第二十六章 新しい味
リーゼが聞いてきたのは、夕食の準備をしているときだった。
食堂の隅で、奏太がペトラの手伝いをしている。じゃがいもの皮を剥き、玉ねぎを刻む。この世界の野菜は元の世界のものと少し違うが、基本的な調理法は変わらない。ペトラは奏太の手際の良さを褒めてくれたが、実際のところ、コンビニ弁当生活が長かった奏太の料理スキルは平凡なものだ。
「お前の世界の食事とはどんなものだ」
声の方を見ると、リーゼが壁にもたれかかっていた。腕を組もうとして、左肩を庇うように右腕だけを抱えている。いつからそこにいたのか。紫の瞳が興味深そうに奏太の手元を見ている。軍服の襟を少し崩した姿は、殲滅の堕天使というより、年相応の女性に見える。
「和食、って言いますけど」
「ワショク」
「米を主食にして、魚や野菜を使った料理です。味噌とか醤油とか——この世界にはない調味料を使うんですけど」
「似た味は作れないのか」
奏太は考えた。完全な再現は無理だ。味噌も醤油もない。米すらこの世界にはない。だが——元の世界で母が作ってくれた味噌汁の記憶がある。あの味の本質は何だったか。出汁だ。昆布と鰹節から取った出汁。旨味の深い、あの味。
「出汁の概念なら、再現できるかもしれません」
「ダシ」
「食材を煮出して、旨味を抽出したスープみたいなものです。肉や骨を使った出汁はこの世界にもあるでしょう? それの、もっと繊細な版というか」
ペトラが興味を示した。食堂の女主人は新しい味に貪欲だ。丸い眼鏡の奥の茶色い目が輝いている。
「乾燥キノコがあるよ。あと干した魚も。それで出汁とやらを取れるんじゃないかい」
「やってみます」
奏太は食堂の食材棚を漁った。乾燥キノコ。干し魚。この世界の香草類。元の世界の食材とは違うが、旨味を出すものは確かにある。
鍋に水を張り、乾燥キノコと干し魚を入れて弱火にかけた。沸騰させないように気をつけながら、ゆっくりと旨味を抽出する。元の世界の昆布出汁とは違う香りだが、方向性は同じだ。澄んだ黄金色の液体が鍋に満ちていく。
「ちょっと味見してもらっていいですか」
リーゼに匙を差し出した。リーゼが一口含んで、目を見開いた。
「これは……何だ。味がする。はっきりとした味なのに、塩でも酒でもない」
「旨味です。昔、俺の世界では『第五の味覚』って呼ばれてました」
「第五の——」
リーゼが二口目を含んだ。今度はゆっくりと、味を確かめるように。紫の瞳が少し細くなる。
ペトラも味見をして「これは面白い。この出汁をベースにすれば、うちの料理が一段階上がるね」と感嘆した。
「この香草を入れてみなさい。きっと合うよ」
ペトラが棚から取り出したのは、薄緑色の乾燥葉。この世界の香草で、ほんのりと柑橘系の香りがする。出汁に加えると、和食ではない、でも和食の記憶と少し重なる、不思議な香りが立ち上った。
奏太はこの出汁を使って煮物を作った。この世界の根菜——形はゴボウに似ているが色は淡い紫色のもの、人参より太くて甘い橙色の塊根——を薄く切り、出汁で柔らかく煮含める。火加減を見ながら、灰汁を丁寧にすくう。母がやっていた手つきを記憶の底から引っ張り出す。
塩加減を調整し、仕上げにペトラの香草を散らした。湯気とともに立ち上る香りが食堂に広がる。完全な和食ではない。だが、和食の魂——素材の味を活かす思想——は確かにそこにあった。
食堂に人が集まってきた。
フィンが匂いに釣られて「何ですか、この良い匂い」と駆け込んできた。青緑色の目が皿に釘付けになる。一口食べて「美味い!」と叫び、即座に二杯目を確保した。
