す。
セイルはそう言った。
でも、その先の話は一度もしていなかった。




