第三十五章 フィンの覚悟
手紙は、昼の配給と一緒に届いた。
薄い封筒。角が少し折れている。帝国軍の検閲印が押された上に、故郷の村の消印。見覚えのある丸い字。母の字だ。
フィンは兵舎のベッドに腰を下ろし、封を切った。
便箋は一枚きりだった。母はいつもそうだ。長い手紙は書かない。必要なことだけを、丁寧に、短く。
「フィンへ。みんな元気です」
最初の一行で、胸が詰まった。
妹たちの近況が書かれていた。長女のマルタが村の学校で一番になったこと。次女のレナが裏庭で野菜を育て始めたこと。末の妹のアンナがようやく一人で靴紐を結べるようになったこと。
何でもない報告だ。戦場とは無縁の、ごく普通の日常。
村に新しい井戸ができたらしい。領主の援助で、広場のそばに。水汲みが楽になったと母は書いていた。レナが毎朝、井戸まで水を運ぶのが日課になったと。
それだけだった。
戦争のことには一言も触れていない。フィンの体を心配する言葉もない。ただ「みんな元気です」と「体に気をつけて」だけ。母はそういう人だ。心配していないわけがない。息子を前線に送り出して、平気でいられる母親がいるはずがない。それでも、余計なことは書かない。書いてしまったら、息子の足を引っ張ると分かっているから。
便箋の最後に、小さな絵が描いてあった。
花。たぶんアンナが描いたのだろう。五歳の手による不格好な花。花びらの数が左右で違う。茎がぐにゃぐにゃに曲がっている。その横に、これもまた不格好な文字で「おにいちゃんへ」と書いてあった。
フィンは手紙を膝に置いた。
天井を見上げる。兵舎の灰色の天井。染みが一つ。それをじっと見つめた。
——エーリヒ。
親友の名前が、不意に浮かんだ。
あれから十日が経った。エーリヒは後方の軍病院に搬送された。左腕の骨折と肋骨の損傷。命に別状はないと聞いた。だが戦線に戻れるかどうかは、まだわからない。
あの日のことを、フィンは何度も反芻していた。
新種がエーリヒの機体を貫いた瞬間。金属が砕ける音。通信越しに聞こえた衝撃音。自分の叫び声。エーリヒの途切れ途切れの声。射出ポッドを抱え上げた時の、両腕に伝わった重さ。
あの時、自分がもっと強ければ。
エーリヒがヨハン大尉を助けに飛び出さなくても済んだかもしれない。フィンが新種を一体でも多く抑えていれば、エーリヒは無理をしなくて済んだはずだ。
だが現実は違った。
フィンは自分の小隊すら満足に守れなかった。エーリヒに助けられ、ヨハンに指示を仰ぎ、リーゼに殿を任せた。自分は何をした? 親友の射出ポッドを拾っただけだ。
首元に手をやった。銀のペンダントに指が触れる。母がくれたものだ。出征の朝、村の門の前で。「お守りよ」と母は笑った。泣いていたのはマルタとレナで、アンナはまだ状況を理解できずにきょとんとしていた。
ペンダントの鎖が首の後ろで冷たい。
守りたいものは、はっきりしている。
故郷の村。母と妹たち。新しい井戸。レナの野菜畑。アンナの不格好な花の絵。マルタの成績表。朝の水汲み。靴紐の結び方。何でもない日常の、その全部。
そして——戦場で隣にいる仲間たち。エーリヒ。ヨハン大尉。リーゼ中尉。奏太。
ペンダントを握りしめた。
銀の感触が掌に食い込む。
*
格納庫は油の匂いがした。いつものことだ。
フィンが足を踏み入れると、奏太が三番機の足元にしゃがんでいた。関節部のカバーを外し、中の配線を確認している。火傷だらけの指が、慣れた動作でコネクタを抜き差ししていた。
傍らの作業台には六角ボルトが種類別に並べられている。几帳面な整列。奏太の癖だ。
「タカモリさん」
声をかけると、奏太が顔を上げた。黒い目が少し驚いたようにフィンを見た。
「フィン。どうした、非番じゃなかったか」
「ちょっと、話があって」
奏太はコネクタを元に戻し、立ち上がった。作業着の膝が油で汚れている。手の甲で額を拭い、フィンに向き直った。
「何だ?」
フィンは一瞬、言葉を探した。
何を言えばいいのか、実はまだ整理できていなかった。兵舎で手紙を読んで、ペンダントを握って、それからまっすぐここに来た。途中で何度も足を止めかけた。何を言うつもりだ、と自分に問いかけた。答えは出なかった。でも足は止まらなかった。
「俺——」
声が詰まった。
奏太は急かさなかった。作業台に腰を預け、黙ってフィンを見ていた。
格納庫の天井から白い光が降っている。機体の金属が鈍く光る。どこかで工具が落ちる音がした。遠い。ディーターが別の機体で作業しているのだろう。
「俺は、ずっとリーゼ中尉みたいになりたかった」
フィンは言った。
「強くて、速くて、誰よりも前に出て。あの人みたいに戦えたら、誰も傷つけずに済むんじゃないかって。そう思ってた」
奏太は何も言わない。聞いている。
「でも、違った」
フィンは首のペンダントに触れた。
「俺はリーゼ中尉じゃない。あの人みたいに一人で殿を務められるわけがない。剣の才能も、判断力も、全然足りない。それは分かってる。ずっと前から分かってた。分かってて、目を逸らしてた」
