第四十一章 嵐の前の静寂
その日、格納庫に食材の匂いが立ち込めた。
油でも溶接の焦げでもない。肉と香草とバターの匂い。場違いすぎて、最初は全員が鼻をひくつかせた。
「今日は私が腕を振るうよ」
ペトラが丸い眼鏡を光らせて、両手いっぱいの食材を抱えて現れた。食堂主任の本気。布袋からはみ出したジャガイモが床に転がり、リーゼが素早く拾い上げた。
「ペトラさん、これ全部どこから」
「聞かないでおくれ。今日は非番なんだ。非番の日に何をしようが私の勝手さ」
言い切った顔に迷いがない。奏太はポケットの六角ボルトを転がしながら、その勢いに気圧された。
「タカモリ、ぼうっとしてないで。芋の皮を剥きな」
「え、僕ですか」
「手先は器用なんだろ? 機体いじれるなら芋くらい剥けるだろう」
反論の余地がなかった。
*
格納庫の隅に、簡易の調理台が出来上がった。
ペトラが指揮を執り、リーゼと奏太が両翼を固める。戦場とは違う布陣だった。リーゼが野菜を切る手つきは剣を振るうのと同じくらい速く、だがやや雑だった。人参の厚みが倍ほど違う。
「リーゼ中尉、もう少し均等に——」
「戦場では多少の誤差は許容範囲だ」
「料理は違いますよ」
ペトラが眼鏡の奥で目を細めた。この食堂主任、階級など気にしない。
奏太は黙々と芋を剥いた。ナイフは不慣れだったが、手先の感覚で何とかなった。薄く、均等に。整備と同じだ。
「上手いじゃないか」ペトラが覗き込んだ。「その腕、食堂にスカウトしたいくらいだね」
「遠慮します」
「つれないね」
大鍋にバターが溶け、刻んだ玉葱が投入された。じゅわっと甘い匂いが広がる。肉を切り分け、塩と香草をすり込む。ペトラの手際は迷いなく淀みない。この人もまた、自分の技術で戦っている。
リーゼが鍋をかき混ぜながら、ふっと笑った。銀灰色の長髪が湯気に揺れている。
「たまにはいいな、こういうの」
紫の瞳が柔らかかった。戦闘中には絶対に見せない目だ。奏太はその表情を見て、少しだけ安心した。代替機の調整が上手くいったこと。彼女が「戦える」と笑ったこと。それがまだ、ちゃんと続いている。
*
匂いは格納庫を超えた。
最初に現れたのはヨハンだった。
「何だこの匂いは。訓練場まで届いてるぞ」
濃い金髪をかき上げながら、翡翠色の目を丸くしている。手には酒瓶が二本。どこから調達したのか聞くだけ野暮だろう。
「ちょうどいいところにきたね。ヨハン大尉、皿を並べな」
「了解」
大尉が食堂主任に従う。階級など関係ない食卓だった。
次にフィンが来た。白い前髪の下の青緑の目が、所在なさそうにきょろきょろしている。松葉杖のルーカスを支えていた。
「あ、やっぱりここだったんだ。匂いがすごくて」
「フィン、こっちだ。座れ」ヨハンが手招きした。
カティアとディーターも二人揃って現れた。カティアの赤毛が作業灯に映え、ディーターは無言でペトラに会釈した。
最後に——予想外の人物が姿を見せた。
「飯の匂いがした」
セルゲイだった。赤毛の顎髭をさすりながら、大柄な体を扉から押し込んでくる。
「セルゲイまで来たか」ヨハンが笑った。「珍しいな、お前が自分から顔を出すなんて」
「飯の匂いには逆らえん。本能だ」
ガルベルトも遅れて姿を見せた。琥珀色の目がすでにうっすら赤い。もう飲んでいるのか、この人は。
整備用の作業台に布が敷かれ、皿が並んだ。肉の煮込み。焼いた芋。香草のスープ。パン。格納庫の油と料理の匂いが混ざって、奇妙だが不快ではなかった。
「じゃあ、いただこうか」
ヨハンが酒瓶の栓を抜いた。コルクが飛んで、フィンの額に当たった。
