第七十八章 それぞれの明日
辞令は、突然やってくる。
蝕域の門が消えてから十日。基地にはようやく日常が戻りつつあった。洗濯物が干され、訓練場に声が響き、食堂からペトラの鼻歌が聞こえる。そんな穏やかな朝に、それは届いた。
最初に知らせを受けたのは、フィンだった。
格納庫で機体の点検をしていた。いつもの日課だ。戦いが終わっても、機体を見る習慣は変わらない。
「フィン少尉」
ロッテの声が格納庫に響いた。青い目はいつも通り冷静だったが、手に持った通達書がわずかに震えている。
「前線司令部より正式通達。フィン少尉に対し、エースパイロットの称号を授与。二つ名は——『調和の翼』」
フィンの手が止まった。
持っていた整備用の布が、ぽとりと落ちた。
「え」
「おめでとうございます」
ロッテが微笑んだ。淡い金髪がふわりと揺れる。この通信士官が笑顔を見せるのは珍しい。
「調和の——翼?」
「門の前での群体突破。上位個体の壁を打ち破った戦術的功績。調和型適性の極限運用。それらを総合して、正式に記録されました」
フィンは呆然と立ち尽くした。
訓練番長。それがかつてのあだ名だ。才能がない。センスがない。ただ訓練だけは誰よりもやる。そんな自分が——エースパイロット。
「嘘だろ」
「嘘じゃないよ」
背後から声がした。振り返ると、エーリヒが壁にもたれて立っていた。丸い眼鏡の奥で、灰緑色の目が穏やかに笑っている。
「お前にふさわしい名前だ、フィン」
「エーリヒ——」
「ちなみに僕にも辞令が出てる」
エーリヒが通達書をひらひら振った。
「『最高の僚機』。フィン少尉と共にその名を記録する——だってさ」
フィンの目が大きく見開かれた。
「お前も——」
「まあ、僕は横にいただけだけどね」
「横にいただけって——お前がいなかったら俺は死んでたぞ!」
「大げさだよ」
「大げさじゃない!」
フィンがエーリヒの両肩を掴んだ。力がこもる。青緑色の目が真っ直ぐにエーリヒを射抜いた。
「お前が後ろにいてくれたから、俺は前に飛べたんだ。最高の僚機って——当たり前だろ」
エーリヒは目を瞬いた。
それから、眼鏡を押し上げて笑った。
「ありがとう。でも肩、痛い」
「あ、ごめん」
慌てて手を離す。二人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。
格納庫に笑い声が響いた。飾り気のない、ただの笑い声が。
同じ日、整備棟の一角。
ガルベルトが書類を広げていた。表紙には「新技術教育プログラム」とある。琥珀色の目が一行一行を追う。
ガルベルトの魔道整備と、奏太の物理整備。二つが融合して生まれた新しい整備体系。蝕域での戦いがその有効性を証明した。
もはや秘伝じゃない。次の世代に伝える技術だ。
「カティア」
整備棟の作業台で部品を磨いていたカティアが、びくりと顔を上げた。
「は、はい!」
「このプログラムの最初の教官を、お前に任せる」
沈黙が落ちた。
カティアの明るい緑の目が、みるみる大きくなった。
「教官——私が?」
「他に誰がいる」
ガルベルトの声は素っ気ない。いつもの調子だ。
「お前は俺の魔道整備と鷹森の物理整備、両方を現場で学んだ唯一の人間だ。融合型整備の最初の実践者でもある。適任はお前以外にいない」
「でも、私なんかまだ——」
「まだ、は禁句だ」
ガルベルトが遮った。太い腕を組み、琥珀色の目でカティアを真っ直ぐ見据える。
「お前が蝕域で何をしたか、俺は全部見ていた。戦場であの整備をやれる人間は、そうはいない」
カティアの唇が震えた。目が潤む。
「師匠——」
「泣くなよ。教官が泣いてどうする」
「すみません。でも——」
カティアは袖で目元を押さえた。涙は止まらなかったが、口元は笑っていた。
「絶対にやり遂げます。師匠の技術と、タカモリさんの技術。全部、次の世代に渡します」