ヨハンが遅れてきて「俺にも作れ」と当然のように要求した。一口食べて「ふん、悪くないな」と言いながら大盛りを平らげた。褒め言葉が素直に出ない男だ。
ガルベルトが食堂の入口に立っていた。いつの間に来たのか。琥珀色の目が料理を見ている。カティアが「師匠も食べてください」と促すと、無言で席に着いた。
匙を口に運ぶ。一瞬、動きが止まった。琥珀色の目がわずかに見開かれる。
「……悪くない」
そして黙々と完食した。空になった皿を見て、カティアが小さく笑った。
いつの間にか、全員が一つの食卓を囲んでいた。リーゼとヨハンとフィン。ガルベルトとカティアとディーター。ペトラが追加の料理を運び、奏太が出汁を補充する。賑やかな声が食堂に反響した。
似ているけど違う。でも美味しい。この世界の食材で作った、元の世界の記憶の味。完璧な再現ではないが——完璧でなくていい。この場所で、この人たちと食べるための味が、新しく生まれた。
フィンが三杯目をおかわりしながら「タカモリさん、明日も作ってくださいよ」と懇願する。青緑の目がきらきらしている。十九歳の少年の食欲は底なしだ。ヨハンが「毎日食わせろ」と横暴なことを言い、フィンの皿から一切れ盗み食いした。「あっ、ヨハンさん!」とフィンが声を上げ、ヨハンが「先輩への上納金だ」とニヤリと笑う。
ペトラは「レシピを書いてもらうよ。この出汁の取り方、うちの定番にするからね」と丸い眼鏡を押し上げながら笑った。
ディーターは無言で三杯食べた。灰色の目は何も語らないが、空になった皿が全てを語っている。カティアが「ディーターさん、お代わりいりますか」と聞くと、微かに頷いた。
ガルベルトが自然にこの食卓にいる。つい数日前まで奏太との距離が限りなく遠かったあの男が、今は同じ皿の料理を食べ、他の皆と同じ食卓に座っている。昨夜の酒のせいか、それとも単に料理の力か。どちらにせよ、その変化が言葉よりも雄弁に語っていた。
食事の後、奏太は食堂の片付けをしながら窓の外を見た。星が綺麗だった。二つの月が薄い雲の向こうに並んで浮かんでいる。元の世界にはない光景。冷たい空気が窓の隙間から入り込んでくる。
リーゼが最後まで残って、皿を運ぶのを手伝ってくれた。
「悪くない料理だった」
「ガルベルトさんと同じこと言いますね」
「似たもの同士らしい。褒めるのが下手な点だけはな」
リーゼの口元が微かに緩んだ。紫の瞳が奏太を見ている。殲滅の堕天使の目ではなく、ただの——二十六歳の女性の目だった。
「次はもっと美味しいものを作りますよ。この世界の食材にも慣れてきたんで」
「楽しみにしている」
リーゼが去った後、奏太は一人で残りの皿を拭いた。
元の世界では一人でコンビニ弁当を食べていた。味のないご飯とおかず。蛍光灯の下で、テレビの音だけを聞きながら、一人で食べて一人で片付けた。誰かに「美味しい」と言われたことなど一度もなかった。
ここにはコンビニ弁当はない。味噌も醤油もない。でも——食卓がある。温かい料理と、一緒に食べる人がいる。「美味い」と笑ってくれる顔がある。それだけで、食事は全く違うものになる。
皿を拭く手が止まった。
帰りたいのだろうか。ふと、そんな疑問が胸をよぎった。元の世界に帰る方法は見つかっていない。見つかる見込みもない。でも——仮に見つかったとしたら、自分はどうするだろう。
その問いに、まだ答えは出せなかった。布巾で最後の皿を拭き終えて、食器棚にしまう。ペトラが作ってくれた「出汁のレシピ」と書かれた紙切れが、テーブルの上に残っていた。大事にポケットにしまった。




