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戦えない整備士、異世界転移して魔道兵器を修理してたらいつの間にか世界を変えていた——異世界整備録——  作者: 試作ノ山
第五部 解放篇

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第七十七章 帰る場所

 いい匂いがした。

 油が弾ける音。鍋底でことこと煮える野菜の気配。焦がした香辛料が空気に溶けて、鼻の奥をくすぐる。

 この匂いを、奏太は知っている。

 ヴァルハイム基地で初めて嗅いだ、あの匂いだ。


 蝕域解放から四日が経っていた。

 前線拠点の損壊は激しかったが、厨房設備だけは無事だった。リーゼが真っ先にそこを確認したと聞いて、奏太は笑った。この人の優先順位は昔から変わらない。

 束の間の平和。その最初の朝に、リーゼが厨房に立った。


「手伝おうか」

「邪魔だ」

 奏太の申し出は一秒で却下された。

 銀灰色の長い髪を高い位置で雑にまとめ、予備のエプロンを巻いたリーゼが包丁を握っている。あの頃と同じ姿だ。

「今日は多めに作る」

 リーゼがそう言った。振り返りもせず、手を止めもせず。

「何人分?」

「さあ。来たい奴が来ればいい」

 ぶっきらぼうだが、その声はどこか楽しそうだった。


 最初に来たのはフィンだった。

「うわ、この匂い! 中尉が作ってるんですか!」

 明るい栗色の髪を跳ねさせながら、食堂に飛び込んでくる。青緑の目が輝いている。あの頃と同じ反応。ただし声が少しだけ低くなった。

「座ってろ」

「はい!」

 即座に椅子を引く。素直さも変わっていない。

 奏太はフィンの隣に腰を下ろした。テーブルには既に四人分の食器が並んでいる。リーゼ、奏太、フィン、そしてもう一人——。

「おう。いい匂いがするじゃねえか」

 ヨハンが食堂の入り口に立っていた。

 濃い金髪。口髭。声の大きさ。何も変わらない。

「俺の分は?」

「ある」

「——え、あるのか」

 ヨハンが目を丸くした。

「今日は多めに作った。それだけだ」

 リーゼは背を向けたまま、鍋をかき混ぜている。耳が赤い。奏太にはそれが見えた。

 四人がテーブルについた。

 リーゼ。奏太。フィン。ヨハン。

 ヴァルハイム基地での最初の食卓と同じ顔ぶれ。あのとき匂いに釣られて来たヨハンに「ない」と言い放ったリーゼが、今日は最初から四人分を用意していた。


 料理が並ぶ。

 根菜と干し肉の煮込み。香辛料で味付けした穀物のパンケーキ。野草のスープ。メニューまで同じだ。

「あの時と同じ料理だ」

 奏太が言うと、リーゼの手が一瞬止まった。

「配給品が同じなんだから、メニューも同じになる。それだけだ」

「そうだな」

 奏太は笑った。リーゼの紫の瞳がちらりとこちらを見て、すぐに逸れた。髪の毛先を指で弄っている。困ると出る癖だ。

 フィンが一口食べて、声を上げた。

「美味い! やっぱり中尉の料理は最高です!」

「お世辞は——」

「本気ですって!」

 ヨハンも煮込みを口に運び、大きく頷いた。

「反則だ、やっぱり。この味は反則」

 奏太はスープをすすった。あの日と同じ味だ。だが——何かが違う。味ではない。空気だ。

 あの日、奏太はこの食卓を「悪くない」と思った。まだ何もわかっていなかった頃。

 今は違う。


 セルゲイが入ってきた。赤い短髪に深い緑の目。テーブルの料理を見た瞬間、目が光った。

「飯か! 俺にも食わせろ!」

「勝手に座れ」

 リーゼの返事はそっけないが、追加の皿は既に用意してある。セルゲイが煮込みを頬張り、目を見開いた。

「うめえ……共和国の軍飯とは次元が違う」

「当然だ」


 椅子が足りなくなった。

 カティアとディーターが来た。

 赤毛のカティアが緑の目をきょろきょろさせながら覗き込み、ディーターは何も言わず壁際に立って茶を啜っている。だがリーゼが黙って皿を差し出すと、受け取って静かに席についた。灰色の目が微かに緩んだ。この寡黙な男の最大限の賞賛だ。