ガルベルトは鼻を鳴らした。満足の音だ。この不器用な師匠の「よくやった」は、いつもこの鼻音に宿る。
作業台の隅で、ディーターが黙って茶を淹れていた。三人分。湯気が静かに立ち上る。灰色の目が一瞬だけカティアに向いて、すぐに茶葉に戻った。
言葉はない。ただ温かい茶が、寡黙な祝福を語っていた。
司令部の一室。
リーゼは机の上に広げられた編成表を見ていた。
「部隊再編を、お前に任せたい」
ヴェーバーの声が室内に響く。白髪の司令官は穏やかな表情で、だが言葉には重みがあった。
「蝕域戦での経験を踏まえた新体制。パイロット、整備、通信、医療——すべてを見直す必要がある。それができるのは、現場を知る指揮官だけだ」
「了解しました」
リーゼの返答は短かった。銀灰色の髪が肩で揺れる。紫の瞳に、迷いはない。
部屋を出る。廊下を歩きながら、編成表に目を落とした。名前の一つ一つを指でなぞる。フィン、エーリヒ、ヨハン、ルーカス——共に戦った者たちの名前。
この名前の並びを、最適な形に組み直す。それが自分の仕事だ。
戦場で先頭に立つことだけが指揮官の役目じゃない。戦いの後に、未来の形を作ること。それもまた、指揮官の責務だ。
髪の毛先に手が伸びかけて——止めた。
困った時に髪を弄る癖。最近、それが減っている。困らなくなったわけじゃない。困った時に頼れる人間がいるようになっただけだ。
リーゼは小さく息を吐いて、歩き続けた。やることは山ほどある。だが、一つずつ片付ければいい。
午後。
奏太は司令部に呼び出された。
待っていたのはゲルナーだった。七三に撫でつけた黒髪。冷静な黒い目。相変わらずの鉄面皮——だが、机の上に置かれた辞令書を差し出す手つきは、どこか丁寧だった。
「帝国軍技術顧問。民間技術者に対する特別技術階級だ。これにより、鷹森奏太の技術的貢献が帝国軍の正式な記録として残る」
奏太は辞令を受け取った。
「俺、軍人じゃないですよ」
「だから民間技術者向けの階級だ。問題ない」
「報告書で上層部を説得したって聞きましたけど」
「七十二ページ書いた。必要な分量だった」
ゲルナーの口元が、ほんのわずかに緩んだ。この男の笑みを見たことがある人間は、基地でも片手で足りるだろう。
「鷹森。これからも作るか」
「当たり前です」
即答だった。
火傷痕のある指先を見た。この世界に来てから、ずっと工具を握ってきた手だ。震えたことも、折れかけたこともある。でも離さなかった。
「俺は作る側の人間ですから。作ることでしか、みんなの役に立てない」
「十分だ」
ゲルナーが頷いた。
「次世代機の予算は確保済みだ。存分に使え」
奏太は深く頭を下げた。
ゲルナーという男は、感情を数字に翻訳する。七十二ページの報告書は、この寡黙な軍人なりの戦い方だ。データで道を切り開く。それは奏太がスパナで道を切り開くのと、根っこは同じだった。
夕方。格納庫の前。
フィンが機体チェックを終えて外に出ると、一人の若者が待っていた。
ルーカスだ。
淡い茶色の髪。百六十五センチの小柄な体。まだ少年の面影が残る顔——だが、その目は違っていた。かつての不安げな揺れがない。芯がある。真っ直ぐな光だ。
「フィン先輩」
「ルーカス。どうした?」
「報告があります」
ルーカスが背筋を伸ばした。大きめの制服の中で、十八歳の体が精一杯の姿勢を作る。
「新人パイロットの教育係を志願しました。来月、新しい配属が三名来ます。その指導を——俺にやらせてください」
フィンは目を見開いた。
「お前が——教育係?」
「はい」
ルーカスの声は、はっきりしていた。
「前線を退いてから、ずっと考えてました。自分に何ができるか。怪我で飛べなくなって、一度は全部終わったと思った」
ルーカスの右手が、無意識に左肩に触れた。負傷の痕が残る場所だ。
「でも先輩が言ってくれたんです。『大丈夫、俺がいる』って。あの言葉で——俺は立ち直れました」
フィンの胸が締まった。覚えている。怯えるルーカスに手を差し伸べた日のことを。