*
宴は加速した。
ペトラの料理は文句なしに美味かった。肉は柔らかく、芋はほくほく。軍の配給飯とは次元が違う。
「ペトラさん、これ本当に美味いです」フィンが頬を膨らませたまま言った。
「当たり前さ。食堂の飯がまずいのは予算のせいだよ。腕のせいじゃない」
「それは弁解では?」リーゼが澄ました顔で言い、ペトラに睨まれた。
酒が回り始めると、口数が増える。最初に暴走したのはガルベルトだった。
「うちのエルザはな——」
始まった、と奏太は思った。娘の話だ。ガルベルトは酔うと必ずこれだ。
「来月で七つになるんだ。この前の手紙でな、絵を描いて送ってくれた。花の絵だ。上手いんだよこれが。天才だ。間違いない。父親の目から見ても客観的に天才だ」
「父親の目が一番主観的だろう」ディーターが冷静に突っ込んだ。
「黙れディーター。お前に娘の可愛さがわかるか。わからんだろう。わかるはずがない」
琥珀色の目が完全に据わっている。もう止まらない。奏太はスープを啜りながら、黙って聞いていた。ガルベルトの娘自慢は長い。だが、嫌いじゃなかった。この人が何のために整備を続けているのか、その答えが全部ここにある。
「次はヨハン大尉の番だ」カティアが振った。
「俺か? よし、じゃあ東部戦線の話をしよう」
ヨハンの武勇伝が始まった。翡翠色の目が酒の赤みを帯びて、身振り手振りが大きくなる。三機の敵を一人で退けた話。語り口が上手い。フィンが目を輝かせて聞いている。
「——で、最後の一機を斬り伏せた時にはもう燃料がなくてな。徒歩で帰った」
「徒歩?」リーゼが眉を上げた。
「機体を担いでか?」セルゲイが低い声で言った。
「まさか。置いてきた」
「機体を?」奏太は思わず声を上げた。整備士として聞き捨てならない。
「翌日取りに行ったさ。ちゃんと回収した。心配するな」
心配する。大いにする。
ヨハンは杯を傾けて、ふと笑った。「まあ、帰りが遅くても怒る女房はもういないからな」
その声が一瞬だけ、武勇伝の威勢とは違う色を帯びた。誰も突っ込まなかった。
セルゲイが杯を空けて、ぼそりと言った。
「共和国の酒の方が上等だ」
場が一瞬、静まった。
「何だと?」ヨハンが目を細めた。
「事実を言っただけだ。帝国の酒は薄い。水で割ってるんじゃないか」
「これは正規の軍支給品だぞ。品質は保証されている」
「保証されてこの味か。共和国なら三流の居酒屋にも置かない」
ヨハンとセルゲイが睨み合った。一触即発——に見えたが、ヨハンの口元は笑いを堪えている。セルゲイの顎髭もかすかに揺れている。
「なら今度、共和国の酒を取り寄せてみろ。比べてやる」
「望むところだ」
二人は杯をぶつけ合った。ガルベルトが「うるせえ」と横から叫び、カティアが手を叩いて笑い、ディーターが額を押さえていた。
フィンが奏太の隣に座り直した。
「にぎやかですね」
「ああ」
「俺、こういうの好きです」
フィンは杯を両手で包みながら、少し遠い目をした。
「故郷にいた頃を思い出す。妹たちがいつも騒がしくてさ。マルタが怒って、レナが泣いて、アンナがきょとんとして。母さんがため息をついて」
「四人きょうだい?」
「ええ。俺と、妹が三人。末のアンナはまだ五つで——手紙に花の絵を描いてくれるんです」
その声に寂しさは薄かった。大切なものを確かめるような、温かい響き。
奏太はポケットの六角ボルトに指を触れた。自分にはそういう相手がいない。故郷——あの世界での日常を思い出そうとすると、輪郭がぼやける。
