第二十九章 異次元の門
警報が鳴ったのは、夜明け前だった。
奏太は作業台に突っ伏して仮眠を取っていた。スケッチを描いていたペンがまだ指に挟まっている。警報の音で跳ね起きた拍子に、ペンが床に転がった。
格納庫の照明が赤く切り替わる。非常灯。戦闘配備の合図だ。
通路を走る足音が聞こえる。整備班の人間が次々と持ち場に向かっている。奏太も反射的に立ち上がり、工具ベルトを腰に巻いた。
「タカモリ」
ディーターの声だった。灰色の短髪に灰色の目。寡黙な副班長は、いつも以上に表情が硬い。
「司令部から緊急招集だ。全員、ブリーフィングルームに集合」
全員。整備班だけではない。パイロットも通信士も、基地の主要人員すべてだ。奏太は嫌な予感を覚えた。
ブリーフィングルームに入ると、すでに大半の顔が揃っていた。
リーゼが壁際に立っている。銀灰色の長髪を背中に流し、紫の瞳が正面のスクリーンを見つめている。その横にヨハンが腕を組んで立ち、翡翠色の目を細めていた。フィンは椅子に座っていたが、白い前髪の下の青緑の目が落ち着きなく動いている。首のペンダントを無意識に握っていた。
カティアが奏太の隣に来た。赤毛を耳の後ろに押し込み、緑の目に不安の色がある。
「何があったんでしょう」
「わからない。でも——普通じゃない」
通常の戦闘配備なら、パイロットと整備班だけで事足りる。基地の全員を集めるのは、奏太がこの基地に来てから初めてだった。
ロッテが通信機器を抱えて駆け込んできた。栗色の短髪が乱れている。灰青色の目が赤い。徹夜だったのだろう。彼女は通信卓に機器を接続し、何かの回線を開いた。
重い足音がした。
ヴェーバー少将が入ってきた。
六十代の指揮官は、白髪を後ろに撫でつけ、鋼のような灰色の目で室内を見渡した。軍服の襟元まできっちりと留めている。いつもの厳格な姿だ。だが奏太は気づいた。少将の顎の筋肉がわずかに強張っている。緊張している。この歴戦の指揮官が。
「全員、聞け」
低い声が室内に響いた。雑音が消える。全員の視線がヴェーバー少将に集中した。
「〇三〇〇時——三時間前、帝国領東部のドラッヘン山脈付近に、新たな異次元の門が出現した」
沈黙。
異次元の門。敵が侵入してくる空間の裂け目。これまで確認されていたのは帝国領北西部の一箇所だけだった。ヴァルハイム基地が守る防衛線の向こう側、荒野の果てに開いたただ一つの門。帝国軍はその一点に戦力を集中させることで、なんとか防衛線を維持してきた。
それが——二つになった。
「さらに〇四三〇時、南部のシュヴァルツ平原にも門の兆候が観測された。現時点では未確定だが、開門は時間の問題と判断されている」
三つ。
室内にざわめきが走った。フィンが椅子から腰を浮かせた。ヨハンの腕組みが解けた。リーゼだけが微動だにしない。紫の瞳が、スクリーンに映し出された帝国領の地図を射抜いていた。
「帝国軍総司令部は、戦力の再配置を決定した」
ヴェーバー少将がスクリーンの地図を指した。赤い点が三つ、帝国領を囲むように配置されている。北西、東部、南部。三方向からの侵攻。
「リーゼ中尉」
「はっ」
リーゼが一歩前に出た。
「貴官の部隊は、東部戦線ドラッヘン山脈防衛拠点への派遣を命ずる。出発は本日一二〇〇時」
六時間後。奏太の頭が一瞬、空白になった。
今日。六時間後に、この基地を離れる。
「了解しました」
リーゼの声は平坦だった。感情の揺らぎが一切ない。だが奏太は見た。リーゼの左手の指先が、ほんの一瞬だけ握りしめられたのを。
「派遣部隊の構成は、第三戦闘小隊全機および随伴する整備班とする。期間は未定。東部戦線の状況次第だ」
整備班も。つまり奏太も行く。カティアも、ディーターも。ガルベルトも——。
奏太はガルベルトを見た。大柄な整備班長は作業着のまま壁に背を預けていた。琥珀色の目がヴェーバー少将を見ている。表情は変わらない。腕を組んだ姿勢も変わらない。だがその視線には、奏太が読み取れない何かが込められていた。
「質問は」
ヴェーバー少将の問いかけに、ヨハンが手を挙げた。
「東部戦線の現状は」
「門の出現から三時間。すでに小規模な侵攻が確認されている。現地の駐留部隊が対応中だが、戦力が足りていない。各基地から増援を送る」
「敵の規模は」
「不明。門の大きさから推定して、北西の門と同等かそれ以上」
同等かそれ以上。つまり、ヴァルハイムが今まで全力で押さえていたのと同じ規模の敵が、別の場所にもう一つ現れたということだ。
