第四十二章 大侵攻
警報が鳴った。
格納庫の全ての灯りが赤に変わった。けたたましいサイレンが壁を震わせ、天井のパイプが共鳴してびりびりと唸る。奏太の手が反射的にポケットの六角ボルトを掴んだ。
嫌な音だ。いつ聞いても慣れない。
「全員、配置につけ!」
ガルベルトの怒号が格納庫に響いた。琥珀色の目が据わっている。百九十センチの巨体が作業台の向こうから立ち上がり、整備班の全員を見渡した。
「大規模侵攻だ。門が複数同時に開いた。詳細はこれから来る。手の空いてる奴は出撃準備にかかれ!」
格納庫が一気に動き出した。
カティアが工具を掴んで走る。赤毛が肩で跳ねている。ディーターは無言で整備リストを手に取り、一番機から順に確認を始めた。灰色の短髪の下の目に、迷いはない。
奏太も走った。作業台の端末を叩き、全機体のステータスを一覧表示する。数値が画面に並ぶ。装甲値、出力、関節温度、魔力回路の状態。十二機分のデータが目に流れ込んでくる。
全機、出撃可能。
そのことに、まず安堵した。昨日までの整備が無駄じゃなかった。
*
パイロットたちが格納庫に駆け込んできた。
最初はヨハンだった。濃い金髪を振り乱し、まだ上着のボタンを留めながら走っている。翡翠色の目が戦闘の色に切り替わっていた。
「状況は」
「複数の門から同時出現。北部、東部、南東の三箇所で大規模な敵影を確認中です。数はまだ増えています」
ロッテの声が通信から飛んできた。栗色の短髪が揺れているのが目に浮かぶ。灰青色の目が座標盤に釘付けになっているだろう。声はかすかに震えていたが、読み上げる数字に曖昧さはない。プロの声だった。
「北部第三防衛線にて敵影百二十以上。東部では門がまだ拡大中。南東は——数が確定しません。多すぎます」
百二十。その数字が格納庫の空気を凍らせた。
これまでの戦闘で最大だったのが、五十前後。その倍以上が、たった一箇所に押し寄せている。しかも三箇所同時。帝国の防衛線が初めて、正面から圧し潰されようとしていた。
ヨハンが一瞬だけ目を閉じた。そして開いた時には、もう隊長の顔をしていた。
「全パイロット、出撃準備。第一小隊は北部、第二小隊は東部に向かう。南東は増援が来るまで後方の砲兵隊に任せる」
的確な判断だった。限られた戦力を三つに割れば各個撃破される。二正面に集中して、一つは時間を稼ぐ。迷いのない指揮だった。
フィンが来た。白い前髪の下の青緑の目は、いつもの穏やかさが消えている。飛行服を着込み、グローブをはめながら格納庫に入った。その後ろに——ルーカスがいた。
松葉杖はもうなかった。
だが右脚を庇うような歩き方は残っている。黒髪の青年は飛行服を身につけていた。復帰後、初の大規模戦闘。その顔は白かった。
奏太はフィンの機体——三番機の最終チェックに取りかかった。関節の締め具合を手で確かめる。装甲のボルトを一本ずつ指で触れる。異常なし。駆動系、正常。魔力回路、安定。
「フィン」
声をかけた。
白い前髪が揺れた。青緑の目が奏太を見る。
「機体は万全です。全部確認しました。だから——」
言葉を選んだ。整備士として言えることは限られている。武器も持てない。前線にも立てない。だが、この瞬間だけは、パイロットに一番近い場所にいる。
「帰ってきてください」
フィンが一瞬、目を見開いた。それから、ふっと笑った。
「もちろん」
軽い声だった。だがその軽さが、フィンの強さだと奏太は知っていた。
*
ルーカスが、自分の機体の前で立ち止まっていた。
八番機。ルーカスの復帰に合わせて奏太が一から調整し直した機体だ。新人向けの安定重視のセッティング。だがルーカスは新人ではあっても、一度戦場で死にかけた男だ。
奏太が近づくと、ルーカスの右手が震えているのが見えた。操縦グローブをはめた手が、小刻みに揺れている。目は機体を見つめたまま動かない。
怖いのだ。
当たり前だ。前回の出撃で機体は大破し、自分は後方に送られた。その記憶が体に刻まれている。頭では分かっていても、体が覚えている。金属が砕ける音。衝撃。意識が遠のく感覚。
奏太はルーカスの隣に立った。
「八番機、最終チェック完了しています。駆動系、装甲、魔力回路、全て正常。——ルーカス」
黒い目が奏太を見た。唇が引き結ばれている。何かを堪えている顔だった。
「大丈夫だ。この機体は、お前を守れるように仕上げた」
嘘じゃない。百分の一ミリ単位で部品を選別し、関節のクリアランスを詰め、装甲の配置を復帰後のルーカスの動きに合わせて調整した。ディーターと二人で丸二日かけた仕事だ。
ルーカスの手の震えが、少しだけ収まった。
「……はい」
小さな声だった。
その時、背後から足音が近づいた。
「ルーカス」
フィンだった。もうヘルメットを小脇に抱えている。白い前髪の下で、青緑の目がまっすぐにルーカスを見ていた。
「大丈夫。俺がいる」
短い言葉だった。飾り気のない、ただの事実。俺はお前の傍にいる。それだけを伝える声。
ルーカスの目が揺れた。それから——頷いた。深く、強く。拳を握り直した。もう震えていなかった。
「行きます」
二人が並んでコックピットに向かう。フィンが一度だけ振り返り、奏太に軽く手を上げた。奏太も手を上げ返した。
