第三十四章 あの日の約束
夜の格納庫は静かだった。
九番機の修復が終わり、ディーターとカティアは仮眠に入った。奏太だけが残って最後の点検をしていた。各機体の装甲接合部を一つずつ指でなぞり、ボルトの締まりを確認していく。火傷だらけの指が、冷たい鉄の表面を滑る。
足音がした。
軍靴ではない。柔らかい革靴の音。だが聞き覚えがある。
リーゼだった。
銀灰色の髪を下ろしている。制服ではなく、白いシャツに黒のスラックスという軽装だった。紫の瞳が格納庫の薄闇の中でかすかに光っている。
「まだいたのか」
「最後の確認だけです。もうすぐ終わります」
リーゼは何も言わず、いつもの作業台の横に腰を下ろした。昼間と同じ場所だ。まるでそこが自分の定位置であるかのように、自然な動作だった。
奏太は六番機の関節カバーを閉じ、工具をベルトに戻した。これで全機の点検が終わった。
「終わりました」
「そうか」
リーゼが短く答えた。だが立ち上がる気配はない。紫の瞳が、格納庫の天井を見上げていた。高窓から夜空が見える。星が一つ二つ、灰色の雲の切れ間に瞬いている。
沈黙が降りた。
奏太は工具ベルトを外し、作業台に置いた。帰るべきか。だがリーゼの横顔が、いつもと違っていた。殲滅の堕天使と呼ばれる鋭さが消えて、ただ一人の女性がそこにいた。
「——座っていいか」
「え? あ、はい」
おかしな質問だった。ここはリーゼの基地で、奏太はただの整備士だ。許可を求める必要などない。だがリーゼはそう聞いた。何かを話す前の、小さな儀式のように。
奏太は作業台の反対側に腰を下ろした。二人の間に工具箱が一つ。油と金属の匂いが漂う夜の格納庫で、不思議な静寂が満ちていた。
「タカモリ」
「はい」
「——母の話をしてもいいか」
奏太の手が止まった。ポケットの中で無意識に転がしていた六角ボルトを、指が強く握った。
リーゼが母親に触れたことは、ほとんどない。断片的な情報しか聞いていない。パイロットだった。亡くなった。それだけだ。
「聞かせてください」
リーゼは天井を見たまま、静かに話し始めた。
「母は——帝国最高のパイロットだった」
声に感情はなかった。事実を述べるように、淡々と。
「エルフリーデ・ヴァイスフェルト。第三魔装騎士団の団長。三十代で団長に昇り詰めた、帝国史上最年少の記録だ。同時に、最も多くの魔獣を屠った記録保持者でもあった」
奏太は黙って聞いていた。
「幼い頃の記憶で一番鮮明なのは、母の背中だ。格納庫に立つ母の後ろ姿。長い銀の髪を一つに結んで、自分の機体を見上げていた。私はその背中に憧れた。いつか自分もあの場所に立つのだと、六歳の子供が本気で信じていた」
リーゼの口元がわずかに歪んだ。笑っているのか。泣いているのか。暗くてよくわからなかった。
「あの日は——嵐だった」
声のトーンが変わった。少しだけ低く、少しだけ硬く。
「帝都南方の魔獣掃討作戦。母の騎士団が前線にいた。作戦自体は順調だった。だが、味方の魔道兵器が暴走した。実験段階の新型で、魔力制御が不安定だった」
奏太はリーゼの横顔を見ていた。紫の瞳が、遠い過去を映している。二十年前の嵐の日を。
「暴走した魔道兵器は制御不能になった。爆発すれば周囲の部隊ごと消し飛ぶ。撤退する時間はあった。母の機体なら、真っ先に離脱できた。帝国最速の機動力を持つパイロットだったから」
リーゼの声が一拍、途切れた。
「だが——部下が逃げ遅れた」
格納庫の闇が、少しだけ深くなった気がした。
「新人の二人。入団したばかりの若いパイロットだ。恐慌状態に陥って、機体を動かせなくなっていた。母は反転した。逃げ遅れた二人の機体を庇うように自機を割り込ませ、二機を爆発半径の外に押し出した」
押し出した。その言葉の意味を、奏太は理解した。押し出した側は——外に出られない。
「母の機体は爆発に巻き込まれた。即死ではなかったらしい。通信が途絶えるまでの数秒間——最後に言った言葉がある」
リーゼが目を閉じた。
長い睫毛が、白い頬に影を落とした。
「『生きて帰りなさい』」
五文字。たった五文字だ。
だがその五文字が、リーゼ・ヴァイスフェルトの二十年間を決めた。
「通信を聞いていたのは副団長だった。副団長が、後に私にそれを伝えた。母の最期の言葉だと」
リーゼが目を開けた。紫の瞳が、奏太をまっすぐに見た。
「その言葉を——ずっと胸に刻んで戦ってきた。生きて帰ること。それが母への誓いだった」
奏太は何も言えなかった。言うべき言葉が見つからなかった。六角ボルトの角が、掌に食い込んでいた。
「だが——おかしな話だ」
リーゼの唇が、苦く歪んだ。
「母は、自分は生きて帰らなかった。部下を庇って死んだ。なのに、娘には生きて帰れと言った。矛盾している。完全に矛盾している」
その声には怒りがあった。そして悲しみがあった。二十年かけても消化しきれない、六歳の少女の慟哭が。
「矛盾を抱えたまま、私はパイロットになった。母と同じ道を選んだ。速さを極め、敵を屠り、部隊を率いた。生きて帰ると誓いながら。母と同じことだけはしないと、心に決めながら」
