第七十五章 二人の技術が一つに
門の前に、アウローラが立った。
巨大な漆黒の裂け目。幅百メートルを超える異次元の口。紫のエネルギーが脈動するたびに空気が歪み、大地が震える。
門はまだ生きていた。
脈打つように膨張と収縮を繰り返し、新たな異形が滲み出そうとしている。この門を潰さなければ、いくら敵を倒しても無意味だ。
整備車両の中で、奏太はデータ端末を睨んでいた。
指先が冷たい。心臓がうるさい。でも、数値は嘘をつかない。
「共鳴駆動、逆位相モードに切り替え。リーゼ」
「了解」
リーゼの声は、いつも通りだった。戦場の最前線に一人で立っていても、彼女の声は揺れない。
「切り替え完了。行くぞ」
アウローラの胸部から、蒼白い光が広がった。
通常の共鳴駆動とは違う。門が放つ共鳴波と正反対の位相を生成し、ぶつける。波と波がぶつかれば打ち消し合う。物理の基本原理だ。
それを異次元の門に対してやる。理論は単純。だが規模が桁違いだった。
逆位相の波がアウローラから放たれた瞬間——機体が悲鳴を上げた。
関節部が軋む。装甲の継ぎ目から火花が散る。逆位相の出力は機体自身にも負荷をかける。自分の体で巨大な太鼓を叩いているようなものだ。
「位相差、七十パーセント。門の共鳴構造に干渉開始」
奏太がデータを読み上げる。声が硬い。
「足りないな。出力を上げる」
リーゼが操縦桿を押し込んだ。アウローラの出力が上がる。蒼白い光が強まり、門の紫色と激突する。
位相差、八十パーセント。
まだ足りない。
門が押し返してきた。異次元のエネルギーが逆位相を打ち消そうと膨れ上がり、アウローラの出力と拮抗する。
「門の抵抗が想定以上に大きい」
奏太の声が震えた。
データが告げている。九十パーセント以上の位相差を達成しなければ、門の共鳴構造は崩壊しない。だが九十パーセントまで出力を上げたら——機体がもたない。
詰んでいる。
正攻法では、詰んでいる。
通信にガルベルトの声が入った。
「鷹森。状況は見えている」
落ち着いた低音。二十年の経験が、その声に重みを与えていた。
「ガルベルトさん。俺に——考えがあります」
「言え」
「魔力回路の出力を、左翼に集中できますか」
沈黙が一秒だけ流れた。
「続けろ」
「左翼に魔力出力を集中させれば、逆位相の振幅を局所的に増幅できる。全体を百パーセントにしなくても、一点突破で門の共鳴構造の最も脆い部分を叩ける」
奏太は早口になっていた。頭の中で構造が見えている。一点に力を集中すれば——届く。
「だが左翼に魔力を集中すれば、左側の物理構造が耐えられんぞ」
ガルベルトが即座に指摘した。正しい。
「だから——物理構造は右から支えます」
「何?」
「右側のフレームで機体全体の荷重を受ける。左翼の物理負荷を右側に逃がして、左翼には魔力だけを集中させる。物理と魔力を、左右に分離するんです」
また沈黙。
だが今度の沈黙は、さっきとは質が違った。
「……鷹森」
「はい」
「お前、いつからそんなことを考えていた」
「今です。今、データを見て思いつきました」
ガルベルトが笑った。
通信越しの低い笑い声。呆れと感心が半分ずつ混じったような、不器用な笑い。
「生意気だ。——だが、筋は通っている」
「やれますか」
「わしの腕を舐めるな。魔力回路の出力配分など、目を閉じてもできる」
頼もしい。
これ以上なく、頼もしい。
「カティア!」
奏太が叫んだ。
「はいっ!」
赤毛の少女が即座に応じた。端末の前で待機していたのだろう。反応が速い。
「データの中継処理を頼む。ガルベルトさんの魔力指示と俺の物理指示を、リーゼに同時に届けてくれ。タイムラグは許されない」
「二系統同時中継。了解です」
カティアの声に迷いがなかった。融合型整備士——物理と魔力の両方を理解する彼女だからこそできる仕事だ。
「ディーター」
「ここにいる」
穏やかな声が応えた。灰色の目の男。部品管理の達人。