*
一機ずつ。
奏太は格納庫を走り回った。
リーゼの十一番機。銀灰色の長髪が風に流れ、紫の瞳が奏太を見下ろした。コックピットのハッチ越しに。
「異常なし。魔力回路の共鳴率も安定しています。——帰ってきてください」
「ああ」
短い返事。だがその一音に、約束の重さがあった。
ヨハンの一番機。翡翠色の目が奏太を一瞥した。
「万全だ。思い切り暴れてきてください。——帰ってきてください」
「当然だ。俺が死んだら誰が隊を率いるんだ」
不敵な笑み。それがヨハンだった。
前線整備用の輸送機には、カティアが乗り込もうとしていた。ガルベルトが最終チェックをしている。師匠が弟子を前線に送り出す。琥珀色の目が一瞬だけ揺れたのを、奏太は見逃さなかった。
「カティアさん。気をつけて。帰ってきてください」
「はいっ」
赤毛が跳ねた。緑の目に気合が入っている。若い。だが強い。
全ての機体を回った。一機ずつ。一人ずつ。同じ言葉を繰り返した。帰ってきてください。何度言っても足りない。何度言っても、言い足りない。
最後の機体のハッチが閉まった。
格納庫の大扉が開く。朝の光が差し込んだ。逆光の中に、十二機の戦闘機体がシルエットになって並んでいる。
奏太は大扉の縁に立ち、その背中を見送った。六角ボルトを握る手に、力がこもる。
行ってこい。
全員、帰ってこい。
*
通信室に駆け込んだ。
ロッテが座標盤の前に張り付いていた。栗色の短髪が汗で額に貼り付いている。灰青色の目が数字を追い続けている。その隣の席に奏太が滑り込んだ。
「タカモリさん」
「戦況モニター、共有してください」
「——はい」
ロッテが端末を操作し、奏太の画面に全機体のステータスが表示された。十二の光点が地図上を移動している。北に向かう第一小隊。東に向かう第二小隊。光点の一つ一つに、さっき声をかけた人間が乗っている。
ロッテが座標を読み上げ始めた。
「北部第三防衛線、敵の先頭集団が接触まで残り四分。東部は——新たな門が開きました。敵影さらに増加、推定二百以上」
二百。
奏太の手が、知らず震えていた。モニターの数字を見つめる目が乾く。瞬きを忘れている。
二百の敵を、六機で受け止める。残りの六機は北部で百二十と対峙する。数の暴力だ。技術も戦術も、純粋な物量の前では霞む。
「北部、接敵!」
ロッテの声が跳ねた。
モニター上で赤い光点と青い光点が重なった。数値が動き始める。装甲値、出力、弾数。リアルタイムで変動する数字の洪水。
通信が開いた。
「第一小隊、交戦開始。数が多い——三方向から来るぞ!」
ヨハンの声だった。鋭く、だが落ち着いている。その背後で金属が打ち合う音が聞こえた。
「東部も接敵しました! 第二小隊、戦闘に入ります」
フィンの声。こちらは少し高い。緊張が混じっている。だが操縦に乱れはない。機体データが安定している。
ロッテが矢継ぎ早に座標を読み上げる。
「北部、敵第二波接近中。方位三二〇、距離一四〇〇。東部、門がさらに拡大——南東でも新たな敵影!」
増える。まだ増える。終わりが見えない。
奏太は自分の役割に集中した。全機体のステータスを監視する。異常が出たら即座にパイロットに伝える。それが、ここでできる全てだ。
「三番機、左脚の関節温度が上昇中。フィン、負荷を分散させてください。右旋回を多めに」
「了解!」
「一番機、出力が八十五パーセントまで低下。ヨハン大尉、魔力回路の切り替えを推奨します」
「やってる! こっちは忙しいんだ!」
怒鳴り声。だがその声に余裕がある。まだ戦える証拠だ。
モニターの赤い光点が、際限なく増え続けていた。画面が赤に染まっていく。奏太の手は震えたまま、それでもキーボードを叩き続けた。一機ずつ。一人ずつ。データを読み、声をかけ、できることを積み重ねる。
ロッテが隣で歯を食いしばっていた。灰青色の目が数字を追いながら、声だけは正確に座標を吐き出し続けている。プロだった。怖くても、手を止めない。それが通信士だ。
「八番機——ルーカス」
奏太の目がモニターの一点に釘付けになった。
八番機の装甲値が急激に低下している。被弾したのだ。数値が赤域に近づく。
「ルーカス! 右側面の装甲がやられた。敵を右に回すな、左で受けろ!」
「は、はいっ——!」
声が裏返っている。怖いだろう。痛いだろう。だが機体はまだ動いている。奏太が調整した八番機が、ルーカスを守っている。
「フィンが近くにいる。合流しろ!」
「了解っ!」
モニター上で、三番機の光点が八番機に向かって動いた。フィンだ。約束通り、ルーカスの傍にいる。二機が合流し、背中合わせのフォーメーションを組む。数値が安定し始めた。
奏太は小さく息を吐いた。まだ終わっていない。まだ誰も帰ってきていない。
通信にノイズが走った。そして——。
「全機突撃ーッ!」
ヨハンの叫びが、通信室の壁を震わせた。
翡翠色の目が見えるようだった。不敵で、勇猛で、馬鹿みたいに真っ直ぐな光。ヨハンが吠えれば、部下は続く。一番機を先頭に、第一小隊が敵の中枢に突っ込んでいく。
奏太はモニターに食らいついた。
全機のデータを追う。一つも見逃さない。一つも、落とさせない。
手は震えている。
それでも、目は離さなかった。




