第八十章 終わらない空
風が吹いていた。
朝の風。湿り気を含んだ、春先のような風。整備棟の屋根の上で、奏太はその風を全身に浴びていた。
高い場所が好きなわけじゃない。格納庫の屋根なんて、本来なら登る場所じゃない。足場は悪いし、傾斜もある。落ちたらただじゃすまない。
でも今日は、ここじゃないと駄目だった。
空を見たかった。
ただ、空を。
見上げた。
青い。
嘘みたいに、青い。
蝕域があった方角——東の空が、どこまでも澄み切っていた。あの暗黒の壁が聳えていた場所。空を喰い、大地を蝕み、あらゆる生命を拒絶していた場所。
今はもう、ない。
抜けるような蒼穹が、地平線の果てまで広がっている。薄い雲が高いところで流れている。朝日が雲の縁を金色に染めて、光の筋が大地に降り注いでいた。
奏太は目を細めた。
眩しい。こんなに眩しい空を、この世界で見たのは初めてかもしれない。赴任してからずっと、東の空には闇が居座っていた。慣れてしまっていた。空の半分が黒いのが普通だった。
それが今、晴れている。
嘘みたいだ。
でも嘘じゃない。
眼下に目を落とす。
整備棟の周囲——基地の外縁、そのさらに向こう。かつて蝕域の侵食に晒され、灰色に枯れ果てていた大地に、色が戻り始めていた。
緑だ。
まだ淡い。まだ弱い。雑草の芽が、恐る恐るという風に土を割って顔を出している。力強さには程遠い。でも確かにそこにある。灰色の大地の所々に、点々と。命が芽吹いている。
奏太は息を吐いた。長く、ゆっくりと。胸の奥に溜まっていた何かが、吐息と一緒に溶けていくような気がした。
門は壊した。蝕域の中核は崩壊した。侵食は止まった。
でも——
視線を北に向ける。
遠い。ずっと遠い方角。地平線の際に、薄い暗雲が残っていた。墨を水に落としたような、淡い灰色。蝕域の残滓か、あるいは新たな発生源か。はっきりしたことはまだわかっていない。調査隊が向かっている。結果が出るまでには時間がかかる。
全てが終わったわけじゃない。
奏太はそれをわかっていた。門を壊しただけだ。世界を蝕んでいた病巣の、一番大きなやつを取り除いただけ。転移があるかもしれない。再発するかもしれない。この世界の傷は深くて、一度の戦いで癒えるほど甘くはない。
それでも。
この空は、綺麗だ。
それだけは間違いない。
屋根の端に、足音が響いた。
軽い靴音。でも確かな足取り。梯子を登ってくる音。奏太は振り返らなかった。その足音を知っていたから。
「ここか」
リーゼの声。
ひょい、と屋根の縁に手をかけて、身軽に登ってくる。パイロットの身体能力。整備棟の屋根くらい、彼女にとっては何でもない。
「おはようございます」
「朝飯も食わずに屋根に登る男に、おはようもないだろう」
「すみません。ちょっと、見たくて」
リーゼは奏太の隣に立った。
銀灰色の髪が朝風に揺れる。紫の瞳が東の空を映す。
しばらく、無言。
風の音だけが二人の間を流れた。
リーゼが口を開いた。
「——綺麗だな」
短い。いつものリーゼだ。でもその声に、奏太は少し驚いた。リーゼロッテ・ヴァイスフェルトが「綺麗」という言葉を使うのは珍しい。戦術報告や作戦説明では絶対に出てこない語彙だ。
「はい。綺麗です」
奏太も同じことしか言えなかった。
語彙の貧困。でもいい。この空を前にして気の利いたことを言える人間がいたら、そいつのほうがおかしい。
リーゼが腰を下ろした。屋根の傾斜に合わせて、膝を立てて座る。奏太も並んで座った。
二人の視線の先に、蒼い空が広がっている。
どこまでも。
「まだ終わっていないが」
リーゼが付け加えた。
奏太は北の空を見た。あの薄い暗雲。リーゼも同じものを見ている。
「わかってます」
