第三十八章 代償
歓声が上がった瞬間だった。
ロッテの悲鳴じみた声が通信に割り込んだ。
「門から新たな反応、多数! 数——数えきれません!」
奏太は管制モニターに目を走らせた。赤い光点が画面を埋め尽くしていく。十、二十、三十。増え続ける。門の奥から途切れることなく、敵が湧き出していた。
先ほどの反撃で消耗した部隊に、追撃の余力はない。
「全機、後退!」
ガルベルトの声が飛んだ。低く、太く、迷いのない声。百九十センチの大男が立ち上がり、指揮卓を叩いた。
「防衛線Cまで下がれ。再編成する」
各機が反転する。フィンの機体は左腕の装甲が剥がれ、ヨハンの機体は右脚の駆動系に異常を抱えていた。誰もが消耗している。
だが、敵は速かった。
新たに出現した群体は、先ほどの個体より明らかに俊敏だった。後退する味方の背に、黒い影が迫る。一機、二機と取り残されかけた機体に敵が群がろうとしていた。
「間に合わない——」
ロッテの声が震えた。
その時、黒銀の機体が反転した。
リーゼだ。
後退の流れに逆らい、ただ一機だけが敵に向かって加速していく。銀灰色の長髪が映像の中で流れた。紫の瞳には疲労の色が滲んでいたが、刃を振るう動作に迷いはなかった。
「中尉!」ヨハンが叫んだ。
「全員下がれ。私が殿を引き受ける」
リーゼの声は平坦だった。感情を削ぎ落とした、命令のための声。
黒銀の機体が敵の先頭に斬りかかった。一閃。二体が同時に崩れ落ちる。返す刃で三体目を薙ぎ、左手の副腕で四体目を弾き飛ばした。
見事な動きだった。
だが、奏太のモニターは別のものを映していた。リーゼの機体のステータス。装甲値は赤域に片足を突っ込んでいる。出力も定格の六割を切っていた。先ほどの反撃戦で、すでに限界近くまで酷使している。
「リーゼ中尉、機体の状態が——」
「分かっている」
短い返答だった。分かっていて、なお前に出ている。
奏太は唇を噛んだ。火傷だらけの指がコンソールの縁を握りしめる。データを送ることはできる。だが、あの場に駆けつけることはできない。
リーゼの黒銀が旋回する。五体目を斬り伏せ、六体目の突進を紙一重で躱した。背後では味方が後退を続けている。距離が開いていく。それがリーゼの狙いだ。
「中尉、俺も残る!」
ヨハンの声だった。通信越しに翡翠色の目が光っているのが見えた。右脚の駆動異常を抱えた機体を無理やり反転させようとしている。
「戻れ。それは命令だ」
リーゼは振り返りもしなかった。
「だが——」
「ヨハン」
名前だけを呼んだ。それだけで十分だった。あの声に逆らえる部下はいない。ヨハンの機体が一瞬震え、それから——従った。奥歯を噛み砕くような沈黙を残して、後退の列に加わった。
奏太はモニターから目を離せなかった。
黒銀が孤立していく。味方の光点が遠ざかり、リーゼの周囲には赤い点だけが残る。七体、八体、九体。囲まれつつあった。
リーゼの剣が閃く。右から迫る敵を断ち切り、左からの攻撃を受け流した。だが三方向から同時に来た突撃の一つが、機体の左肩を捉えた。金属が砕ける音が通信に乗った。
装甲値がさらに落ちる。
それでもリーゼは止まらなかった。片腕の可動域が狭まった分を体幹の回転で補い、攻撃を続ける。一体倒す。もう一体倒す。だが、敵は尽きない。門からは際限なく湧き続けている。
「出力低下。右腕の関節温度が危険域です」
奏太は声を絞り出した。データを読み上げることしかできない自分が、ひどく惨めだった。
「ああ——感じている」
リーゼの声に、初めて苦痛の色が混じった。
黒銀の右腕が振り下ろされる。剣が敵の頭部を両断した。しかし引き戻す動きが遅い。関節が焼きついている。その隙を、別の敵が見逃さなかった。
衝撃。
機体の胴体に、敵の突進が直撃した。黒銀が吹き飛ぶ。地面を二度跳ね、横転した。装甲の破片が散乱する。コックピットの映像が激しくぶれた。
「リーゼ中尉!」
複数の声が同時に上がった。ヨハン、フィン、ロッテ。奏太も叫んでいたかもしれない。自分の声かどうか分からなかった。
モニターの数値が壊滅的だった。装甲値ほぼゼロ。右腕機能喪失。左腕も稼働限界。脚部の駆動系は半壊。出力は定格の二割を下回っている。もはや戦闘機動は不可能だった。
だが——まだ動いた。
黒銀が、震えながら上体を起こす。剣はもう握れない。左手だけで地面を押し、膝をつく姿勢まで戻った。コックピットの映像に、リーゼの顔が映った。額から血が流れ、銀灰色の髪を赤く染めている。紫の瞳は、しかし折れていなかった。
敵が近づいてくる。
「脱出してください!」奏太は叫んだ。「もう機体が保ちません!」
一瞬の間。
「——了解」
射出ポッドが作動した。コックピットブロックが機体から分離し、弧を描いて後方に飛ぶ。直後、残された黒銀の胴体に敵が殺到した。四方から叩かれ、引き裂かれ、黒銀だった残骸がただの金属片に変わっていくのを、管制モニターは無感情に映し続けた。
奏太は、そのすべてを見ていた。
*
三時間後。
格納庫に運び込まれたものを、機体と呼んでいいのかどうか。奏太には判断がつかなかった。
右腕はなかった。根元から消失している。左腕は肩関節のあたりで折れ曲がり、本来ありえない角度で固まっていた。胴体装甲は原形を留めていない。内部フレームが露出し、配線が臓物のように垂れ下がっている。脚部は片方がもげ、もう片方も膝から下が潰れていた。