エーリヒの大破した機体が脳裏をよぎった。砕けた胸部装甲。割れた眼鏡。担架の上の親友。
「エーリヒがやられた時、思い知った。俺が中尉の真似をしたところで、隣にいる奴を守れない。やり方が間違ってるんだ」
言葉が、思ったよりも滑らかに出てきた。ずっと胸の中で転がし続けていたからだろう。十日間、毎晩ベッドの中で考えていたことだ。
「タカモリさん」
フィンは奏太の目を見た。
「俺は強くなりたい。リーゼ中尉みたいにじゃなくて、俺のやり方で」
言い切った。
声が震えなかったことに、自分で驚いた。
奏太が黙っていた。三秒。五秒。フィンの心臓がうるさい。言い過ぎたか。生意気だったか。整備士に言うことじゃなかったか。
奏太が——笑った。
穏やかな笑みだった。火傷の跡が刻まれた指で、作業台の六角ボルトを一つ摘まみ上げる。くるくると回す。いつもの癖だ。
「お前の戦い方って、具体的にはどういうイメージだ?」
「え?」
「リーゼさんは単騎で切り込む突撃型。ヨハンさんは状況を読んで隊を動かす指揮型。お前は?」
フィンは考えた。
「俺は——たぶん、調和型ってやつだと思う。適性診断でもそう出た。突出した能力はないけど、周りに合わせて動ける。エーリヒと組んでた時が一番しっくりきた。俺が前に出て、エーリヒが後ろから支援して。二人で一組の戦い方」
「なるほど」
奏太がボルトをポケットにしまった。
「じゃあ、お前の機体をお前の戦い方に合わせよう」
「——え?」
「今のフィン機は汎用設定だ。悪くないけど、お前の動きに最適化されてるわけじゃない。調和型なら、僚機との連携を前提にした機動特性に振れる。反応速度を上げて、位置取りの自由度を広げる。お前が前衛で敵を引きつけて、僚機が仕留める——その流れを機体レベルで支援できる」
奏太の目が変わっていた。さっきまでの穏やかさの奥に、職人の鋭さが光っている。
「関節の応答速度を調整して、脚部の出力配分を変える。装甲は少し薄くなるが、その分、回避に回せる。お前の適性なら、重い装甲で耐えるより、避けて位置を取る方が合ってるはずだ」
「で、できるんですか、そんなこと」
「できる。お前が自分の戦い方を分かってるなら、機体はそれに応える。リーゼさんの模倣じゃなく、フィン・レクターの機体にする」
フィンは息を呑んだ。
自分の名前を冠した戦い方。リーゼ中尉の影を追うのではなく、自分自身の足で立つということ。
「お願いします」
頭を下げた。深く。
「任せろ。——ただし、お前も協力してもらうぞ。動きの癖とか、戦闘中に感じたこととか、全部教えてくれ。機体を合わせるには、パイロットの感覚が要る」
「はい」
顔を上げると、奏太がまた笑っていた。
*
兵舎に戻ると、ベッドの上に封筒がもう一通置いてあった。
さっきの母の手紙とは違う。軍の公用封筒。後方の軍病院の消印。
フィンは封を開けた。
中から出てきたのは、短い便箋だった。見慣れた几帳面な字。角ばった、だが読みやすい字。
「フィンへ。
左腕はまだ動かないが、右手は書ける。肋骨も大分くっついてきた。
医者には安静にしろと言われているが、リハビリは始めている。勝手にだが。
回復したら必ず戻る。
待っていろ。
エーリヒ」
短い。そっけない。エーリヒらしい手紙だった。
余計な言葉がない。大丈夫だとも、心配するなとも書いていない。ただ「戻る」と書いてある。それだけだ。
だがフィンには、その五文字の重さが分かった。
回復したら必ず戻る。
それはエーリヒの覚悟だ。大破した機体から射出され、意識を失い、後方に搬送されて。それでも戻ると言っている。戦場に。フィンの隣に。
便箋を丁寧に折りたたんだ。
胸ポケットに入れた。母の手紙の隣に。心臓の上に、二通の手紙が重なった。
故郷の家族と、戦場の親友。
守りたいものが、胸の中で確かな重さを持っていた。
フィンはベッドから立ち上がった。窓の外に夕陽が沈みかけている。兵舎の窓から見える空がオレンジ色に燃えていた。
首のペンダントが、夕陽を受けて光った。
もう迷わない。
リーゼ中尉の背中を追いかけるのはやめる。あの人はあの人の道がある。ヨハン大尉にはヨハン大尉の。エーリヒにはエーリヒの。
そして自分には——自分の道がある。
調和型のパイロット。突出した才能はない。一人では何もできない。だからこそ、仲間と共に戦う。前に出て、敵を引きつけ、僚機に道を開く。それがフィン・レクターの戦い方だ。
胸ポケットの手紙に、そっと手を当てた。
エーリヒが戻ってくる。その時、隣に立つ自分が今と同じままでいるわけにはいかない。
強くなる。自分のやり方で。
フィンは兵舎の扉を開けた。格納庫に向かう。奏太が待っている。自分の機体を、自分の戦い方に合わせるために。
夕陽が廊下に長い影を落としていた。フィンの影が、まっすぐ前に伸びている。
もう誰かの影は追わない。