「次の偵察報告が来るまで、少なくとも二週間。それまでに機体の整備を完了させなければならない。補給線の再構築、各国との連携体制の維持、新規の蝕域発生に対する即応体制——やることは山積みだ」
リーゼは現実主義者だ。空が綺麗だと言った次の瞬間に、作戦の話ができる。切り替えが早い。エースパイロットの思考回路。
でも、その横顔は穏やかだった。
戦場で見せる鋭さはない。部下に指示を出すときの厳しさもない。ただ静かに、朝の空気の中で隣に座っている。
「アウローラは」
リーゼが視線を動かした。格納庫の方を見ている。屋根の上からは見えないが、その下にアウローラが格納されていることを二人とも知っている。
「修復は完了しています。共鳴駆動の出力も安定。フレームの応力分布も正常値。いつでも出せます」
「そうか」
リーゼの唇が、微かに上がった。
「この機体と、お前と、もう少し一緒に戦える」
短い言葉。でもそこに詰まっているものの重さを、奏太は知っていた。
アウローラ。白銀の機体。奏太が設計思想を根本から見直し、共鳴駆動という未知の技術を組み込んだ一機。リーゼが命を預け、蝕域の門を砕いた一機。整備棟の全員が手を入れ、磨き上げ、送り出した一機。
もう少し一緒に戦える。
その「もう少し」がどれくらいなのか、誰にもわからない。半年かもしれないし、十年かもしれない。蝕域が完全に消えるまで、あるいはそれ以上。
でも、一緒に。
それだけで十分だった。
「わかってます。でも今日は、この空を見ていたくて」
奏太はそう言って、もう一度空を見上げた。
蒼い。どこまでも蒼い。雲が流れる。朝日が昇っていく。世界は回り続けている。蝕域があろうがなかろうが、空は空だ。でも今日の空には、昨日までになかった色がある。
希望の色、なんて言ったら大袈裟だろうか。
大袈裟でいい。今日くらいは。
リーゼは何も言わなかった。ただ隣に座って、同じ空を見ていた。
風が変わった。
南からの風。温かい。もうすぐ季節が変わる。この世界にも春が来る。蝕域に覆われていた頃は、季節の変化すら曖昧だった。灰色の空の下では、夏も冬も大した違いはなかった。
でも今は違う。
春が来る。
ちゃんと。
階下から、声が聞こえた。
「飯だぞー!」
ヨハン。
あの大声は間違いない。整備棟の壁を突き抜けて、屋根の上まで届く声量。朝からこれだ。元気な男。戦闘でどれだけ疲弊しても、翌朝には全回復している。若さか、体質か、それとも単に図太いのか。たぶん全部だ。
続いて笑い声。
フィンだ。何がおかしいのか知らないが、楽しそうに笑っている。あの少年はいつも笑っている。戦いの前も、戦いの後も。その笑顔に何度救われたかわからない。
「馬鹿者、朝から騒ぐな!」
ガルベルトの叱り声。低い。重い。でも本気で怒ってはいない。奏太にはわかる。あの人の本気の怒声はもっと怖い。これは日常の叱り声だ。若い連中を叱るのが習慣になっている。叱ることが愛情表現になっている。不器用な師匠。
「はーい!」
カティアの返事。明るい。元気。反省の色は皆無。ガルベルトに叱られ慣れすぎている。叱られて伸びるタイプ。彼女はもうすぐ一人前の整備士になる。融合型整備技術の最初の継承者として。奏太の技術とガルベルトの技術を両方受け継いだ、新しい世代。
「早く来ないと冷めるよ」
ペトラ。
食堂のペトラ。温かいスープと焼きたてのパン。戦場の胃袋を支え続けた人。兵士たちの母。彼女の料理がなければ、この部隊はとっくに心が折れていた。武器では人は守れない。でも温かい飯は人を守れる。ペトラはそれを知っている。
階下の声が重なる。
ヨハンとフィンがふざけ合う声。ガルベルトが「食う前に手を洗え」と言う声。カティアが「師匠が一番汚れてますよ」と返す声。ペトラが笑う声。誰かが食器を並べる音。スープの匂い——いや、屋根の上までは届かないか。でも想像できる。あの食堂の、あの匂い。