頭部だけが、かろうじて形を保っていた。だがバイザーに亀裂が走り、センサー類はすべて死んでいた。
奏太はその前に立っていた。
火傷だらけの指が、工具を持っていなかった。いつもなら、どんな状態の機体を見ても最初にやることは決まっている。損傷箇所の確認。修復優先度の判定。必要な部材のリストアップ。手が勝手に動く。それが整備士というものだ。
だが、今は手が動かなかった。
「これは——」
声が出た。自分でも意外なほど、かすれていた。
「直せない」
初めてだった。
この基地に配属されてから、奏太は一度も修復を諦めたことがなかった。どんなにひどい損傷でも、フレームさえ残っていれば何とかした。徹夜を重ね、部材をかき集め、規格外の応急処置を編み出し、何度でも機体を戦場に送り返してきた。それが自分の仕事だと思っていた。前線に立てない自分にできる、唯一の戦い方だと。
だが、これは無理だ。
フレームそのものが歪んでいる。応力が限界を超えた金属は、元には戻らない。分子レベルで構造が破壊されている。仮に外装を全部取り替えても、骨格が持たない。新しい装甲を載せた瞬間に、歪みが全体に伝播して別の箇所が折れる。そういう壊れ方だった。
工具を握る代わりに、奏太は拳を握った。
背後で足音がした。
振り返らなくても分かった。軽い足音が二つ。カティアとディーターだ。
赤毛が視界の端に映った。カティアの緑の目が残骸を見つめ、それから奏太を見た。何か言いかけて、口を閉じた。言葉が見つからなかったのだろう。奏太にも見つからないのだから、当然だ。
ディーターは灰色の短髪を掻くこともせず、ただ黙って立っていた。いつもなら実務的な確認をしてくる男だ。それが何も言わない。残骸を一目見て、すべてを理解したのだろう。
三人で黙って立っていた。
格納庫の白い照明が、残骸の金属片を冷たく照らしている。油と焦げた金属の匂いが混じっていた。どこかでコンプレッサーが低く唸っている。日常の音だ。何も変わらない日常の音が、今はひどく空虚に聞こえた。
足音が近づいた。
今度は一つだけ。硬い靴音。軍靴の音だ。
リーゼが格納庫に入ってきた。
額の傷は処置されていた。白い包帯が銀灰色の髪に映えている。左腕を吊っていた。軽い骨折だと軍医が言っていたらしい。それ以外は擦り傷だけ。射出ポッドが正常に機能した証拠だ。
リーゼは三人の前を通り過ぎ、残骸の前に立った。
紫の瞳が、黒銀だったものの上を静かに滑っていく。右腕があった場所。左腕の折れ曲がった関節。露出したフレーム。砕けたバイザー。一つ一つを確認するように、ゆっくりと視線を動かした。
奏太は何か言うべきだと思った。だが、言葉が出なかった。
リーゼが残骸に手を伸ばした。
包帯の巻かれていない右手で、露出したフレームに触れた。かつて胸部装甲があった場所だ。
指先が金属の上を滑る。
冷たいだろう、と奏太は思った。むき出しの金属は体温を奪う。リーゼの指先が、わずかに震えたように見えた。
「長い間」
リーゼが呟いた。
声は小さかった。指揮官の声ではなかった。部下に命令を下す、あの感情を削ぎ落とした声でもなかった。もっとずっと柔らかい、壊れやすいものを扱うような声。
「ありがとう」
それだけだった。
カティアが唇を噛んだ。緑の目が潤んでいる。ディーターが視線を落とした。灰色の短髪の下で、顎の筋肉がこわばっていた。
奏太は、リーゼの右手を見ていた。残骸に触れたまま動かない、その指先を。
火傷だらけの自分の指と、リーゼの白い指。触れているものは同じ金属だ。だが、その金属が持つ意味はまるで違う。奏太にとっては修復対象だった。リーゼにとっては——共に戦場を駆けた相棒だった。
整備士として、言うべきことが一つだけあった。
「——次は」
奏太は声を絞り出した。喉が痛かった。
「次は、もっといいものを作ります」
約束ではなかった。祈りに近かった。だが、言わずにはいられなかった。この残骸の前で黙っているだけでは、整備士の名が泣く。
リーゼが振り返った。
紫の瞳が奏太を見た。その目に浮かんでいたのは、悲しみでも怒りでもなかった。静かな、凪いだ湖面のような色だった。すべてを受け入れた人間だけが持つ、透明な光。
「期待している」
リーゼはそう言って、小さく笑った。
笑顔は一瞬で消えた。背を向け、格納庫を出ていく。左腕を吊った包帯の白が、薄暗い通路に溶けて消えた。
残されたのは、三人の整備士と一つの残骸だった。
カティアが最初に動いた。赤毛を耳の後ろにかきあげ、作業台から記録用の端末を取った。損傷記録をつけるつもりだ。修復はできなくても、記録は残す。次に活かすために。
ディーターも動いた。残骸の周囲に散らばった破片を拾い始めた。使える部品があるかもしれない。ボルト一本でも回収する。それが整備士の仕事だ。
奏太は最後に動いた。
工具箱から、一番使い込んだレンチを取り出した。修復のためではない。分解のためだ。この残骸を丁寧に解体し、構造を記録し、何が限界を超えたのかを分析する。次の機体に活かすために。
火傷だらけの指が、レンチを握った。
握りは冷たかった。だが、手は震えなかった。




