第七十九章 新たな翼
最後のボルトを締め終えた瞬間、奏太は工具を握ったまま三秒ほど固まった。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「——終わった」
声に出すと、実感が追いついてきた。
アウローラの修復が、完了した。
三週間。左翼推進ユニットの冷却系を再設計し、焼損したチャンバーを新造し、装甲板を一枚ずつ剥がしては戻した。ボルト一本、ナット一個、全部指先で確かめた。
計測器は使う。でも最終判断は指だ。機械は嘘をつかない。
白銀の装甲に手を置いた。冷たい金属の奥から、健全な振動が返ってくる。
全関節、正常。全回路、導通良好。全推進ユニット、応答あり。
完璧だ。
「まだ作るのか」
背後から、呆れた声が飛んできた。
振り向かなくてもわかる。このドスの利いた低音はガルベルトしかいない。
案の定、格納庫の入り口に大柄な老整備士が腕を組んで立っていた。琥珀色の目が「またか」と言っている。口には出さないが、全身で言っている。
「修復は終わったんだろう。もう寝ろ」
「いや、修復は終わりましたけど——これからが本番です」
奏太はアウローラの足元に広げた図面を指さした。
何枚もの紙が重なっている。端がインクで汚れて、角が丸まっている。何度も書き直した跡だ。
「次世代機の構想です」
「は?」
「アウローラの運用データから見えてきたことがあるんです。融合型の設計思想を、最初から前提にした機体。後付けじゃなくて、設計段階から魔力回路と物理機構を一体として組み込む」
ガルベルトの眉が動いた。呆れの色が、別の色に変わった。
興味だ。
この男は面白い技術の前では好奇心が理性を上回る。二十五年以上の職人の性だ。
ガルベルトが歩み寄ってきた。図面を覗き込む。太い指が紙の上をなぞった。
「この関節構造——三重殻か」
「はい。外殻、中殻、内殻を独立させて、それぞれに魔力系統と物理系統を配分します」
「アウローラは二重殻だったな」
「ええ。でも冷却系の負荷が偏りすぎた。三重殻にすれば熱分散が改善できます」
「贅沢な構造だ」
ガルベルトの声が低くなった。だが否定ではない。この男が本気で否定するときは、もっと短い言葉になる。「駄目だ」の三文字で済ませる。
今は違う。評価している。
「製造コストは跳ね上がるぞ」
「わかってます。でも性能は確実に上がる。何より——パイロットの生存率が」
「……ふん」
ガルベルトが図面の隅に手を伸ばした。作業着のポケットからペンを抜き、太い線を引き始める。
「この螺旋構造。巻き数が足りん。もう二巻き増やせば共鳴効率が上がる」
「マジですか。計算してもらえます?」
「計算じゃない。感覚だ」
言い切った。二十五年以上の経験則。数式では表現できない領域だ。
ガルベルトのペンが走る。魔力回路の接続ポイントがずれ、螺旋の巻き数が変わり、回路全体が再構成されていく。
奏太は食い入るように見ていた。一人では見えなかった最適解が、二人の視点を重ねることで浮かび上がる。これが技術融合だ。
「ここの共鳴チャンバー、形状を絞った方がいいな」
「いや、絞ると出力特性が変わりません? 共鳴波の位相が——」
「位相のずれは回路側で補正できる」
「なるほど。じゃあチャンバーの容積をこう変えて——」
二人の議論が加速した。図面の余白が計算式と修正案で埋まっていく。紙が足りなくなって、新しい紙を引っ張り出した。
*
「次は私も設計から参加させてください」
声がした。
二人が同時に顔を上げた。
カティアが整備棟の入り口に立っていた。赤毛のショートヘアをピンで留めて、作業着の袖を肘まで捲っている。緑の目が図面に釘付けになっていた。
「カティア、いつからいた」
「三十分くらい前から。お二人が夢中すぎて声かけるタイミングなかったんです」
三十分。師匠の仕事を邪魔しない礼儀と、食い込むタイミングを見極める嗅覚。さすがガルベルトの弟子だ。
