証明
翌日の夜、俺たちは再び役所を訪れた。
昼間とは違い、正面の扉は閉まっている。言われた通り建物の裏へ回ると、小さな扉の前にセイルが一人で立っていた。
「お待ちしていました」
「本当に一人なんですね」
「部下は、すでに魔窟の前に向かわせています。この街から半日ほどの場所にある魔窟です。あの魔物は、そこの一番奥にいました」
「準備がいいな」
ガルドが小声で言う。
「確かめるなら、すぐに確かめたいですから」
セイルは扉を開け、俺たちを中へ招き入れた。
夜の役所は静かだった。廊下には誰もおらず、俺たちの足音だけが響く。ティアは何度か周囲を見回していた。前に来たときは、ここを一人で、姿を消して歩いていたのだ。
廊下の突き当たりで階段を下りる。地下は上よりもずっと暗く、壁沿いの小さな灯りだけが足元を照らしていた。
奥へ進むにつれて、低い音が聞こえてきた。
唸り声だ。
「これ?」
俺が聞くと、ティアが頷いた。
セイルが鍵を取り出し、奥の扉を開ける。
中に入った瞬間、空気が変わった。
広い部屋だった。壁際に並んだ灯りが、中央にある巨大な鉄格子を照らしている。その向こうで、何かが横たわっていた。
「……でけえ」
ガルドが呟いた。
俺も同じことを思った。
近くの村の魔窟で戦った、黒い甲殻の魔物。あれも十分に大きかったが、目の前の魔物はさらに一回り大きい。
全身を灰色の分厚い皮膚が覆い、背中には岩のような突起が並んでいる。太い四肢の先には、地面を簡単に抉りそうな爪。首と四肢には、俺の胴ほどもある鎖が何重にも巻かれ、壁と床に打ち込まれた杭へと繋がっていた。
魔物がゆっくりと目を開ける。
黄色く濁った目が、こちらを向いた。
低い唸り声が、部屋全体を震わせる。
「暴れないの?」
「暴れても、あの鎖は切れません。何度も試していますから」
セイルは鉄格子の前まで歩き、魔物を見上げた。
「近くでご覧になりますか」
「中に入ってもいいんですか」
「ええ。そのために来ていただいたのですから」
セイルが鉄格子の扉を開ける。
俺は腰の短剣を抜き、中へ入った。
ガルドとティアは鉄格子の外に残る。
近づくほど、魔物の大きさがよく分かった。伏せたままでも、頭の位置は俺の背よりずっと高い。鎖に繋がれていなければ、ここに立っているだけで潰されていただろう。
魔物が首を持ち上げようとして、鎖が軋んだ。
「首の付け根です」
セイルが後ろから言った。
「皮膚が一番薄いのはそこです。もっとも、薄いと言っても普通の刃なら通りませんが」
「これなら通ると思います」
俺は手の中の短剣を見る。ベルガでガルドの師匠に作ってもらった、魔物の牙を混ぜた短剣だ。
鎖で繋がれ、ほとんど動けない相手。
狙う場所も分かっている。
一撃で終わる。
そう思っていた。
魔物の首元へ踏み込む。
鎖に引かれて首が下がった瞬間を狙い、付け根へ短剣を突き立てた。
分厚い皮膚の抵抗が手に伝わる。それでも刃は通った。根元まで押し込み、そのまま横へ捻る。
魔物が吠えた。
部屋全体が揺れるような声だった。鎖が一斉に軋み、杭がわずかに浮く。
俺は短剣を抜いて飛び退いた。
首から血が噴き出す。人間なら、いや、普通の魔物なら、とっくに動かなくなっている量だった。
魔物は倒れなかった。
「……あれ?」
黄色い目が、まっすぐ俺を見ている。
「おい、ノア!」
鉄格子の外からガルドの声がした。
「刺さってたよな!?」
「刺さってた」
手応えはあった。急所も外していない。
それなのに、魔物は首から血を流したまま、まだ立ち上がろうとしていた。
もう一度踏み込む。
今度は同じ傷口を狙い、さらに深く刃を突き入れた。
魔物が身体を大きく振る。鎖の長さぎりぎりまで首が動き、俺の身体ごと持ち上げられた。
「っ……!」
短剣を離さないまま、壁際まで振り回される。足が床を離れ、背中に冷たい石の感触が迫った。
直前で短剣を抜き、床へ転がって着地する。
さっきまで俺の背中があった場所に、魔物の首が叩きつけられた。石の壁にひびが走る。
「ノア!」
ティアが鉄格子を掴んでいた。
「大丈夫」
立ち上がりながら、魔物を見る。
