会話
翌朝になっても、昨夜ティアから聞いた話が頭から離れなかった。
奴隷に刻まれた印は、管理のためだけのものではない。奴隷が感じた苦痛を力へ変えてセイルに集めるためのもので、その力は別の相手へ渡すことができる。そしてティアは、地下でセイルが巨大な魔物へ手を向け、光のようなものを送り込むところを見ている。
あの光が、奴隷たちから集めた苦痛を変換した力だと考えれば、全部が繋がる。
「……聞きに行こうか」
朝食の途中でそう言うと、ガルドがパンを持ったまま俺を見た。
「誰に?」
「セイルさん」
「何を?」
「全部」
ガルドがゆっくりパンを皿へ戻した。
「お前、昨日の話聞いてたか?」
「聞いてたよ」
「聞いた上で、本人のところに行って、奴隷から苦痛を集めて魔物を強くしてますよねって聞くのか?」
「うん」
「馬鹿だろ」
否定はできなかった。
相手が何者なのかも分からない。十五年前に突然グレイザへ現れ、それ以前の経歴は一切不明。奴隷に特殊な刻印を施し、その苦痛を力へ変える能力を持っている。そして役所の地下では、巨大な魔物を隠れて強化している。
何ができるのか分からない相手の懐へ、自分から入ろうとしている。
「でも、今ならまだ大丈夫だと思う」
「何でだよ」
「ティアが地下で聞いたんでしょ。セイルさんが『まだまだ足りませんね』って」
ティアが頷いた。
「言ってた」
「あの魔物を強くして何かするつもりなら、まだ準備が終わってないんだと思う。少なくとも、今日明日にでも何かを始める状態じゃない。だったら、聞くなら今かなって」
ガルドはすぐには答えなかった。
しばらく俺を見てから、眉を寄せる。
「俺たちはいいんだよ」
「ん?」
「最悪殺されたって聖堂で生き返る。問題はお前だろ」
ティアも頷いた。
「ノアは分からない」
以前、ティアにも聞かれたことがある。
俺が死んだら、他の人間と同じように聖堂で生き返るのか。
答えは今も分からない。
俺に殺された人間や魔物だけが生き返らない。それなら俺自身が誰かに殺された場合は普通に生き返る気もするが、一度も試したことはないし、試すつもりもなかった。
「まあ、多分大丈夫じゃない?」
「多分で行くな」
「でも確かめる方法ないし」
「死んで確かめるなよ」
「それは俺も嫌だよ」
俺が笑ってみせても、ガルドは笑わなかった。
ティアもじっと俺を見ている。
「危なくなったら逃げて」
「それは二人もね」
「私は生き返る」
「俺もだ」
「そうなんだけどさ」
死んでも戻るからといって、殺されていいわけではない。痛みもあるし、装備は死んだ場所に残る。捕まれば死ぬことすら許されない可能性もある。
それでも、三人の中で死んだ後が一番分からないのは俺だった。
「とにかく、戦いに行くわけじゃないよ。ただ聞くだけ」
「それで済めばいいけどな」
「だから今なんだよ。『まだまだ足りない』なら、向こうも準備はできてない。もし何か悪いことを企んでるなら、完成してから聞きに行く方が怖い」
ガルドが大きく息を吐いた。
「絶対に剣抜くなよ」
「向こうが襲ってきたら?」
「逃げろ」
「俺、暗殺者なんだけど」
「今日は暗殺しに行くんじゃねえだろ」
「確かに」
ティアが椅子から降りた。
「行く?」
「行こうか」
俺も立ち上がった。
口ではそう言ったものの、胃の辺りが妙に重かった。
役所へ向かう道で、俺は何度も腰の剣を確認していた。
戦うつもりはない。
むしろ戦いになった時点で失敗だ。
街の中心で町長と戦えば、勝っても面倒なことになる。それ以前に、セイルがどれほど強いのかさえ分かっていない。
「ノア」
隣を歩くティアが俺を見る。
「なに?」
「緊張してる?」
「してないよ」
「さっきから剣触ってる」
俺は剣から手を離した。
「……ちょっとしてる」
「やめる?」
「ティアまで?」
「死んだら戻れるか分からないから」
「朝からずっとそれ言うね」
「大事」
ガルドも反対側から口を挟んでくる。
「ティアの言う通りだ。俺たちは最悪一回死ねば逃げられるかもしれねえけど、お前はそうじゃねえ」
「死ぬ前提で話すのやめてくれない?」
「誰のせいだと思ってんだ」
何も言い返せなかった。
少し先に役所が見えてくる。
正直、逃げる理由ならいくらでもあった。
でも、ここまで調べたからこそ分かったこともある。セイルは俺たちを疑っている。それでもまだ何もしてこない。そして地下の魔物については、本人が「まだまだ足りない」と言っていた。
もしあれを使って何かを企んでいるなら、完成するまで待つ方が危険だ。
