第七十七章 帰る場所
いい匂いがした。
油が弾ける音。鍋底でことこと煮える野菜の気配。焦がした香辛料が空気に溶けて、鼻の奥をくすぐる。
この匂いを、奏太は知っている。
ヴァルハイム基地で初めて嗅いだ、あの匂いだ。
蝕域解放から四日が経っていた。
前線拠点の損壊は激しかったが、厨房設備だけは無事だった。リーゼが真っ先にそこを確認したと聞いて、奏太は笑った。この人の優先順位は昔から変わらない。
束の間の平和。その最初の朝に、リーゼが厨房に立った。
「手伝おうか」
「邪魔だ」
奏太の申し出は一秒で却下された。
銀灰色の長い髪を高い位置で雑にまとめ、予備のエプロンを巻いたリーゼが包丁を握っている。あの頃と同じ姿だ。
「今日は多めに作る」
リーゼがそう言った。振り返りもせず、手を止めもせず。
「何人分?」
「さあ。来たい奴が来ればいい」
ぶっきらぼうだが、その声はどこか楽しそうだった。
最初に来たのはフィンだった。
「うわ、この匂い! 中尉が作ってるんですか!」
明るい栗色の髪を跳ねさせながら、食堂に飛び込んでくる。青緑の目が輝いている。あの頃と同じ反応。ただし声が少しだけ低くなった。
「座ってろ」
「はい!」
即座に椅子を引く。素直さも変わっていない。
奏太はフィンの隣に腰を下ろした。テーブルには既に四人分の食器が並んでいる。リーゼ、奏太、フィン、そしてもう一人——。
「おう。いい匂いがするじゃねえか」
ヨハンが食堂の入り口に立っていた。
濃い金髪。口髭。声の大きさ。何も変わらない。
「俺の分は?」
「ある」
「——え、あるのか」
ヨハンが目を丸くした。
「今日は多めに作った。それだけだ」
リーゼは背を向けたまま、鍋をかき混ぜている。耳が赤い。奏太にはそれが見えた。
四人がテーブルについた。
リーゼ。奏太。フィン。ヨハン。
ヴァルハイム基地での最初の食卓と同じ顔ぶれ。あのとき匂いに釣られて来たヨハンに「ない」と言い放ったリーゼが、今日は最初から四人分を用意していた。
料理が並ぶ。
根菜と干し肉の煮込み。香辛料で味付けした穀物のパンケーキ。野草のスープ。メニューまで同じだ。
「あの時と同じ料理だ」
奏太が言うと、リーゼの手が一瞬止まった。
「配給品が同じなんだから、メニューも同じになる。それだけだ」
「そうだな」
奏太は笑った。リーゼの紫の瞳がちらりとこちらを見て、すぐに逸れた。髪の毛先を指で弄っている。困ると出る癖だ。
フィンが一口食べて、声を上げた。
「美味い! やっぱり中尉の料理は最高です!」
「お世辞は——」
「本気ですって!」
ヨハンも煮込みを口に運び、大きく頷いた。
「反則だ、やっぱり。この味は反則」
奏太はスープをすすった。あの日と同じ味だ。だが——何かが違う。味ではない。空気だ。
あの日、奏太はこの食卓を「悪くない」と思った。まだ何もわかっていなかった頃。
今は違う。
セルゲイが入ってきた。赤い短髪に深い緑の目。テーブルの料理を見た瞬間、目が光った。
「飯か! 俺にも食わせろ!」
「勝手に座れ」
リーゼの返事はそっけないが、追加の皿は既に用意してある。セルゲイが煮込みを頬張り、目を見開いた。
「うめえ……共和国の軍飯とは次元が違う」
「当然だ」
椅子が足りなくなった。
カティアとディーターが来た。
赤毛のカティアが緑の目をきょろきょろさせながら覗き込み、ディーターは何も言わず壁際に立って茶を啜っている。だがリーゼが黙って皿を差し出すと、受け取って静かに席についた。灰色の目が微かに緩んだ。この寡黙な男の最大限の賞賛だ。
八人。テーブルが狭い。肘がぶつかる。だが誰も文句を言わない。
「で、ヨハン」
リーゼが切り出した。
「中隊長昇進の辞令、受けたんだろう」
食堂がざわついた。フィンが身を乗り出す。
「え、本当ですか!」
ヨハンが照れたように口髭をしごいた。
「まあな。ヴェーバー閣下に『お前が適任だ』って言われちゃあ、断れねえだろ」
「もう坊主とは呼べないな」
フィンがにやりと笑った。ヨハンが目を剥く。
「お前——俺の台詞を取るな」
「いつも言われてたので。たまにはお返しです」
食堂に笑い声が響いた。ディーターが黙って茶をもう一杯淹れた。祝いの茶だ。この男のやり方はいつもこうだ。
「まだ引退はせんぞ」
ディーターが唐突に言った。この男がこれだけの言葉を自分から発するのは珍しい。灰色の目がカティアを見た。カティアが背筋を伸ばす。
「はい。まだまだ教わりたいです」
ディーターが頷いた。それだけ。だがカティアの緑の目が潤んでいた。
食事が進む。皿が空になり、おかわりが盛られ、また空になる。フィンは三杯目のスープをおかわりした。あの頃と同じだ。
リーゼは無表情のまま——しかし箸を置かずに——全員の反応をそっと観察していた。美味しそうに食べる顔を確かめるのが、この人の癖だ。
