第三十三章 寝ずの整備
格納庫の灯りは消えなかった。
夜が更けても、明け方が近づいても。白い蛍光灯の下で、金属を叩く音が途切れることはなかった。
奏太は三番機の膝関節に潜り込んでいた。損傷したベアリングを抜き取り、新品と交換する。火傷だらけの指が六角レンチを回す。一本、二本、三本。ボルトを締めるたびに、機体がわずかに軋んだ。
時計は見ていない。見る余裕がない。
撤退してきた機体は九機。そのうち行動不能が三機、中破が四機。まともに動けるのはリーゼ機とヨハン機だけだ。しかもその二機ですら、殿戦の傷が残っている。
全部、直す。
一機残らず、戦える状態に戻す。
新種がいつまた来るかわからない。次の攻勢までに間に合わせなければ、今度こそ全滅する。その確信が、奏太の手を止めさせなかった。
ガルベルトは一時間前に共和国側の機体を見に行った。セルゲイの部隊も被害が大きい。規格の違う共和国機を診られるのはガルベルトだけだ。整備班長の背中が格納庫の出口に消えたとき、奏太は「任せてください」とだけ言った。ガルベルトは振り返らなかった。振り返る必要がなかったのだ。
隣で、鉄を叩く音がしていた。
ディーターだ。
灰色の短髪に灰色の目。寡黙な副班長は、奏太が三番機に取りかかった時からずっとそこにいた。何も言わない。ただ黙々と、隣の五番機の駆動系を修復している。二十年の経験が、無駄のない動きに凝縮されていた。
奏太はベアリングの収まりを確認し、関節カバーを閉じた。よし。三番機の脚部は復旧した。次は胴体の装甲だ。
工具ベルトからトルクレンチを抜く。装甲板の固定ボルトを一本ずつ確認していく。亀裂が入った装甲は交換するしかないが、予備の装甲板は数が限られている。使えるものは補修して使い回す。溶接、研磨、再取り付け。地味で、時間のかかる作業だ。
それでも手は動く。動かし続ける。
格納庫の隅で、青白い光が瞬いていた。
カティアだ。赤毛を無造作に束ね、緑の目を凝らして魔力回路の基板に向かっている。右手の魔道刻印が淡く光っている。魔力回路の修復は、通常の整備とは違う。損傷した魔導素子を一つずつ調べ、焼き切れた結線を繋ぎ直す繊細な作業だ。カティアの専門分野であり、奏太やディーターには手が出せない領域でもある。
だが——カティアの手が震えていた。
最初は気のせいかと思った。だが違う。基板を持つ右手が、わずかに、しかし確実に震えている。導線を繋ぐピンセットの先端がぶれる。
奏太は三番機から顔を上げた。
カティアの顔色が悪い。額に汗が浮かんでいる。撤退戦のあと、一睡もしていないはずだ。奏太と同じように。
だが魔力回路は違う。機械部品と違って、魔力を扱う作業は術者の精神力を消耗する。疲労した状態で魔力回路に触れるのは——危険だ。
「カティアさん」
呼びかけると、カティアが顔を上げた。緑の目が少しだけ焦点を失っている。
「あ——タカモリさん。大丈夫です、もう少しで二番機の主回路が」
「少し休んでください」
「でも、まだ七番機と九番機の回路も残って——」
「震える手で魔力回路を触ったら危険です」
奏太の声は静かだった。だが、はっきりと言い切った。
カティアの手が止まった。自分の右手を見下ろす。震えている指先。魔道刻印の光が不安定に明滅している。
「……すみません」
「謝ることじゃないです。カティアさんがいなきゃ魔力回路は誰も直せない。だからこそ、無理して手元が狂ったら取り返しがつかない」
カティアが小さく頷いた。ピンセットを置き、基板を静かに作業台に戻す。
「二時間だけ。二時間で戻ります」
「ゆっくり休んでください」
カティアが格納庫の隅に歩いていく。予備の毛布を引っ張り出して、壁に背を預けた。数秒で目が閉じた。限界だったのだ。
奏太は三番機に向き直った。装甲の溶接を再開する。
ディーターが五番機の下から這い出してきた。灰色の目が、カティアの眠る方を一瞥し、奏太を見た。
何も言わない。ただ小さく頷いた。それだけで十分だった。
二人は再び、それぞれの機体に向かった。
金属を叩く音。レンチが回る音。溶接の火花が散る音。格納庫に響くのは、それだけだ。会話はいらない。二十年の職人と、異世界から来た若い整備士。言葉がなくても、二人の作業は噛み合っていた。ディーターが外した破損部品を奏太が受け取り、奏太が必要な工具を伸ばせばディーターが無言で受け取る。
時間が溶けていく。
三番機の装甲修復が終わった。続いて七番機の脚部。九番機の推進系。一機終わるごとに次の機体に移る。終わりが見えない。それでも、一機ずつ確実に戦闘可能な状態に近づいていく。
足音が聞こえた。
軍靴の硬い音。整備士の安全靴とは違う。
リーゼだった。
銀灰色の長髪を背中に流し、紫の瞳で格納庫を見渡している。片手にトレイを持っていた。スープの入ったカップと、パンと、干し肉。
「食え」
リーゼがトレイを作業台に置いた。
奏太は七番機の脚部に頭を突っ込んだまま答えた。
「あとで食べます」
「今、食え」
「もう少しで関節の調整が——」
「タカモリ」
リーゼの声が低くなった。
「倒れたら誰が機体を直すんだ」
奏太の手が止まった。
リーゼの言葉は正しい。倒れたら意味がない。それはわかっている。頭ではわかっている。だが手が止まらないのだ。止めたら、次の攻勢に間に合わないかもしれない。間に合わなかったら、また誰かが——。