「この三重殻構造」
カティアが図面を覗き込んだ。声が一段上がっている。興奮を抑えきれていない。
「融合型整備の教育プログラムにも組み込みたいです。教官として次世代機の設計思想を理解していないと、教えようがありませんから」
「理屈は合っている」
ガルベルトが短く認めた。認めるのが早い。この師匠は弟子に甘い——と奏太は思っているが、口に出したことはない。出したら殴られる。
「ただし覚悟しろ。設計は整備より何倍も面倒だ」
「師匠の弟子ですから。面倒なことには慣れてます」
カティアがにっと笑った。
度胸がある。ガルベルトを相手にこの返しができるのは、カティアだけだ。
「それに——」
カティアの声のトーンが変わった。少しだけ、真剣になった。
「私は融合型整備を最初に学んだ人間です。師匠の魔道整備と、タカモリさんの物理整備。両方の基礎を知っている。だったら設計にも入らないと。次の世代に渡すものの中身を、わかっていない人間が教壇に立つわけにはいきません」
沈黙が落ちた。
ガルベルトと奏太が視線を交わした。一秒。二秒。
「入れ」
ガルベルトが言った。それだけだった。
奏太が図面を広げ直して、カティアの立つ場所を作った。三人で図面を囲む。ガルベルトが魔力系統の回路を引き、奏太が物理構造の骨格を設計し、カティアが両者の接続ポイントを書き込んでいく。
三つの視点。三つの技術。一つの図面の上で交差する。
奏太の手が止まった。
「——すごいな、これ」
「何がだ」
「三人で描くと、全然違う図面になる。一人じゃ絶対にたどり着けない場所に来てる」
「当たり前だ」
ガルベルトが鼻を鳴らした。
「技術は一人で完結しない。お前が一番よく知っているだろう」
そうだ。知っている。
異世界に飛ばされた日本人の整備士が、帝国の老職人と出会い、技術を融合させ、弟子がそれを受け継ぐ。一人では不可能だったことが、人と人が繋がることで可能になる。
それが奏太のこの三年間の全てだった。
*
昼を過ぎた頃、ゲルナーが格納庫に現れた。
七三に分けた黒髪を一本も乱さず、革鞄を脇に抱えている。いつもの姿だ。この男は戦場だろうが格納庫だろうが、身だしなみを崩さない。
「鷹森」
「ゲルナーさん。何か——」
「書類を届けに来た」
ゲルナーが鞄から一通の公文書を取り出した。次世代魔道兵器開発計画予算承認の件。
奏太は数字を見て固まった。
アウローラの開発予算の三倍。
「——え?」
「次世代機の予算、確保しておきました」
ゲルナーが言った。そして——珍しく微笑んだ。
口元だけの、控えめな笑みだ。だがこの男が笑うこと自体が珍しい。
「どうやって通したんですか、これ」
「報告書だ」
「報告書」
「百二十ページにまとめた。アウローラの戦闘データ、融合型整備の技術検証結果、パイロット生存率向上のエビデンス。全て数字で示した」
「百二十ページ——」
「上層部は数字に弱い。正確に言えば、数字で示されたものを拒否する根拠を持たない」
淡々と言い切った。ゲルナーの戦い方だ。百二十ページの報告書が、この男の武器だった。
「感謝します」
「感謝は不要だ。投資に見合う成果を出してくれれば、それで十分だ」
素っ気ない。だがゲルナーが興味のない案件に百二十ページは費やさない。この男も信じているのだ。技術の未来を。
ガルベルトが横から覗き込んだ。予算額を見て、口笛を吹いた。
「ゲルナー。お前、よくこんな額を——」
「必要な額です。足りなければ追加申請します」
「追加もできるのか」
「できるようにしておきました」
ゲルナーの黒い目が、図面の上を走った。三人で書き込んだ設計図。魔力回路と物理機構が絡み合う、次世代機の構想。
「いい図面だ」
一言だけ言って、ゲルナーは踵を返した。
去り際に付け加えた。
「それと——もう一つ報告があります」
「まだあるんですか」