食堂の扉が開いた。
ガルベルトだった。赤褐色の髪を後ろに撫でつけた、厚い腕の男。その後ろに、同じ赤褐色のロングヘアを編み込んだアンネリーゼが続く。父と同じ琥珀色の目。
ガルベルトは壁際に立ち、腕を組んだ。ディーターの隣。二十年来の戦友が壁を背にしている。アンネリーゼがカティアの隣に座った。
ガルベルトが口を開いた。食堂が静かになる。
「アンネリーゼ」
「はい、お父さん」
ガルベルトの琥珀色の目が、わずかに揺れた。
「……よくやった」
短い。ぶっきらぼう。この男はいつもこうだ。
だがアンネリーゼは微笑んだ。同じ琥珀色の瞳が温かく光る。
「ありがとう、お父さん」
食堂の空気が柔らかくなった。フィンが目元を擦っている。
「それと——」
「主任軍医の辞令が出た。アンネリーゼ・ドルン中尉、前線拠点主任軍医に任命される」
アンネリーゼが目を見開いた。
「……本当?」
「ヴェーバー閣下の推薦だ」
カティアが歓声を上げ、ヨハンが口笛を吹き、セルゲイが「やるじゃねえか!」とテーブルを叩いた。
アンネリーゼは深く息を吸って、父を見上げた。
「私が診ます。この前線拠点の全員を」
いつもの口癖。だが今日のそれには、新しい重みが乗っていた。
ガルベルトは何も言わず、小さく頷いた。それだけで十分だった。
食事の後。フィンが手紙用の紙を広げていた。ペンを指先で回しながら、考え込んでいる。
「母さんに手紙?」
「はい。でも、何書けばいいんですかね」
フィンは首のペンダントに手を触れた。母の形見。
「なら、短くていいんじゃないか」
「短く?」
「元気にやっています。それだけでいいと思う」
フィンが奏太を見た。少し考えて、紙にペンを走らせた。
母さんへ。
元気にやっています。
飯もうまいです。
もう少ししたら帰ります。
フィンより
四行。
「短すぎますかね」
「いや。十分だ」
奏太は笑った。フィンも笑った。その笑顔は、出会った頃より少し大人びていた。
食堂が静かになっていく。
セルゲイとヨハンが飲み比べを始め、ディーターが黙って皿を洗っている。ガルベルトはいつの間にか消えていた。照れたのだろう。
リーゼが奏太の向かいに座った。
「あの日のことを覚えているか。最初の食卓」
「覚えてる」
「私は——料理を食べてもらえたことが、嬉しかった」
あの日、食器を片付けるとき、リーゼの紫の瞳に浮かんでいた表情。満足。奏太はそれを覚えている。
「今日も嬉しかったか」
「うるさいな。聞くな」
髪の毛先を弄っている。耳が赤い。
ポケットの中の封書に手が伸びた。
ペトラからの手紙だ。出撃前に「帰ってきたら読みなさい」と渡されたもの。
封を開けた。
鷹森さんへ
基地で待っています。皆さんの帰りを。
食堂の準備はいつでもできています。温かいスープと焼きたてのパンを用意して待っていますからね。
皆さんが帰ってきたら、たくさん食べさせてあげます。
だから——必ず帰ってきてください。全員で。
早く来ないと冷めるよ。
ペトラ・リンツ
短い手紙。温かい手紙。最後の一行がペトラの口癖そのもので、奏太は目頭が熱くなった。
手紙を折り畳んで、胸ポケットにしまった。
食卓を見渡す。
リーゼがいる。フィンがいる。ヨハンがいる。セルゲイがいる。カティアがいる。ディーターがいる。アンネリーゼがいる。ヴァルハイム基地にはペトラが待っている。
あの日——異世界に飛ばされた夜、奏太はコンビニ弁当をぶら下げて一人で帰り道を歩いていた。食事は燃料補給でしかなかった。
今は違う。
帰る世界はない。門が消えた今、元の世界に戻る手段はない。
だが。不思議と、寂しくはなかった。
ポケットの中の六角ボルトに指が触れた。くるくる回す。元の世界から持ってきた、たった一つの欠片。
あの日の自分に教えてやりたい。お前が落とした幕の内弁当の代わりに、もっとずっと美味い飯が待っている場所があるぞ、と。
帰る世界はない。
だが——帰る場所は、ここにある。
リーゼの料理とフィンの歓声とヨハンの冗談とペトラの手紙。限られた配給品から生まれた、ありったけの温かさ。
あの日、奏太はこの場所を「悪くない」と思った。
今は——違う言葉が浮かぶ。
「ここが俺の帰る場所だ」
声に出していた。小さく。誰にも聞こえないくらい。
だがリーゼの紫の瞳が、ちらりとこちらを見た。
聞こえたのかもしれない。
リーゼは何も言わなかった。ただ——ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
食堂に夕日が差し込んでいた。橙色の光が空になった皿を温かく染めている。
帰る場所がある。だから、また歩き出せる。
奏太はスープの最後の一口を飲み干した。
温かかった。