首の傷は二つ。どちらも深い。床にはもう血溜まりができている。
それでも魔物の息は乱れていなかった。
むしろ、傷口の周りがわずかに盛り上がっている。肉が、血を止めようとしているように見えた。
「……治ってない?」
「治ってはいません」
セイルの声がした。
鉄格子の外で、セイルは一歩も動かずに魔物を見ていた。
「ただ、死ににくいだけです」
「死ににくい?」
「私が与えた力の大半は、あれの生命力に回しています」
セイルの声は落ち着いていた。
「魔王と戦うなら、何より先に必要なのは、相手より長く立っていることです。どれほど強い一撃を持っていても、先に倒れれば意味がない。ですから、まずは死なない身体を作ろうとしました」
「死なない世界で、死なない身体って」
「皮肉な話でしょう」
セイルは少しだけ笑った。
「普通の者なら、あれを殺すのに丸一日はかかるでしょうね。殺したところで、魔窟へ戻るだけですが」
冗談に聞こえなかった。
奴隷たちの苦痛を、何年も注ぎ続けてきた結果。
それが、目の前で血を流しながら立ち上がろうとしている。
俺は短剣を握り直した。
首は駄目だ。何度刺しても、この魔物の生命力の方が上回る。
なら、止めるしかない。
「ガルド、心臓ってどこ?」
「は!?」
「こういう形の魔物の心臓!」
「知るか! ……いや、待て!」
ガルドが鉄格子にしがみつく。
「前脚の付け根の後ろだ! ああいう四本脚のでかい奴は、大体そこにある! 骨が邪魔だから、下から斜めに入れろ!」
「了解」
魔物が前脚を振り上げる。
鎖に引かれて、動きは鈍い。
爪が床を抉るのと同時に、俺はその内側へ潜り込んだ。
前脚の付け根の後ろ。
下から、斜めに。
短剣を突き上げる。
肋骨の隙間を刃が抜けた感触があった。さらに奥へ、体重をかけて押し込む。
魔物の身体が大きく跳ねた。
吠える声が、途中で掠れる。
それでも、まだ倒れない。
「しぶとすぎるだろ……」
短剣を抜き、同じ場所へもう一度突き刺す。
今度は刃を捻った。
魔物の前脚から、ゆっくりと力が抜けていくのが分かった。
首が下がる。
巨体が傾く。
俺は短剣を抜いて飛び退いた。
地響きとともに、魔物が床へ倒れた。
鎖が一斉に緩み、金属音が部屋中に響く。
しばらく、誰も動かなかった。
魔物の胸が、上下しなくなる。
黄色い目から、光が消えていく。
「……今度こそ、死んだ?」
ティアが小さく聞いた。
「たぶん」
俺は肩で息をしながら答えた。
四回。
鎖で繋がれて、ほとんど動けない相手に、四回刺してやっと殺せた。
魔窟の奥で戦ったあの黒い魔物の方が、まだ分かりやすかった。
鉄格子の扉が開く音がした。
セイルが中へ入ってくる。
俺の横を通り過ぎ、倒れた魔物の前で足を止めた。
何も言わない。
ただ、魔物を見下ろしている。
死んだ魔物は、本来ならすぐに輪郭が薄くなり、消えていく。魔窟の中でガルドが倒した魔物も、少し経てば跡形もなくなっていた。
この魔物は消えなかった。
血溜まりの中に横たわったまま、そこにある。
セイルがゆっくりとしゃがみ込んだ。
手を伸ばし、魔物の首筋に触れる。
指先が、わずかに震えていた。
「……消えない」
小さな声だった。
昨日、宿で俺の能力を聞いたときも、セイルは驚いていた。でも、それは話を聞いただけだった。
今は違う。
自分の目の前で、自分が何年もかけて育てた魔物が、死んだまま消えずに残っている。
セイルはしばらく魔物に触れたまま動かなかった。
「本当に……戻らないのですね」
「だから言ったじゃないですか」
「ええ。聞いていました」
セイルは魔物から手を離さずに言った。
「ですが、聞くのと見るのとでは、まるで違う」
そのとき、セイルの表情が変わった。
目を閉じる。
何かを聞いているようだった。
念話だ、と気づいた。昨夜、俺たちの頭に直接声を響かせた、あれだ。
今は俺たちには何も聞こえない。セイルにだけ、誰かの声が届いている。
しばらくして、セイルが目を開けた。
「部下からです」
「魔窟は?」
セイルは立ち上がり、俺を見た。