フィンが小さく息を吐いた。白い前髪の下の顔が青い。ペンダントを握る手に力が入っている。ヨハンがフィンの肩に手を置いた。何も言わない。ただ手を置いた。それだけでフィンの呼吸が少し落ち着いた。
ブリーフィングが終わった。室内が動き出す。パイロットたちは機体の最終確認に向かい、整備班は機材の積み込み準備に取りかかる。六時間。短い。だが足りないと言っている暇もない。
奏太は格納庫に走った。
やることは山ほどある。機体の移送準備。工具の梱包。予備部品の選別と積み込み。消耗品の在庫確認。六時間で全てをやらなければならない。
カティアが隣を走っていた。赤毛が風になびく。
「タカモリさん、部品リスト作ります。優先順位の高い消耗品から」
「頼む。膝関節のベアリングは多めに。東部の戦場環境がわからないから、砂塵フィルターも」
「了解です」
カティアが工具棚に向かった。ディーターはすでに積み込み用のコンテナを引き出していた。灰色の目が淡々と作業を進めている。寡黙な副班長は、こういう時こそ頼りになる。
奏太は七番機のコクピットを開け、計器類の固定を確認し始めた。移送中の振動で精密機器が狂うのは避けたい。手が自然と動く。火傷だらけの指が、慣れた手順でボルトを増し締めしていく。
だがその手が、ふと止まった。
作業台の上に、昨夜のスケッチが置いてあった。新型機体の設計図。まだ荒い、まだ不完全な——でも確かに何かが始まりかけていた線の束。
東部戦線に行けば、設計どころではなくなる。戦闘が激化する中で、既存の機体を維持するだけで手一杯になるだろう。スケッチの続きを描く時間があるかどうかもわからない。
奏太はスケッチを丁寧に畳んで、作業着の内ポケットにしまった。捨てはしない。この図面は、まだ死んでいない。
「奏太」
声に振り向くと、ガルベルトが立っていた。作業着の袖を肘まで捲り上げ、太い腕を組んでいる。百九十センチの巨体が格納庫の照明を背負って影を作っていた。赤褐色の髪と短い髭。琥珀色の目が、奏太をまっすぐに見ている。
「はい」
「機体を壊すなよ」
奏太は一瞬、言葉の意味がわからなかった。
壊すな。機体を。それは——整備士への冗談だ。整備士が機体を壊すわけがない。壊さないために整備しているのだから。
つまり、冗談。ガルベルトが冗談を言った。
奏太の後ろで、カティアが部品箱を落としそうになった。緑の目が限界まで見開かれている。
「し、師匠が——冗談——」
「うるさい。手を動かせ」
ガルベルトが低く唸った。だがその口元が、ほんのわずかに——本当にわずかに——緩んでいた。
奏太は思わず笑った。
「壊しませんよ。俺が整備した機体は、壊れません」
「大きく出たな」
「事実です」
ガルベルトの琥珀色の目が細くなった。笑っている——のだと思う。三十年の経験を持つ整備班長の、不器用な激励。奏太の胸に、じわりと温かいものが広がった。
カティアが小さな声で「信じられない」と呟きながら部品箱を拾い上げた。その顔には驚きと、少しだけ嬉しそうな色が混じっていた。師匠の変化を、一番近くで見ている弟子だからこそわかるのだろう。
昼が近づくにつれて、基地の空気が変わっていった。
普段は静かな通路に人の往来が増えた。物資を運ぶ台車の音。指示を飛ばす声。機体のエンジンテストの轟音。出発の準備が、基地全体を巻き込んで進んでいく。
食堂に立ち寄ると、ペトラがカウンターの向こうで忙しく動いていた。丸い眼鏡の奥の茶色い目が、いつもより潤んでいるように見えた。
「あんたたち、これ持っていきなさい」
カウンターに並べられたのは、携行食の包みだった。通常の支給品ではない。ペトラが手作りした保存食だ。数が多い。明らかに、昨夜から準備していたのだろう。ブリーフィングの前から知っていたのかもしれない。
「東部は寒いって聞くわ。温かいものが食べられるとは限らないから——せめてこれくらいは」
奏太は包みを受け取った。ずしりと重い。五十代の食堂主任の、言葉にならない気持ちがその重さに詰まっている。
「ありがとうございます、ペトラさん」
「馬鹿言いなさい。礼なんていいから、ちゃんと食べて、ちゃんと帰ってきなさい」
ペトラが眼鏡を押し上げて背を向けた。肩が小さく震えていた。
格納庫に戻ると、移送用の大型輸送機が着陸していた。三機の戦闘用機体と整備機材を積み込むための巨大な機体だ。整備班が忙しく荷を運び込んでいる。