「予備パーツの緊急投入、準備できてるか。機体がもたなかった場合の——」
「左翼フレームの予備、魔力結晶の交換用、接合部の補強材。全て手元にある」
奏太が言い終わる前に、答えが返ってきた。
ディーターは最初から準備していたのだ。奏太の指示を待つまでもなく、何が必要になるかを見抜いて。
「……ありがとう」
「礼はいい。集中しろ」
四人の整備士が、持ち場についた。
「リーゼ」
奏太は声を整えた。震えを押し殺す。
「聞いている」
「これから俺とガルベルトさんで、通信越しに操縦をサポートする。左翼の魔力配分はガルベルトさんが指示する。右側の構造バランスは俺が指示する。カティアが中継する。お前は——俺たちの声の通りに操作してくれ」
一拍の間。
「信じている」
二文字。たった二文字。
でもそれが、何よりも重かった。リーゼロッテ・ヴァイスフェルトが「信じている」と言った。それだけで十分だ。
「行きます——ガルベルトさん!」
「魔力回路、左翼に集中開始。出力配分、七対三!」
ガルベルトの声が通信に響いた。遠隔での魔力調律。普通なら機体に触れなければできない作業を、二十年の経験がデータだけで遂行させる。
「リーゼ、左翼の魔力回路第三番から第七番を全開。第一、第二は閉じろ。末端から中心に向かって順番に」
「了解」
リーゼの手が動く。ガルベルトの指示通りに、正確に。
「物理構造、右側に荷重移行!」
奏太が続いた。
「リーゼ、操縦桿を右に二度傾けて。右脚のアンカーを地面に打ち込む。右肩の装甲ロックを全て解放——展開して面積を稼いで、風圧と振動を右側で受け止める」
「やっている」
アウローラの姿勢が変わった。右半身で大地を踏みしめ、左翼を門に向けて突き出す。まるで盾と槍を分けたような構えだ。
右が守り、左が攻める。
物理が支え、魔力が貫く。
「カティア、データ中継状況!」
「両系統、遅延なし! ガルベルトさんの魔力指示と鷹森さんの物理指示、同期率九十九パーセント!」
カティアの声が弾んでいた。奏太の物理言語とガルベルトの魔道言語を、操縦指示に翻訳して伝える。それがカティアの役割だった。
「出力上昇——位相差、八十五パーセント!」
奏太がデータを読む。
「足りない。ガルベルトさん、もう一段!」
「魔力回路、第八番も開放! 出力配分を八対二に変更!」
「右側の構造バランス、再計算——リーゼ、右膝の角度を三度深く! 腰部フレームのロックを一段締めろ!」
「了解!」
三人の声が重なる。カティアがデータを捌き、ディーターが予備パーツに手をかけて待機する。五人がそれぞれの場所で、一つの目的に向かっている。
位相差、九十パーセント。
アウローラの左翼が白く発光した。通常の運用限界をはるかに超える魔力が注ぎ込まれ、機体そのものが悲鳴を上げている。
「機体負荷、限界値の九十三パーセント!」
奏太の声が裏返った。
「左翼フレーム、微細亀裂発生!」
「ディーター!」
「補強材、射出準備完了。指示をくれ」
「まだだ——まだ保つ!」
奏太はデータを凝視した。亀裂の進行速度、フレームの残存強度、あと何秒保つか。全てが数字として見えている。
「ガルベルトさん、魔力の流し方を変えてください。回路第五番の出力を〇・三秒だけ落として、第六番に迂回させる。亀裂部分への直接負荷を避けられる」
「細かい注文だな——だが、できる」
ガルベルトの調律が変わった。魔力の流れが微妙にうねり、亀裂を避けて門に向かう。物理的な弱点を魔力の流路変更で回避する。物理屋の分析と魔道師の技術の、完璧な噛み合わせ。
「位相差、九十五パーセント!」
門が軋んだ。
漆黒の裂け目に、亀裂が走った。
紫のエネルギーが乱れ、門の脈動がリズムを失う。効いている。逆位相が、門の共鳴構造を内側から破壊し始めている。
「あと少し——あと五パーセント!」
奏太が叫んだ。
「左翼フレーム、限界まであと十二秒!」
「十二秒あれば——十分だ」