「入口が崩れ始めたそうです。中から地鳴りがして、黒い石が砂のように崩れていると」
ガルドが鉄格子の外で息を呑んだ。
セイルが再び目を閉じる。
数秒の沈黙。
「……今、完全に消えたそうです。跡形もなく」
部屋の中が静かになった。
近くの村の魔窟と同じだ。
ボスを殺したら、魔窟が消えた。
偶然じゃなかった。
「これで、証明になりました?」
俺が聞くと、セイルはゆっくりと頷いた。
「十分すぎるほどに」
セイルの顔には、いつもの穏やかな笑みが戻っていた。
でも、その目だけは、まだ倒れた魔物から離れていなかった。
「あの、セイルさん」
「何でしょう」
「こいつ、貰っていいですか?」
セイルが俺を見た。
少しだけ、意外そうな顔だった。
「……何に使うのです?」
「素材だよ!」
答えたのはガルドだった。
鉄格子の扉から身を乗り出し、目を輝かせて魔物を見ている。
「魔窟のボスだぞ! しかも何年も力を注がれてた奴だ! 皮も骨も爪も、絶対にとんでもねえことになってる!」
「ガルド、さっきまで怖がってなかった?」
「それとこれとは別だ!」
セイルが小さく笑った。
「どうぞ。もう、私には必要のないものですから」
「ありがとうございます」
俺は魔物の身体に手を触れた。
収納魔法を使うと、巨体が一瞬で消える。
残ったのは、床の血溜まりと、緩んだ鎖だけだった。
セイルはその空いた場所を、しばらく黙って見ていた。
それから二日後、俺たちはグレイザを発つことにした。
セイルとの約束は、魔王が見つかるまでそれぞれで探すこと。何か分かれば念話で知らせてもらえる。それなら、この街に留まっている理由はない。
ガルドは街の鍛冶場を借りて、地下の魔物の素材を少しだけ見ていたらしい。二日間ほとんど寝ていない顔で、宿の前に現れた。
「顔ひどいよ」
「お前、毎回それ言うよな」
「毎回ひどいから」
「仕方ねえだろ。あの皮、刃物が全然通らねえんだぞ。骨なんか叩いたら槌の方が欠けた」
「すごいじゃん」
「すごいけど、今の俺じゃ加工できねえ」
ガルドは悔しそうに言った。
「もっと腕を上げてからだな。それまでは収納に入れといてくれ」
「いいよ」
ティアは門の近くの屋台で、最後の串焼きを買ってもらって満足そうだった。
「次はどこ行くの?」
「まだ決めてない」
「またそれ?」
「魔王の手がかりがないからね。とりあえず、人が多い方に行ってみる」
「ご飯がおいしいところがいい」
「それはお前の基準だろ」
門を抜ける直前、俺は一度だけ振り返った。
大通りの向こうに、役所の建物が見える。首輪をつけた人たちが、今日も荷物を運んでいた。
新しく刻印を付けることはやめる。セイルはそう約束した。
でも、あの人たちの首輪が外れるわけじゃない。
「ノア」
ティアが俺の服を引っ張った。
「行こ」
「……うん」
俺は前を向いた。
魔王を見つけて、世界を元に戻す。
それができれば、きっとこの街も変わる。
そう信じて、グレイザの門をくぐった。
「行かれましたね」
役所の最上階。窓辺に立つセイルの背中に、部下の男が声をかけた。
窓の外では、三つの小さな人影が街道の先へ消えていくところだった。
「ええ」
セイルは窓から目を離さずに答えた。
部下はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「本当に、あの者たちと協力なさるおつもりですか」
セイルは何も言わなかった。
「あの少年は、魔王を殺すとは決めていないと言ったそうですね。会ってから決める、と」
「ええ。そう言っていました」
「それに、あの力です。殺したものが戻らない。魔窟の主でさえ、です。あれが我々に向けられたら――」
「分かっています」
セイルは穏やかに遮った。
それから、ようやく窓から振り返る。
いつもと変わらない、柔らかな笑みだった。
「ですが、構いません」
「なぜです」
「あの少年は、世界を元に戻したいと思っている。人がちゃんと死ぬ世界に」
セイルは再び窓の外へ目を向けた。
街道の先には、もう誰の姿も見えなかった。
「少なくとも、この世界を戻すところまでは――私と同じ目的ですから」