日常だ。
戦いの合間の、ささやかな日常。
でもそのささやかさを守るために、みんな戦ってきた。
リーゼが立ち上がった。
膝についた埃を軽く払う。
「行くか」
「はい」
奏太も立ち上がった。屋根の上は風が強い。髪が乱れる。どうでもいい。
最後にもう一度、空を見た。
蒼い空。流れる雲。芽吹き始めた大地。遠くの薄い暗雲。全部ひっくるめて、今日の空だ。
綺麗で、まだ不完全で、それでも昨日よりずっと明るい空。
この空の下で、まだやることがある。
直す機体がある。磨く技術がある。繋ぐ命がある。守る仲間がいる。帰る場所がある。
全てが終わったわけじゃない。
でも、全てが終わる日のために、今日もやる。明日もやる。明後日も。
それが奏太の戦い方だ。
工具を握って、機体に向き合って、一本のボルトを締める。その繰り返しが、誰かの命を繋ぐ。
地味で、地道で、派手さの欠片もない戦い。
でも、奏太はそれを誇りに思う。
リーゼが梯子に手をかけた。
振り返って、奏太を見た。
紫の瞳。朝日を受けて、淡く光っている。銀灰色の髪が風になびく。
笑っていた。
柔らかく。静かに。戦場では絶対に見せない顔。
奏太も笑った。
「さて、仕事に戻りますか」
言って、伸びをした。
背骨が鳴った。屋根の上に座っていた時間は短かったはずなのに、身体が固まっている。疲れは溜まっている。門の戦いから、まだ数日しか経っていない。完全な回復には程遠い。
でも、動ける。
動けるなら、動く。
それが整備士だ。
梯子を降りる。
リーゼが先に降りて、下で待っていた。
「急げ。ペトラの機嫌を損ねると昼飯が減る」
「それは困る」
「お前は食い過ぎだ」
「整備士は体力勝負なんです」
「言い訳が上手くなったな」
「リーゼに鍛えられましたから」
軽口を叩きながら、整備棟の中に入る。
格納庫を抜ける。アウローラが静かに佇んでいた。白銀の装甲が、格納庫の照明を反射して鈍く光っている。共鳴駆動は停止中。沈黙した巨人。でもその内側には、奏太が注ぎ込んだ全ての技術が眠っている。
奏太は歩きながら、アウローラに手を振った。
小さく。誰にも見えないくらいの仕草で。
また後で。整備するから。もっと良くするから。次の戦いでも、リーゼを送り出して、迎えに行ける機体にするから。
約束。
声には出さない約束。整備士とその機体の間だけの、静かな契約。
格納庫を抜けた。
廊下の向こうに、食堂の灯りが見える。
声が聞こえる。笑い声。叱り声。食器の音。スープの匂い。パンの匂い。
温かい。
奏太は歩いた。
整備棟の廊下を、食堂に向かって。背中に朝日が差していた。窓から入り込んだ光が、廊下に長い影を落とす。
その影が、一歩ごとに食堂に近づいていく。
帰る場所に、向かっていく。
戦いは終わらない。
空は晴れた。でも、まだ暗雲が残っている。
それでいい。
終わらないなら、続ける。
仲間がいる。機体がある。技術がある。帰る場所がある。
それだけあれば、十分だ。
奏太は食堂のドアを開けた。
ペトラの「遅い!」という声。ヨハンの「屋根の上にいたんだぜ」という報告。フィンの笑い声。カティアの「鷹森さん、席こっちです」という呼び声。ガルベルトの「朝飯くらい黙って食え」という唸り声。
そしてリーゼが、奏太の隣の席に当然のように座る。
誰も何も言わない。でも全員が笑っている。
温かいスープ。焼きたてのパン。使い込まれた木のテーブル。窓から差し込む朝日。
日常だ。
戦いの合間の、ただの朝。
でもこの朝が、何より尊い。
奏太はスープを一口飲んだ。
温かい。
身体の芯まで、じんわりと。
窓の外には蒼い空が広がっていた。どこまでも。終わらない空が。
その空の下で、今日も一日が始まる。