「共和国のイレーネから正式な書簡が届きました」
奏太の手が止まった。カティアとガルベルトも顔を上げた。
「共和国でも融合型整備の教育を始めたとのことです。帝国で確立された技術を自国に導入する——イレーネが教育責任者として指揮を執っている」
格納庫が静まり返った。
融合型整備。奏太とガルベルトが確立し、カティアが教育プログラムにまとめた技術。それが国境を越えた。帝国と共和国。かつて対立していた二つの国が、同じ技術を共有し始めている。
「イレーネさんが——」
奏太の声がかすれた。
イレーネの顔が浮かんだ。共和国の技術者。冷静で有能で、技術に対して誠実な女性だ。彼女が融合型整備の価値を認め、自国に持ち帰り、教育体制を構築した。一人の異世界人が持ち込んだ知識が、国境を越えた。
「鷹森」
ゲルナーが背を向けたまま言った。
「お前の技術は、もはや一国のものではない。記録を残してくれ。次の世代が必要とする形で」
革靴の音が遠ざかっていった。
カティアが小さく拳を握った。
「すごい——国境を越えたんですね」
「ああ」
ガルベルトが腕を組んだ。琥珀色の目が、遠くを見ていた。
「俺の技術は、二十五年以上この工房から出なかった。弟子に教え、機体を整備し、それで終わるはずだった。それが——鷹森と出会って変わった」
珍しく長い台詞だった。
「魔力と物理が融合し、帝国と共和国が融合した。技術は壁を越える。そういうものだったんだな」
奏太は何も言えなかった。
胸が詰まっていた。
この世界に来たとき、レンチ一本しかなかった。それが三年で、ここまで来た。
ガルベルトがいたから。カティアがいたから。ゲルナーが道を作り、イレーネが価値を認めてくれたから。
一人では絶対に、ここには来られなかった。
*
夕方。三人はまだ図面を囲んでいた。議論は尽きない。技術とはそういうものだ。終わりがない。
「この推進ユニットの配置、左右非対称にしませんか」
カティアが提案した。
「非対称?」
「パイロットの利き手に合わせて出力配分を変えるんです。右利きのパイロットなら、右旋回の初動を速くする設計。逆もできます」
奏太とガルベルトが同時に図面を見た。
「面白い」
奏太が言った。
「面倒だ」
ガルベルトが言った。
二人の言葉が重なった。目が合った。
「やるか」
「やるしかないだろう」
カティアが笑った。師匠と先輩が同時に食いついた。
「次世代機には名前をつけないとな」
ガルベルトがぽつりと言った。
「アウローラの次——か。何がいいですかね」
「俺に聞くな。名前のセンスはない」
「師匠、それは自覚あったんですね」
「うるさい」
三人の笑い声が格納庫に響いた。
図面の上には、まだ形になっていない翼がある。線と数字と修正線の集合体。だがその奥に、確かな未来が見えていた。
奏太はペンを置いて、白銀のアウローラを見上げた。夕陽が装甲を染めて、淡い橙色に輝いている。
この機体から始まった。
ガルベルトと出会い、技術を融合させ、カティアに受け継ぎ、ゲルナーが予算という形で支え、イレーネが国境の向こうに広げた。
一本のレンチから始まった旅が、翼になろうとしている。
次の翼は、もう一人のものじゃない。
奏太はポケットの六角ボルトを指先で回した。考え事をするときの癖。だが今は、考え事ではなかった。
ただ——嬉しかった。
技術は人を繋ぐ。国境を越え、文化を越えて。その連鎖の中に自分がいる。
図面の上のペンを、もう一度取った。
「さて。続きをやりましょう」
「ああ」
「はい!」
三つの声が重なった。
格納庫の外では、日が沈みかけていた。空が橙から紫に変わる。だが整備棟の中には明かりが灯っている。三人の手が図面の上を動き続けている。
新しい翼が、ここから生まれる。
まだ線と数字の集まりにすぎない。形になるのは先だ。飛ぶのはもっと先だ。
でも——始まっている。
確かに、始まっている。