「奏太さんは?」フィンが聞いた。「故郷のこと、あまり話さないですよね」
不意の問いだった。
周りでは宴がまだ続いている。ガルベルトがアンネリーゼの将来を語り、ヨハンが次の武勇伝に入り、セルゲイがそれに茶々を入れている。カティアとペトラが料理の話をしている。リーゼはスープを静かに飲んでいる。
奏太は言葉を探した。六角ボルトを親指で撫でた。
「……正直、ここの方が居場所がある気がする」
口をついて出た。自分でも驚いた。
フィンが目を丸くしている。
「向こうにいた時は——普通だったんだ。普通の技術者で、普通に仕事して。別に不満はなかった。でも、誰かに必要とされてるって感覚は薄かった。替えが利く存在だった」
六角ボルトが指の間で回る。
「ここは違う。僕が整備をサボれば、誰かの命が危うくなる。それって怖いけど——同時に、初めて自分がここにいる理由がある気がしたんだ」
フィンは黙って聞いていた。やがて、静かに頷いた。
「わかる気がします。俺も——ここに来て初めて、自分の戦い方を見つけた。タカモリさんのおかげで」
「大げさだよ」
「大げさじゃないです」
フィンはまっすぐな目をしていた。奏太は少し気恥ずかしくなって、スープの残りを一気に飲んだ。
*
宴は長く続いた。
ガルベルトが作業台に突っ伏して眠り、ヨハンが壁にもたれて杯を片手に舟を漕いでいた。セルゲイは「先に寝る」と言い残して悠々と去り、カティアとペトラが並んで皿を洗っていた。リーゼは椅子の背に頭を預けて目を閉じている。寝ているのか起きているのか判然としない。フィンは隅で膝を抱えてうとうとしていた。
ルーカスが松葉杖でフィンの肩を軽くつつき、「兵舎に戻るぞ」と囁いた。フィンが寝ぼけ眼で頷いて、二人は肩を並べて去っていった。
奏太は一人、格納庫の入口に立っていた。
夜風が頬に冷たい。空に星が多い。この世界の星は、あの世界と少し違う。配置が違う。でもどちらも、綺麗だった。
帰りたくないのかもしれない。
その考えが、するりと胸に滑り込んだ。
あの世界では普通の技術者だった。毎朝同じ電車に乗って、同じ机に座って、同じような図面を引いた。悪くない日々だった。不幸ではなかった。ただ——誰かの命を支えている実感はなかった。
ここでは違う。
自分が調整した機体で、リーゼが戦場に出る。フィンが飛ぶ。ヨハンが隊を率いる。ボルト一本の締め具合が、生死を分ける。その重さが、両肩にのしかかっている。怖い。だが、その恐怖ごと——自分はここにいる意味になっている。
故郷への郷愁より、ここにいたいという気持ちの方が重くなっている。
それに気づいた時、小さな罪悪感がちくりと刺した。
あの世界にだって、自分の帰りを待っている人がいるかもしれない。職場の同僚。行きつけの定食屋の店主。その人たちのことを、少しずつ忘れ始めている。
でも——今は。
ポケットの六角ボルトを握りしめた。
今は、ここにいる人たちの命を預かっている。それだけは確かだ。
格納庫の奥で、ガルベルトの寝息が響いていた。低い、安定したいびき。ヨハンの杯がゆっくり傾いて、こぼれる前にディーターが無言で受け取った。まだ起きていたのか。
ディーターと目が合った。小さく顎を引かれた。お疲れ、の代わりだろう。奏太も頷き返した。
明日からまた、戦いの日々が始まる。
嵐は近い。誰もがそれを感じている。だからこそ今夜は、束の間の静けさを噛みしめている。明日には消える温もりを、少しでも長く覚えていたくて。
奏太は格納庫の扉にもたれた。夜風が髪を撫でた。
星空の下で、六角ボルトが指の間で静かに回っていた。