ガルベルトが唸った。
「魔力回路、全開放! 鷹森、最後の物理構造を——」
「リーゼ! 右腕を地面に突き刺せ! 機体全体を右腕一本で支えろ! 左翼の物理負荷をゼロにする!」
「——了解!」
アウローラの右腕が大地に突き刺さった。白銀の拳が結晶化した岩盤を砕き、そのまま杭のように地面に食い込む。右腕一本で機体全体を支え、左翼を完全に自由にした。
物理構造の限界を、発想で超える。教科書にはない方法。でも、理屈は通っている。
「魔力、全力注入——!」
ガルベルトの声。
アウローラの左翼が太陽のように輝いた。逆位相の波が最大出力で門に叩きつけられる。
「位相差——九十八——九十九——」
門が砕けた。
漆黒の裂け目に無数の亀裂が走り、紫のエネルギーが散乱した。門の共鳴構造が崩壊していく。巨大な異次元の口が、内側から崩れ落ちていく。
ただの物理現象だ。共鳴を逆位相で打ち消した。それだけのこと。
でもそれを可能にしたのは——二人の技術者の知識が、通信越しに一つになった瞬間だった。
整備車両の中で、奏太は崩れ落ちた。
椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げる。息が荒い。手が震えている。端末を握り続けた指が、痺れて感覚がない。
戦っていない。剣も銃も握っていない。操縦桿にも触れていない。
ただデータを読み、計算し、声を出しただけだ。
それだけで——こんなにも疲れるのか。
「……やった、のか」
「やった」
ガルベルトの声が、静かに応えた。
いつもの仏頂面が、少しだけ緩んでいるのが声で分かった。
「お前の物理知識がなければ、左翼に集中する発想は出なかった」
「ガルベルトさんの魔力調律がなければ、集中しても制御できなかった」
「カティアの中継がなければ、二人の指示は間に合わなかった」
「ディーターの準備がなければ、攻めに集中できなかった」
「リーゼの操縦がなければ——全部、机上の空論だった」
五人の名前が挙がった。
誰が欠けても成り立たなかった。
ガルベルトが、ぽつりと言った。
「わしはな、鷹森。正直に言えば——お前の物理学とやらを、最初は信用しておらんかった」
「知ってます」
「だが今なら分かる。わしの魔道知識と、お前の物理知識は——同じものの別の顔だったんだ」
奏太は目を閉じた。
そうだ。最初から、そうだったのかもしれない。
魔力回路と物理構造。魔道と工学。この世界の技術と、元の世界の技術。見ているものは違う。使う言葉も違う。でも、向いている方向は同じだった。
壊れたものを直す。動かないものを動かす。限界を超える方法を、考え続ける。
「ガルベルトさん」
「何だ」
「俺は——あなたの弟子で、良かったです」
沈黙が流れた。
長い沈黙だった。
「……馬鹿を言え。弟子にした覚えはない」
声が、少しだけ掠れていた。
奏太は笑った。泣きそうな顔で、笑った。
カティアが鼻をすすった。
「二人とも、ずるいです。こんな時に良い話するの、ずるい」
「カティア、お前の中継がなかったら成り立たなかったんだぞ」
「分かってます。分かってますけど——悔しいじゃないですか」
ディーターが小さく笑った。
「全員の手柄だ。それでいい」
通信に、リーゼの声が入った。
「門の崩壊、進行中。共鳴構造の自壊が始まっている。——もう、止まらない」
一拍の間。
「奏太」
名前で呼ばれた。
リーゼが奏太の名前を呼ぶのは、滅多にないことだった。
「ありがとう」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
奏太は端末を見つめた。
門の崩壊データが流れ込んでくる。共鳴構造が自壊し、異次元の口が閉じていく。
自分は最後まで、戦場に立たなかった。
ただ数字を読み、計算し、声を出した。
それが——鷹森奏太の戦い方だった。
最初から、ずっと。