「だから今度は、俺が言う番です」
ルーカスが一歩前に出た。
「新人が来たら、俺が言います。『大丈夫、俺がいる』って。先輩がしてくれたように、俺も後輩を支えます」
言葉が、巡っていた。
フィンがルーカスに渡した言葉が、ルーカスの中で育ち、今度はルーカスから次の誰かに渡される。成長は連鎖する。受け取ったものを、次に手渡す。その繰り返しが、人を強くする。
ルーカスが姿勢を正した。
右手が額に上がる。
「自分も——後輩を守れるパイロットになります」
敬礼。
不器用だった。肘の角度が少しずれている。軍学校の教官が見たら直されるだろう。
だが——真っ直ぐだった。
フィンは息を吸った。目が熱い。涙が滲む。でも堪えた。
敬礼を返した。
「頼んだぞ、ルーカス」
「はいっ!」
ルーカスの声が、夕暮れの格納庫に響いた。張りのある、力強い声だった。
少し離れた場所で、奏太がその光景を見ていた。
整備棟の入口に寄りかかって、腕を組んでいる。火傷痕のある指先が、ポケットの中のボルトを転がしていた。
「いい景色だな」
独り言のつもりだった。
「ああ」
隣に、いつの間にかリーゼが立っていた。壁に背を預け、腕を組んでいる。紫の瞳が夕陽に染まるフィンとルーカスを映していた。
「成長の連鎖、ってやつか」
奏太が言った。
「大げさな言い方だな」
「でも、そうだろ。リーゼさんがフィンを育てて、フィンがルーカスを支えて、ルーカスが次の誰かを守る。ガルベルトさんがカティアに技術を渡して、カティアが次の世代に伝える。全部繋がってる」
リーゼは答えなかった。ただ、髪の毛先を一度だけ指で弾いて、小さく息を吐いた。
「お前もだ、タカモリ」
「俺?」
「お前が持ち込んだ技術が、この基地を変えた。融合型整備も、次世代機も——お前がいなければ存在しない」
「俺は工具を握っただけですよ」
「その工具が、全員の命を繋いだ」
奏太は言葉に詰まった。リーゼは相変わらず少ない言葉で急所を突いてくる。
「——ありがとうございます」
「礼を言う相手が違う。自分自身に言え」
「それは無理がある」
「ならペトラに言え。あの人の飯がなかったら、お前はとっくに折れていた」
奏太は笑った。否定できなかった。
夕陽が傾いていく。格納庫の影が長く伸びる。フィンとルーカスがまだ話し込んでいる。エーリヒがそこに合流して、三人で笑い合っている。カティアがディーターと一緒に茶を運んできた。ガルベルトが腕を組んだまま、遠くからそれを見ている。
一人一人が、自分の場所を見つけていた。
戦いは終わった。だが、止まったわけじゃない。
フィンは翼を得た。エーリヒはその隣に立ち続ける。ガルベルトは技術を未来に託し、カティアがその橋渡しをする。リーゼは新しい部隊の形を作り、奏太は次の機体を設計する。ルーカスは後輩に手を差し伸べ、受け取った言葉を手渡していく。
それぞれの明日がある。
それぞれの道がある。
でもその道は、どこかで必ず交わっている。戦場で結ばれた絆が、それぞれの未来を一つに編み上げている。
食堂の方から、ペトラの声が聞こえた。
「ご飯できたよー! 早く来ないと冷めるからね!」
全員が顔を上げた。
フィンが真っ先に走り出した。エーリヒが呆れた顔でその後を追う。ルーカスが慌てて続いた。カティアが笑いながらディーターの腕を引っ張り、ガルベルトがゆっくりと歩き出す。
リーゼが壁から背を離した。
「行くぞ、タカモリ」
「はい」
奏太はボルトをポケットにしまった。
歩き出す。隣にリーゼがいる。前にフィンたちの背中がある。後ろから夕陽が照らしている。
帰る世界はない。でも、帰る場所がある。
走っていく仲間たちの背中を見ながら、奏太は思った。
この場所で、この人たちと、明日を作っていく。
それが自分の——それぞれの明日だ。
食堂の扉が開いた。温かい匂いが溢れ出す。
全員が、笑っていた。