リーゼが自分の手を見下ろした。操縦桿を握り続けてきた手だ。
「だが——ルーカスのとき、気づいた」
あの戦場。新種の魔獣がルーカスの機体に迫ったとき、リーゼは反転した。自機を割り込ませ、ルーカスを庇った。奏太はそのデータを整備記録で見ている。機体にどれだけの負荷がかかったか。装甲がどこまで削られたか。数字が語る、命懸けの庇い方だった。
「体が先に動いていた。考えるより先に、操縦桿を切っていた。ルーカスの機体に覆い被さるように自機を滑り込ませて——そのとき、母の背中が見えた気がした」
リーゼの声が、かすかに震えた。
「ああ、同じだと思った。母と同じことをしていると。部下を庇って、自分が盾になって。あれほど繰り返さないと誓ったのに。結局、私は母と同じ人間だった」
沈黙が落ちた。重い沈黙だった。格納庫の闇の中で、二人の呼吸だけが聞こえた。
「やめられないんだ、タカモリ」
リーゼの声は静かだった。
「目の前で部下が死にかけたとき、体が勝手に動く。理屈じゃない。計算じゃない。母がそうだったように——私もそうなんだ。生きて帰ると誓いながら、部下を庇って死ぬかもしれない。その矛盾を、私は一生抱えて戦い続ける」
弟の顔が、リーゼの脳裏に浮かんでいるのだろう。士官学校にいる弟。まだ戦場を知らない弟に、自分が死んだという知らせが届く日が来るかもしれない。母を失った日の自分と同じ顔を、弟がすることになるかもしれない。
それでも——やめられない。
奏太は六角ボルトを握ったまま、ゆっくりと口を開いた。
「リーゼさん」
「……何だ」
「俺には——その矛盾を解決することはできません」
正直に言った。飾らず、誤魔化さず。
「パイロットの覚悟に、整備士が口を挟める領域じゃない。部下を庇うなとも言えない。それはリーゼさんの生き方だから」
リーゼが奏太を見た。紫の瞳が揺れていた。
「だけど——」
奏太は立ち上がった。目の前に並ぶ機体を見渡した。修復を終えた九機。自分とディーターとカティアが、夜通しかけて戦える状態に戻した機体たち。
「あなたが部下を庇っても。盾になっても。それでも生きて帰ってこられる機体を——俺が作ります」
声は震えなかった。
火傷だらけの指で六角ボルトを握りしめて、奏太はリーゼの紫の瞳をまっすぐに見た。
「どれだけ無茶をしても壊れない装甲。どんな攻撃を受け止めても動き続ける駆動系。部下を庇って盾になっても、パイロットを絶対に死なせない機体。そういうのを、俺が作ります」
大言壮語だ。町工場の整備士が、異世界の最先端魔装機を設計するなど——普通に考えれば不可能だ。技術も知識も資材も足りない。
だが奏太の目は、嘘をついていなかった。
「あなたの矛盾を否定するんじゃなくて、その矛盾ごと受け止められる機体を。リーゼさんがリーゼさんのまま戦えるように。母親と同じように部下を守って——それでも生きて帰れるように」
ポケットの中の六角ボルトが、掌に跡を残していた。冷たい金属の角が刻む、小さな誓いの痕。
「だから——」
奏太は一度だけ深く息を吸った。
「待っていてください。必ず作りますから」
格納庫に沈黙が降りた。
長い沈黙だった。リーゼは奏太を見つめたまま、何も言わなかった。紫の瞳が微かに潤んでいるように見えたのは、格納庫の灯りのせいかもしれない。
十秒。二十秒。三十秒。
永遠のような時間が流れた。
リーゼが目を伏せた。銀灰色の前髪が、表情を隠すように落ちた。
そして——小さく、本当に小さく。
「……期待している」
それだけだった。
たった五文字。母の最期の言葉と同じ——五文字だった。
だがその五文字には、リーゼ・ヴァイスフェルトが二十年間、誰にも見せなかったものが詰まっていた。信頼。期待。そして——託すということ。自分の命を、自分の矛盾を、目の前の整備士に預けるということ。
リーゼが立ち上がった。銀灰色の髪が揺れる。紫の瞳はもう、いつもの鋭さを取り戻していた。殲滅の堕天使の顔だ。
「明日の作戦会議は〇八〇〇だ。それまでに寝ろ」
「了解です」
リーゼが格納庫を出ていく。軍靴ではなく革靴の足音が、廊下に遠ざかっていく。
奏太は一人、格納庫に残った。
手の中の六角ボルトを見つめた。火傷と油の染みた指が、小さな金属片を握っている。町工場で拾った、何の変哲もない六角ボルト。異世界に来てからも、ずっとポケットに入れていた。
握りしめた掌に、ボルトの角が六つの点を刻んでいた。
——作る。
奏太は静かに目を閉じた。
リーゼの母の最期の言葉。生きて帰りなさい。その願いを叶える機体を。部下を庇う矛盾を抱えたまま、それでも生還できる機体を。今の自分にはまだ技術が足りない。知識も資材も。だが、足りないなら積み上げるだけだ。一つずつ。一歩ずつ。ボルトを一本一本締めていくように。
格納庫の灯りが、奏太の影を長く引いていた。
夜はまだ深い。だが、闇の向こうに——確かに、作るべきものの輪郭が見え始めていた。