動くなら今しかない。
「行こう」
役所へ入った。
思ったより簡単にセイルには会えた。
案内されたのは以前と同じ部屋だった。机の向こうに座るセイルも、以前と何も変わらない。整えられた服装に、穏やかな表情。俺たちがここ数日、自分のことを調べ回っていたとは知らないようにも見える。
「おはようございます、ノアさん。皆さんも」
「おはようございます」
「今日はどうされました?」
ここへ来るまで、聞き方をいくつか考えていた。
全部無駄になった。
セイルの顔を見た瞬間、下手に探りを入れる方が危ない気がした。俺は一度だけ息を吐いてから口を開いた。
「奴隷から苦痛を集めて、その力で地下の魔物を強化してますよね」
ガルドが隣で小さく息を吐いた。
セイルの表情は変わらなかった。
ただ、返事がない。
数秒。
それだけなのに妙に長く感じた。
「……何のお話でしょう?」
やっぱり誤魔化すか。
ここで引けば、俺たちが何かを知っていることだけ伝えて終わる。
もう戻れない。
「奴隷につけてる刻印。管理のためだけじゃないですよね」
セイルの目が俺を見る。
「刻印された人が感じた苦痛を力に変えて集める。その力を使って、地下にいる魔物を強化してる」
まだ何も言わない。
「それで魔物に力を送ったあと、『まだまだ足りませんね』って言った」
初めて、セイルの笑みが消えた。
背中に嫌な汗が流れた。
反射的に剣へ手を伸ばしそうになるのを堪える。ここで俺が構えれば、向こうも敵対と受け取るかもしれない。
セイルはしばらく俺たちを見ていた。
視線が俺からガルドへ、そしてティアへ移る。
そこで少し止まった。
「なるほど」
小さく呟く。
「ずいぶんと調べられたようですね」
否定しなかった。
それだけで身体に力が入った。ガルドも同じらしい。隣からさっきまでとは違う緊張が伝わってくる。
「怒りました?」
俺が聞くと、セイルは再び薄く笑った。
「驚いてはいます」
「怒っては?」
「それを確認するために来られたのですか?」
「違います」
喉が少し乾いていた。
「何をしようとしてるのか、聞きに来ました」
「私が答えると思いますか?」
「……分かりません」
昨日なら、もう少し軽く返せた気がする。
実際にセイルを前にすると、そんな気にはなれなかった。目の前にいる男が何者なのかすら、俺たちは知らない。
「でも、聞かないと分からないので」
セイルが俺を見つめる。
「随分と変わった方ですね。普通なら、もう少し遠回しに尋ねるものですが」
「遠回しに聞いたら、誤魔化しますよね」
「単刀直入に聞かれても、誤魔化すかもしれませんよ」
「それは……そうですね」
後ろでガルドが小さく「おい」と呟いた。
何か上手い返しを期待していたのかもしれない。
無理だ。
こっちは相手が何者なのかさえ分かっていない。
少しの沈黙のあと、セイルが椅子へ深く座り直した。
「刻印については、おおむねその通りです」
思わずティアを見る。
ティアも俺を見た。
「認めるんですね」
「そこまで知られているのなら、否定する意味もないでしょう。刻印された者が感じる苦痛を力へ変換し、私に蓄えることができます。もちろん、本人の苦痛が消えるわけではありません」
「その力で、地下の魔物を強化してる?」
「ええ」
あまりにも簡単に認める。
逆に怖かった。
知られても問題ないと思っているのか。それとも、俺たちをこの部屋から帰すつもりがないのか。
考えた瞬間、背後でガルドがわずかに動いた。
振り返らなくても分かる。
俺のことを気にしている。
「……何のためですか?」
「それをお話しする必要はありません」
やっぱりそこは答えない。
「街を襲わせるため?」
「違います」
返事が早かった。
「人を襲わせる?」
「違います」
「じゃあ……何かを殺すため?」
セイルが黙った。
ほんの一瞬だった。
でも、それまで質問にはすぐ答えていた。
「……そうなんですね」
「私は何も答えていませんが」
「でも今だけ遅かった」
セイルが俺を見る。
言ってから、余計なことを口にした気がした。
「勘がいいですね」
「ありがとうございます」
褒められている場合じゃない。
少なくとも地下の魔物を強くしている目的は、街を襲わせることではないらしい。
何かを殺すため。
問題は、何を殺そうとしているのかだ。
「誰を――」
「では」
セイルに遮られた。
「今度は私から質問してもよろしいでしょうか?」
来た。
さっきまでより緊張する。
こちらだけが相手の秘密を握っているとは思っていなかった。