ロッテが通信機材を抱えて格納庫に来た。栗色の短髪に、灰青色の目。徹夜明けのはずなのに、その目には強い光がある。
「タカモリさん」
「ロッテさん」
「前線でも通信は繋ぎます」
短い言葉だった。だがその一言に込められた決意は重い。東部戦線とヴァルハイム基地の距離は相当ある。通信の維持は容易ではないはずだ。それでも繋ぐと言い切った。
「何かあれば、いつでも連絡してください。こちらから必要な情報は送ります。部品の追加手配も、技術的な問い合わせも——回線が生きている限り、対応します」
ロッテの灰青色の目がまっすぐだった。通信士としての矜持。離れていても、繋がっていられる。その約束が、どれほど心強いか。
「頼りにしてます」
奏太がそう言うと、ロッテは小さく頷いて通信卓に戻っていった。
一二〇〇時が迫っていた。
輸送機への積み込みがほぼ完了した。機体三機、整備機材、予備部品、消耗品、携行食。東部戦線で当面必要になるものは全て積んだ。
格納庫の前に、見送りの人々が集まっていた。
ヴェーバー少将が立っていた。白髪の指揮官は、派遣部隊の面々を一人ずつ見た。鋼のような灰色の目が、一人ひとりの顔に留まる。
リーゼの前で足を止めた。
「リーゼ中尉」
「はっ」
「東部の状況は未知数だ。無理はするな——と言っても聞かんだろうが」
リーゼの口元がわずかに動いた。笑みとは呼べない。だが硬い表情がほんの少しだけ和らいだ。
「善処します」
「善処か」
ヴェーバー少将の口髭の下で、かすかな笑みが浮かんだ。すぐに消えた。
少将が全員に向き直った。
「戻ってこい」
短い言葉だった。
「ここはお前たちの基地だ。東部で何があろうと——ここに戻ってくる場所がある。それを忘れるな」
六十代の厳格な指揮官が、これだけの言葉を口にするのに、どれほどの感情を押し殺しているか。奏太にはわかった。ヴェーバー少将にとって、この基地の人間は——部下であると同時に、守るべき家族なのだ。
フィンが唇を噛んでいた。泣きそうな顔を必死にこらえている。ヨハンがフィンの背中を軽く叩いた。
「行くぞ、フィン」
「——はい」
声が震えていた。だがフィンは前を向いた。青緑の目に涙はない。十九歳のパイロットは、唇を引き結んで輸送機に向かった。
奏太はポケットの六角ボルトに触れた。冷たい金属の感触。いつもと同じ重さ。いつもと同じ形。だがこれから向かう場所は、いつもと同じではない。
未知の戦線。未知の敵。未知の戦場環境。わからないことだらけだ。
だが——わからないからこそ、やることは決まっている。目の前の機体を最高の状態に保つ。パイロットが安心して戦えるように。壊れたら直す。壊れる前に防ぐ。それが整備士の仕事だ。どこにいても変わらない。
内ポケットのスケッチに手が触れた。新しい機体の設計図。東部戦線で何が待っていようと、この図面の続きは必ず描く。限界を超えるための設計を、諦めるつもりはない。
輸送機のハッチが開いた。
奏太は振り返った。格納庫の前に立つ人々——ヴェーバー少将、ペトラ、ロッテ、そしてこの基地で出会った多くの顔。数ヶ月前、異世界から突然放り込まれた自分を受け入れてくれた場所。機械の声を聴く力を認めてくれた場所。
戻ってくる。必ず。
奏太はハッチをくぐった。カティアが続き、ディーターが最後に乗り込んだ。ガルベルトはすでに機材の固定を確認していた。
ハッチが閉まる。外の光が細くなり、やがて消えた。
輸送機のエンジンが唸りを上げた。機体が震え、ゆっくりと地面を離れる。窓から見えるヴァルハイム基地が小さくなっていく。
リーゼが操縦席の近くに立ち、窓の外を見ていた。銀灰色の髪が機内の照明に淡く光る。紫の瞳に映る基地の姿が、距離とともに遠ざかっていく。
「殲滅の堕天使」と呼ばれる最強のパイロット。その横顔は、今だけは——ただの、故郷を離れる兵士の顔だった。
奏太は座席に深く腰を下ろした。ポケットの六角ボルトを指で転がす。隣でカティアが携行食の包みを膝に置き、ペトラの手書きのメモを読んでいた。「ちゃんと食べなさい」とだけ書いてある。カティアの緑の目が潤んだ。
輸送機は東へ向かっていた。
帝国領の東部。新たに開いた異次元の門。未知の戦場。
基地の外に、世界が広がっている。奏太たちの戦いは、ヴァルハイムの防衛線を越えて、新たな局面に入ろうとしていた。




