結末 翼
あの日から三ヶ月が過ぎた。
蝕域の門は砕けた。前線を覆っていた暗黒の空は晴れ、人々は久しぶりに青空の下で笑った。
だが、それで終わりじゃない。奏太はそのことを誰よりも知っていた。
大陸の北端にひとつ。南方諸島にふたつ。西の砂漠地帯にも、門の気配が観測されている。異次元の脅威は消えてなどいない。扉をひとつ閉じただけだ。
それでも——空気は変わった。
奏太とガルベルトが生み出した魔道兵器の技術融合。それは帝国の枠を越え、隣国へ、さらにその先へと広がり始めていた。量産された新型魔道兵器の設計図は、かつて敵対していた国にすら渡っている。
人類は初めて、ひとつになろうとしていた。
「勝てるかもしれない」——そんな言葉が、酒場でも、街角でも、ごく普通に交わされるようになった。三ヶ月前には誰も口にしなかった言葉だ。
希望。
安っぽい響きだと、奏太は思う。でも、悪くない。
カン、カン、カン。
整備棟に金属音が響く。朝の七時。奏太はいつもの作業台に向かい、いつもの工具を手に取っていた。
今日の仕事は三番機の左翼フレーム交換。昨日の哨戒飛行で歪みが出たらしい。パイロットのヴェルナーは「ちょっとぶつけただけ」と言い張っていたが、フレームの損傷具合を見る限り、「ちょっと」の定義を根本から見直すべきだろう。
「奏太、七番機の調整も頼む! 午後の出撃に間に合わせてくれ!」
食堂の方からリーゼの声が飛んでくる。
「了解。昼までには終わらせる」
返事をしながら、奏太は手を止めなかった。ボルトを締め、ワイヤーの張りを確かめ、魔力回路の接合部に指を這わせる。この世界に来て何千回と繰り返した動作。体が覚えている。
ふと、手が止まった。
工具を握った自分の手を見る。油で黒ずんで、あちこち小さな傷だらけの手。日本にいた頃の、白くて細い指はもうどこにもない。
帰る世界を、奏太は失った。
蝕域の門を破壊した代償。次元の接続点が消えたことで、元の世界への道は永遠に閉ざされた。あの日、ガルベルトにそう告げられたとき、不思議と涙は出なかった。
たぶん、もう知っていたのだ。ずっと前から。
スマホはとっくに電池が切れていた。家族の顔は写真でしか思い出せない。好きだったコンビニの肉まんの味も、もう曖昧だ。
それでも。
奏太は目を上げた。
整備棟の高い天井。油と鉄の匂い。壁に並んだ工具たち。窓の向こうには、朝日を浴びた滑走路が伸びている。
食堂からはスープの匂いが漂ってきた。リーゼが何か叫んでいる。ヴェルナーが笑っている。新人整備士のマルクが、また部品の名前を間違えて怒られている。
騒がしい。うるさい。あったかい。
ここが、奏太の帰る場所だった。
故郷を失った代わりに、故郷を見つけた。そういうことなのだと思う。矛盾しているようで、していない。
「鷹森整備士殿! 五番機のエンジン音がおかしいのですが!」
マルクが駆け込んできた。顔中すすだらけで、目だけがやたら輝いている。
奏太は笑った。
「見てやるよ。工具持ってこい」
戦えない英雄——誰かがそう呼んだ。剣も魔法も使えない。空も飛べない。敵を倒したこともない。
でも、翼は作れる。
飛ぶ者たちを空へ送り出し、無事に帰ってくるのを待つ。そしてまた、次の翼を作る。
それが奏太の戦い方だった。最初から、ずっと。
工具を握り直す。金属がひんやりと掌に馴染む。
今日も飛ぶ者たちが帰ってくる。
だから——整備棟の灯りは、消さない。




