第三十九章 折れない翼
量産機が格納庫に搬入されたのは、翌朝のことだった。
灰色の装甲。丸みを帯びた肩部。没個性な顔立ち。帝国軍制式採用のMR-14汎用騎——通称「鉄鳩」。前線の基地には常に数機のストックがある。損耗の激しい部隊には、こうして補充されるのが通例だ。
奏太はコックピットのハッチを開け、内部を覗き込んだ。操縦系統に異常はない。魔力回路も正常。整備記録票も綺麗なものだ。製造から半年。実戦投入はゼロ。工場出荷時のまま、どこにも癖がついていない。
新品だ。悪い機体ではない。
だが——リーゼの機体ではない。
「タカモリ、状態はどうだ」
背後からリーゼの声がした。振り向くと、銀灰色の髪を高く結い上げた彼女が立っていた。制服に袖を通し、ブーツを磨き、いつもの鋭い紫の瞳でこちらを見ている。昨夜、愛機の残骸に「ありがとう」と呟いた人間と同じとは思えないほど、凛としていた。
「良好です。出荷状態のまま、どこも問題ありません」
「そうか。では午後の訓練から使う」
それだけ言って、リーゼは踵を返した。
奏太はその背中を見送った。背筋がまっすぐに伸びている。いつも通りだ。いつも通りすぎて、逆に痛い。
*
午後の訓練が始まった。
管制室のモニターに灰色の機体が映る。あの黒銀ではない。量産機の群れに紛れたら見分けがつかない灰色。
リーゼが「鉄鳩」を飛ばした。
奏太はデータを追った。速度、旋回率、反応速度。数字が次々と流れていく。
遅い。
いや、機体のスペックとしては標準的だ。汎用機としては十分な数値が出ている。問題はそこではない。リーゼの操縦に機体が追いついていない。
リーゼの反応速度は常人の三倍と言われている。操縦桿を切った瞬間に機体が応えるのが愛機だった。だがこの「鉄鳩」は、コンマ数秒遅れてから動き出す。
そのわずかな遅延が、リーゼの機動を殺していた。
鋭角ターンが丸くなる。急制動からの再加速に一拍の間が空く。切り返しの瞬間に機体がもたつく。
リーゼの飛び方を知っている者が見れば、一目でわかる。これは彼女の動きではない。
訓練が終わり、機体が着陸した。
コックピットから降りてきたリーゼの表情は平静そのものだった。汗一つかいていないような顔で、パイロットスーツの手袋を外す。
「悪くない機体だ」
リーゼは言った。
嘘だ、と奏太は思った。だが口には出さなかった。
「いくつか調整させてください。操縦系の応答を少し詰められます」
「任せる」
短いやりとり。リーゼは他のパイロットたちとの打ち合わせに向かい、奏太は機体に取りかかった。
*
夜の格納庫で、奏太は「鉄鳩」のコックピットに潜り込んでいた。
操縦系統の応答速度を調整する。魔力回路の伝達経路を最短に組み替え、不要な安全リミッターを解除していく。火傷だらけの指がコネクタを外し、配線を差し替え、パラメータを書き換えていく。
カティアが隣で補助していた。赤毛を耳にかけ、回路図と睨めっこしながら数値を読み上げている。
「応答遅延、〇・一八秒から〇・〇九秒まで詰めました」
「まだ遅い。リーゼさんの愛機は〇・〇三秒だった」
「〇・〇三……この機体のフレームで、そこまで出せますか?」
「無理だ」
奏太は正直に答えた。工具を置いて、コックピットの縁に額を押しつけた。
限界だった。汎用機のフレームには汎用機なりの設計思想がある。誰でもそれなりに扱えるように、応答にわざと余裕を持たせている。それを極限まで削っても、専用機の応答には遠く及ばない。
「〇・〇六が限界です。これ以上詰めると挙動が不安定になる」
カティアが唇を噛んだ。緑の目に悔しさが滲んでいる。
「中尉は何も言わないでしょうけど——」
「ああ。わかってる」
わかっている。リーゼは文句を言わない。与えられた機体で最善を尽くす。それがプロの軍人だ。だが最善を尽くしたところで、機体が足を引っ張る。奏太にはそれが見える。データが嘘をつかないからだ。
「できるところまでやろう。脚部の出力配分も見直す。少しでも旋回性能を上げたい」
「はい」
カティアが頷いて、工具箱に手を伸ばした。
二人の夜は長かった。
*
三日が過ぎた。
奏太の調整を経た「鉄鳩」で、リーゼは飛び続けていた。毎日の訓練。模擬戦。偵察飛行。一度も不満を口にしなかった。
だが数字は残酷だった。
訓練データを比較すると、愛機時代のリーゼと今のリーゼでは、戦闘効率が三割落ちている。三割。エースパイロットにとって致命的な数字だ。
「機体のせいにはしない」
リーゼは朝の点呼の後、奏太にそう言った。
紫の瞳はまっすぐだった。自分に言い聞かせるようでもあり、奏太に心配をかけまいとする配慮のようでもあった。
「腕が鈍っただけだ。慣れれば問題ない」
嘘だ。腕は鈍っていない。慣れの問題でもない。機体が合わないのだ。靴のサイズが違うまま全力疾走しているようなものだ。走れないわけではない。だが本来の速さは出ない。
リーゼはそれを分かったうえで、黙っている。
エースの矜持だ。道具のせいにするのは三流のやることだと、彼女は信じている。
昼食の時間に、ヨハンが奏太のところに来た。
食堂の隅。周囲に人がいないことを確認してから、濃い金髪の大男は声を落とした。翡翠色の目が、珍しく陰りを帯びている。