「……どうぞ」
「魔窟を消したのは、あなた方ですか?」
誰も答えなかった。
分かってはいた。
セイルは最初に会った時点で、消えた魔窟について俺たちへ聞いていた。
それでも真正面から聞かれると、すぐには言葉が出なかった。
「何の話です?」
結局、俺は誤魔化した。
セイルが少し笑う。
「単刀直入に聞いても、誤魔化すことはあるようですね」
さっき自分で言ったことが返ってきた。
「……すみません」
「構いません」
セイルは机の上で指を組んだ。
「魔窟が消える直前、近くの村へ三人組の旅人が訪れています。その三人は魔窟が消えた後、グレイザへ向かった」
視線が俺たち三人を順番に見る。
「そして現在、三人組の旅人がこの街にいる」
偶然で押し通すには厳しい。
「それだけではありません」
セイルの視線が俺の胸元へ落ちた。
ガルドが作った黒い防具。
魔窟の奥にいた、あの魔物の素材だ。
「その防具。以前から気になっていました」
俺は何も言わない。
「私は長くこの街におりますが、その素材には見覚えがありません」
「ベルガで買いました」
前と同じ嘘を繰り返した。
「ええ。以前もそうおっしゃいましたね」
セイルは笑っている。
信じていない。
「ノアさん」
名前を呼ばれただけで身体が強張った。
「私は、あなた方が魔窟を消したのではないかと考えています」
逃げ道を塞がれた気がした。
ここで認めていいのか分からない。
セイルが地下で魔物を強化していることは分かった。何かを殺そうとしていることも、おそらく間違いない。
でも、それ以上は何も知らない。
そんな相手に俺の能力まで教えるのは危険すぎる。
「……答えられません」
それだけ言った。
セイルは少し意外そうな顔をしたあと、頷いた。
「賢明だと思います」
「怒らないんですね」
「なぜ私が?」
「こっちは色々聞いたのに、俺は答えなかったから」
「秘密を抱えているのは、お互い様でしょう」
セイルが立ち上がった。
その瞬間、俺の手が剣へ伸びかけた。
それより先にガルドが一歩だけ俺の近くへ寄る。
ティアも俺の服の裾を掴んだ。
二人ともセイルを見ている。
俺より緊張してるんじゃないだろうか。
だがセイルは何もせず、窓の前まで歩いただけだった。
「……そんなに警戒されなくても、何もしませんよ」
セイルが背を向けたまま言った。
「分かりませんから」
俺が答えると、セイルが小さく笑った。
「正直ですね」
セイルは窓の外を眺めながら言った。
「ただ、一つだけ」
俺たちは黙って続きを待った。
「もし本当に、あなた方が魔窟を消したのだとすれば」
セイルが振り返る。
穏やかな表情は変わっていない。
それなのに、最初に会ったときとはまるで違って見えた。
「私はあなた方に、とても興味があります」
何と返せばいいか、一瞬迷った。
「……俺もです」
それだけ答えた。
「セイルさんが何をしようとしてるのか、かなり気になってます」
「そうでしょうね」
結局、その先をセイルが話すことはなかった。
俺たちも魔窟について答えなかった。
ただ、部屋を出るときには、最初に入ったときよりはっきりと分かっていた。
セイルは奴隷たちの苦痛を力へ変えて集め、その力で地下の魔物を強化している。
そして、その魔物で何かを殺そうとしている。
一方のセイルも、俺たちが普通の旅人ではないとほぼ確信している。
役所を出てしばらく歩いてから、ようやく大きく息を吐いた。
「……怖かった」
「今言うのかよ」
ガルドが呆れたように言った。
「中で言えるわけないでしょ」
「ノア」
ティアが俺を見る。
「なに?」
「手、震えてる」
見ると、本当に少し震えていた。
俺はその手を握る。
「生きて出られたね」
「だから言っただろ。お前が一番危ねえんだよ」
ガルドに言われて、俺は役所を振り返った。
窓の向こうにセイルの姿は見えない。
「俺も普通に生き返ると思うんだけどな」
「じゃあ試すか?」
「絶対嫌だ」
「なら無茶すんな」
「はい」
素直に返すと、ガルドが少し驚いた顔をした。
ティアが俺の服を引っ張る。
「帰る?」
「そうだね」
「お腹空いた」
「さっきまで心配してくれてたよね?」
「生きてたからもう大丈夫」
切り替えが早い。
俺たちは役所から離れていった。
セイルが何を殺そうとしているのか。
どうして、そのためにあれほど巨大な魔物を強くしているのか。
まだ答えは出ていない。
でも次に知るべきことだけは、はっきりしていた。
セイルが殺そうとしている相手。
そいつが何者なのかだ。