エーリヒの大破した機体が脳裏に浮かんだ。砕けた装甲。火花を散らす駆動系。もっと早く異常に気づいていたら。もっと頑丈に整備していたら——。
「タカモリ」
リーゼの声が、今度は少しだけ柔らかかった。
「お前が自分を責めているのは知っている。だが、飯も食わずに倒れることが責任の取り方じゃない」
奏太は七番機の下から這い出た。紫の瞳がまっすぐに奏太を見ていた。叱責ではない。不器用な心配だ。
「……いただきます」
スープを一口飲んだ。温かい。空腹に気づいたのは、最初の一口を飲み込んだあとだった。いつから食べていなかったのか思い出せない。
リーゼはトレイをディーターの前にも置いた。ディーターは無言で受け取り、黙って食べ始めた。
奏太が食事を終えて七番機に戻ろうとすると、リーゼがまだ立っていた。
「まだ何か」
「いや」
リーゼは何も言わずに、作業台の横に腰を下ろした。
奏太は一瞬、目を瞬いた。
「リーゼさん?」
「……何だ」
「何してるんですか」
「座っている」
「いや、それは見ればわかりますけど」
リーゼが作業台の上を見た。工具が並んでいる。レンチ、スパナ、ドライバー、プライヤー。リーゼの紫の瞳がそれらを順番に見つめ——おもむろに、六角レンチを手に取った。
「これを使うんだろう。次のボルトに」
奏太は固まった。
かつて整備格納庫に「出禁」を食らったパイロット。善意で機体に触ろうとして逆にパーツを壊したと、ガルベルトから聞いた。その人が、工具を手渡そうとしている。
「あの——リーゼさん。機体には触らなくて大丈夫です」
「触らない。渡すだけだ」
なるほど。機体に触れなければ壊しようがない。工具を渡すだけなら、確かに安全だ。
奏太は小さく笑った。
「じゃあ——お願いします。次は十二ミリのソケットレンチを」
「これか」
「それは十四ミリです。もう一つ小さいやつ」
「……これか」
「それです」
リーゼが工具を差し出す。奏太が受け取り、ボルトに当てる。締める。次の工具を頼む。リーゼが探す。間違える。奏太が訂正する。リーゼがやり直す。
ぎこちないリレーだった。整備の素人が、必死に工具の名前を覚えようとしている。十二ミリと十四ミリの区別がつかない。ラチェットとトルクレンチを混同する。
だが——リーゼは手を止めなかった。
奏太が作業に集中できるように、工具を用意し、使い終わった工具を片付け、ボルトやナットを種類ごとに分けていく。戦場では一騎当千のパイロットが、格納庫では不慣れな手つきで小さな部品を並べている。
かつての「整備出禁」。機体に触るなと言われた過去。それでもここに座って、自分にできることを探している。その姿が、奏太の胸に沁みた。
「リーゼさん」
「何だ」
「ありがとうございます」
リーゼは答えなかった。紫の瞳が一瞬だけ揺れて、すぐに工具箱に視線を戻した。
「次は何を使う」
「八ミリの六角を」
「……これか」
「正解です」
リーゼの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
夜が白み始めていた。格納庫の高窓から、灰色の明かりが差し込んでくる。
カティアが目を覚ました。二時間きっかりだ。毛布を畳み、作業台に戻ってくる。顔色が少し戻っている。右手の震えは止まっていた。
「すみません、休んでしまって——」
カティアが言いかけて、リーゼの姿に気づいた。緑の目が大きく見開かれる。
「リーゼ中尉が——工具を——」
「触ってない。渡してるだけだ」
「は、はい。わかってます。ただ——」
カティアは何かを飲み込んで、小さく微笑んだ。
「助かります」
カティアが魔力回路の修復に戻った。仮眠を取った手は安定していた。魔道刻印が滑らかに光り、損傷した素子を一つずつ修復していく。
格納庫に四人がいた。
奏太が機体の奥に潜り込み、ディーターが隣で駆動系を組み上げ、カティアが魔力回路を繋ぎ直し、リーゼが工具を手渡す。
誰も余計なことは言わなかった。
金属の音。魔力の光。工具が手から手へ渡る気配。それだけが格納庫を満たしていた。
ポケットの中の六角ボルトに、ふと指が触れた。冷たい金属の角が、疲労で鈍くなった感覚を引き戻す。
まだ手は動く。まだ直せる。
朝日が格納庫の窓を照らした頃——三番機、五番機、七番機の修復が完了した。九番機はあと数時間。残りの機体も、今日中には戦闘可能な状態に戻せる。
完璧ではない。応急処置の域を出ないものもある。だが、動く。戦える。
奏太は油まみれの手で汗を拭った。
リーゼがまだ隣にいた。工具箱の前に座り、疲れた目で奏太の作業を見ている。紫の瞳に、格納庫の朝日が映っていた。
「リーゼさん。少し寝てください。パイロットが倒れたら、今度こそ誰も戦えない」
「……お前に言われるとはな」
リーゼが苦笑した。自分が言った言葉をそのまま返された形だ。
銀灰色の髪を揺らして立ち上がり、リーゼは格納庫を出ていった。出口で一度だけ足を止め、振り返った。
「機体を頼んだ」
短い言葉だった。
信頼の重さが、その四文字に詰まっていた。
奏太は頷いた。
「任せてください」
リーゼの背中が廊下に消える。
奏太はポケットの六角ボルトを握り、九番機に向かった。まだやることがある。手を止めるわけにはいかない。
格納庫の灯りは、まだ消えない。