「タカモリ。率直に聞く」
「何ですか」
「中尉の機体——あれで戦場に出して大丈夫か?」
奏太は箸を止めた。ヨハンの目を見返す。
「正直に言えば、本来の七割の性能です」
「七割か」
ヨハンが腕を組んだ。金の口髭の下で唇が引き結ばれている。
「エースってのはな、機体を選ぶんだよ。中尉は言わねえが、ありゃ相当我慢してる。俺にはわかる」
奏太は黙って聞いていた。
「あの人は飛び方が特殊なんだ。体が先に動いて、機体が追いかける。普通のパイロットは機体に合わせて飛ぶが、中尉は逆だ。自分の体感で飛んで、機体にそれを要求する。だから応答が遅いと、全部ズレる」
奏太がデータで見ていたことを、この男は戦場の肌感覚で理解していた。
「中尉は我慢してるが——あの状態で実戦になったら、庇いきれねえ場面が出てくる。殿を務めた時みたいに一人で戦場を引っ掻き回す動きは、あの機体じゃ無理だ」
「わかっています」
奏太は箸を置いた。
「わかっていて、俺にはまだ答えが出せていない」
ヨハンは奏太を見た。翡翠色の目に責める色はなかった。ただ事実を確認している目だ。歴戦の軍人の目。
「期待してるぜ、整備士殿」
ヨハンは立ち上がり、食堂を出ていった。
*
夕方。格納庫の裏手。
奏太が一人で工具の手入れをしていると、フィンが来た。
白い前髪の下の青緑の目が、いつもより暗い。手にはデータ板を持っていた。
「タカモリさん」
「どうした」
「今日の模擬戦のデータ、見ました」
フィンがデータ板を差し出した。奏太は受け取って画面を見た。リーゼの模擬戦データだ。回避パターン、攻撃タイミング、位置取り——すべてに微妙なズレがある。愛機時代のデータと重ねれば一目瞭然だった。
「中尉の飛び方に合った機体があれば——」
フィンの声が詰まった。白い前髪を握りしめるように掻き上げる。悔しそうだった。
「あの人は俺たちを庇って愛機を失った。俺たちを逃がすために殿を務めて。それなのに——代わりの機体がこれじゃ、あんまりだ」
「フィン」
「わかってます。贅沢を言える状況じゃない。量産機が配備されるだけでもありがたい。でも——」
フィンは言葉を切った。データ板を胸に抱えるようにして、唇を噛んだ。
「中尉は笑ってました。今日の訓練の後。後輩たちに『機体が変わっただけで慌てるな、体に叩き込んだものは消えない』って。笑って言ってたんです。でも——あの笑顔の裏で、どれだけ」
フィンの声が震えた。
奏太はデータ板をフィンに返した。
「ありがとう、フィン。データ、助かった」
「俺にできることがあれば、何でも言ってください」
フィンは敬礼して去っていった。
奏太は一人になった。
*
日が暮れた格納庫に、灰色の「鉄鳩」が佇んでいる。
奏太はその前に立っていた。
ポケットの中の六角ボルトを、指で転がす。火傷の跡が刻まれた指先に、冷たい金属の角が食い込む。
データは全部頭に入っている。リーゼの操縦特性。反応速度。機動パターン。入力から動作への変換曲線。愛機との相性パラメータ。そして今の「鉄鳩」との乖離値。
足りないものが分かっている。
応答速度。出力重量比。装甲と機動の両立。フレーム剛性。魔力伝達効率。全部だ。全部が足りない。
汎用機をいくら弄っても、リーゼの飛び方には応えられない。調整の限界はとっくに見えている。〇・〇六秒の応答遅延。リーゼが求める〇・〇三秒には永遠に届かない。既存の機体では——無理だ。
なら、答えは一つしかない。
奏太は作業台に向かった。白紙の設計用紙を広げる。鉛筆を握った。火傷の跡がある人差し指と親指で、硬い芯先を紙に当てた。
リーゼの飛び方を思い出す。
あの鋭角ターン。重力を無視したような急制動。切り込む瞬間の加速。部下を庇うときの、自分の体を盾にする覇気に満ちた割り込み。
全部を受け止める機体が要る。
部下を庇っても壊れない装甲。どんな無茶な機動にも追従する応答速度。リーゼの反応速度と一体になる操縦系統。彼女だけのための、彼女だけの機体。
鉛筆が動き始めた。最初はおぼろげな輪郭だった。翼の形。胸部装甲の厚み。脚部フレームの構造。カティアに教わった魔力回路の理論。ガルベルトに叩き込まれた設計原則。ディーターから盗んだ加工の勘所。全部を注ぎ込む。
まだ粗い。穴だらけだ。実現するには技術も資材も時間も足りない。
だが——輪郭は見えた。
リーゼの背中を思い出した。まっすぐ伸びた背筋。合わない機体で黙って飛び続ける横顔。
ヨハンの言葉が蘇る。「中尉は我慢してるが、俺にはわかる」
フィンの声が重なる。「あの笑顔の裏で、どれだけ」
六角ボルトを握りしめた。
「いつか——あなたのためだけの機体を作る」
誰もいない格納庫に、その言葉が小さく響いた。
誓いだった。
町工場の整備士が、異世界のエースパイロットのために機体を設計する。途方もない話だ。技術も知識も資材も足りない。何年かかるか分からない。
だが奏太の手には鉛筆があった。設計用紙があった。そして何より——守りたい人の飛び方が、頭の中に刻まれていた。
火傷だらけの指が、再び紙の上を走り始めた。格納庫の白い灯りの下で、一本の線が一つの約束になっていく。
奏太は描き続けた。夜が更けても、手は止まらなかった。