 八人。テーブルが狭い。肘がぶつかる。だが誰も文句を言わない。


「で、ヨハン」

 リーゼが切り出した。

「中隊長昇進の辞令、受けたんだろう」

 食堂がざわついた。フィンが身を乗り出す。

「え、本当ですか!」

 ヨハンが照れたように口髭をしごいた。

「まあな。ヴェーバー閣下に『お前が適任だ』って言われちゃあ、断れねえだろ」

「もう坊主とは呼べないな」

 フィンがにやりと笑った。ヨハンが目を剥く。

「お前——俺の台詞を取るな」

「いつも言われてたので。たまにはお返しです」

 食堂に笑い声が響いた。ディーターが黙って茶をもう一杯淹れた。祝いの茶だ。この男のやり方はいつもこうだ。

「まだ引退はせんぞ」

 ディーターが唐突に言った。この男がこれだけの言葉を自分から発するのは珍しい。灰色の目がカティアを見た。カティアが背筋を伸ばす。

「はい。まだまだ教わりたいです」

 ディーターが頷いた。それだけ。だがカティアの緑の目が潤んでいた。


 食事が進む。皿が空になり、おかわりが盛られ、また空になる。フィンは三杯目のスープをおかわりした。あの頃と同じだ。

 リーゼは無表情のまま——しかし箸を置かずに——全員の反応をそっと観察していた。美味しそうに食べる顔を確かめるのが、この人の癖だ。

 食堂の扉が開いた。

 ガルベルトだった。赤褐色の髪を後ろに撫でつけた、厚い腕の男。その後ろに、同じ赤褐色のロングヘアを編み込んだアンネリーゼが続く。父と同じ琥珀色の目。

 ガルベルトは壁際に立ち、腕を組んだ。ディーターの隣。二十年来の戦友が壁を背にしている。アンネリーゼがカティアの隣に座った。

 ガルベルトが口を開いた。食堂が静かになる。

「アンネリーゼ」

「はい、お父さん」

 ガルベルトの琥珀色の目が、わずかに揺れた。

「……よくやった」

 短い。ぶっきらぼう。この男はいつもこうだ。

 だがアンネリーゼは微笑んだ。同じ琥珀色の瞳が温かく光る。

「ありがとう、お父さん」

 食堂の空気が柔らかくなった。フィンが目元を擦っている。

「それと——」

「主任軍医の辞令が出た。アンネリーゼ・ドルン中尉、前線拠点主任軍医に任命される」

 アンネリーゼが目を見開いた。

「……本当?」

「ヴェーバー閣下の推薦だ」

 カティアが歓声を上げ、ヨハンが口笛を吹き、セルゲイが「やるじゃねえか!」とテーブルを叩いた。

 アンネリーゼは深く息を吸って、父を見上げた。

「私が診ます。この前線拠点の全員を」

 いつもの口癖。だが今日のそれには、新しい重みが乗っていた。

 ガルベルトは何も言わず、小さく頷いた。それだけで十分だった。


 食事の後。フィンが手紙用の紙を広げていた。ペンを指先で回しながら、考え込んでいる。

「母さんに手紙?」

「はい。でも、何書けばいいんですかね」

 フィンは首のペンダントに手を触れた。母の形見。

「なら、短くていいんじゃないか」

「短く?」

「元気にやっています。それだけでいいと思う」

 フィンが奏太を見た。少し考えて、紙にペンを走らせた。


 母さんへ。

 元気にやっています。

 飯もうまいです。

 もう少ししたら帰ります。

 フィンより


 四行。

「短すぎますかね」

「いや。十分だ」

 奏太は笑った。フィンも笑った。その笑顔は、出会った頃より少し大人びていた。


 食堂が静かになっていく。

 セルゲイとヨハンが飲み比べを始め、ディーターが黙って皿を洗っている。ガルベルトはいつの間にか消えていた。照れたのだろう。

 リーゼが奏太の向かいに座った。

「あの日のことを覚えているか。最初の食卓」

「覚えてる」

「私は——料理を食べてもらえたことが、嬉しかった」

 あの日、食器を片付けるとき、リーゼの紫の瞳に浮かんでいた表情。満足。奏太はそれを覚えている。

「今日も嬉しかったか」

「うるさいな。聞くな」

 髪の毛先を弄っている。耳が赤い。


 ポケットの中の封書に手が伸びた。

 ペトラからの手紙だ。出撃前に「帰ってきたら読みなさい」と渡されたもの。

 封を開けた。


 鷹森さんへ


 基地で待っています。皆さんの帰りを。

 食堂の準備はいつでもできています。温かいスープと焼きたてのパンを用意して待っていますからね。

 皆さんが帰ってきたら、たくさん食べさせてあげます。

 だから——必ず帰ってきてください。全員で。

 早く来ないと冷めるよ。


 ペトラ・リンツ


 短い手紙。温かい手紙。最後の一行がペトラの口癖そのもので、奏太は目頭が熱くなった。

 手紙を折り畳んで、胸ポケットにしまった。


 食卓を見渡す。

 リーゼがいる。フィンがいる。ヨハンがいる。セルゲイがいる。カティアがいる。ディーターがいる。アンネリーゼがいる。ヴァルハイム基地にはペトラが待っている。

 あの日——異世界に飛ばされた夜、奏太はコンビニ弁当をぶら下げて一人で帰り道を歩いていた。食事は燃料補給でしかなかった。

 今は違う。

 帰る世界はない。門が消えた今、元の世界に戻る手段はない。

 だが。不思議と、寂しくはなかった。

 ポケットの中の六角ボルトに指が触れた。くるくる回す。元の世界から持ってきた、たった一つの欠片。

 あの日の自分に教えてやりたい。お前が落とした幕の内弁当の代わりに、もっとずっと美味い飯が待っている場所があるぞ、と。

 帰る世界はない。

 だが——帰る場所は、ここにある。

 リーゼの料理とフィンの歓声とヨハンの冗談とペトラの手紙。限られた配給品から生まれた、ありったけの温かさ。

 あの日、奏太はこの場所を「悪くない」と思った。

 今は——違う言葉が浮かぶ。

「ここが俺の帰る場所だ」

 声に出していた。小さく。誰にも聞こえないくらい。

 だがリーゼの紫の瞳が、ちらりとこちらを見た。

 聞こえたのかもしれない。

 リーゼは何も言わなかった。ただ——ほんの少しだけ、口元が緩んだ。

 食堂に夕日が差し込んでいた。橙色の光が空になった皿を温かく染めている。

 帰る場所がある。だから、また歩き出せる。

 奏太はスープの最後の一口を飲み干した。

 温かかった。


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