第二十五章 一杯の酒
その夜、奏太は整備棟の作業台で翌日の点検スケジュールを組んでいた。
リーゼ機の修復が間に合い、戦闘も無事に終わった。緊張の糸がほどけて、体の奥からじわりと疲労が湧いてくる。油の匂いが染みついた作業着の袖を捲り、記録用の紙にペンを走らせる。
足音がした。
重い足音。聞き慣れた足音だ。百九十センチの巨体が、廊下の暗がりから姿を現す。
ガルベルトだった。
右手に濃い色の酒瓶を持ち、左手に杯を二つ。琥珀色の目が奏太を捉えた。無言のまま作業台の前に立ち、瓶と杯をことりと置いた。
「……何ですか、これ」
「酒だ」
見ればわかる。奏太が聞きたいのはそういうことではない。
ガルベルトは向かい側の椅子を引いて座った。椅子が軋む。百キロ近い巨体が、古い木の椅子には荷が重い。
「認めた相手と飲む。うちの流儀だ」
短い一言だった。無造作に瓶の蓋を開け、琥珀色の液体を二つの杯に注ぐ。甘い香りが作業台に広がった。蜂蜜酒だ。この世界の一般的な酒らしい。
奏太は紙とペンを脇にどけて、杯を手に取った。
「いただきます」
「ああ」
杯を合わせた。かちん、と小さな音が整備棟に響く。
一口含むと、甘さの中に強いアルコールの刺激が走った。喉が焼ける。思わず咳き込みかけたが、堪えた。ガルベルトが一気に半分を空けるのを見て、さすがだと思う。鍛冶師の家系は酒も強いのだろう。
しばらく無言だった。ガルベルトは酒を飲みながら、壁に掛かった工具を眺めている。年代物の金槌。使い込まれたヤスリ。親の代から受け継いだという道具たち。工具棚の隅に、小さな絵が一枚挟まっていた。子供が描いたらしい花の絵。奏太も黙って杯を傾ける。整備棟の夜は静かだった。遠くで虫の声がかすかに聞こえる。油と蜂蜜酒の匂いが混じり合って、不思議と居心地は悪くなかった。
「お前の技術は邪道だ」
唐突にガルベルトが言った。
「……はい」
「魔力なしで機体をいじる。常識で言えば、ありえん話だ。三十年この仕事をやってきて、そんな奴は初めて見た」
杯に残った酒を見つめるガルベルトの横顔に、作業灯の光が当たっている。深い皺が刻まれた額。手入れの行き届いた短い髭。技術者の顔だ。
「だが——邪道にも筋がある」
奏太の手が止まった。
ガルベルトが酒を注ぎ足しながら続ける。
「昨日の修復で確信した。お前の物理調整と、俺の魔力回路。組み合わせたときの仕上がりは——悪くなかった。むしろ、俺一人でやるより速く、精度も高かった」
「……ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃない。事実を言っただけだ」
ガルベルトが二杯目を空けた。頬がわずかに赤くなっている。酒が回り始めているのか、口数が多い。
「二十年前の話は——したな」
「はい」
「あれ以来、自分以外の人間に機体を任せるのが怖かった。自分の目が届かない場所で、また誰かが死ぬんじゃないかと。だから全部一人でやろうとした。カティアにも、ディーターにも、本当の意味では任せきれなかった」
ガルベルトの声が低くなった。酒のせいか、いつもの鎧が少しだけ外れている。
「だがお前を見て思った。任せられる人間がいるなら——任せた方が、結果は良い。認めるのに時間がかかったがな」
奏太は杯を握りしめた。指先が震えている。嬉しさではない。重さだ。この男が「認める」と口にすることの重さを、奏太はもう知っている。
「ガルベルトさんの魔道整備は芸術です」
率直に言った。
「三十年の経験から出てくるあの調律の精度は、俺には絶対にできない。魔力がないとか関係なく、あれは——到達できない領域です」
「おだてるな」
「事実です」
ガルベルトが鼻を鳴らした。だが不快そうではなかった。
「一緒にやれたら、すごいことができると思うんです。ガルベルトさんの魔力回路と、俺の物理構造。両方が噛み合ったら——今の機体の限界を超えられる」
大きな沈黙が落ちた。
ガルベルトは杯を傾け、天井を見上げた。作業灯の光が琥珀色の目に映り込んでいる。
「……かもしれんな」
初めて聞いた言葉だった。否定でも保留でもない。可能性を認める言葉。
二人は三杯目を交わした。話題は技術の話に移った。
「お前、あの駆動軸をどうやって直した。予備がなかったはずだが」
「曲がった方向と逆に、段階的に力をかけて戻しました。金属の結晶構造を読んで、壊れる手前で止める」
「結晶構造を——指で読むのか」
「十年やってれば、指が覚えます」
ガルベルトが眉を上げた。信じがたいという顔だ。だが同時に、技術者としての興味が琥珀色の目に浮かんでいる。
「俺の魔力診断と同じだな。魔力を流して、回路の状態を感じ取る。お前はそれを——素手でやっているわけか」
「やり方は違いますけど、やってることは同じかもしれません」
失敗の話にもなった。ガルベルトは二十年前の話を繰り返さなかったが、別の失敗を語った。新しい調律パターンを試して機体を暴走させかけたこと。ディーターが咄嗟に緊急停止装置を叩いて事なきを得たこと。奏太も元の世界で精密部品を壊して始末書を書いた話をした。二人とも不器用な笑い方で笑った。
それぞれが守りたいものの話になった。ガルベルトが娘のアンネリーゼの話をし——軍医を目指していること、頑固なところは自分に似たこと——奏太が元の世界の父の工場の話をした。油の匂いと金属の匂いの中で育ったこと。父の背中を見て育ったこと。二人とも不器用な男で、不器用な男同士の会話は言葉が少ない。だがその少ない言葉の一つ一つが、妙に心に残った。
瓶が空になる頃には、夜が深くなっていた。
ガルベルトが立ち上がり、空の瓶と自分の杯を持った。奏太の杯はそのままにして。
「次に飲むときは、もう少しマシな酒を持ってくる。こいつは安物だからな」
次がある。そう言ってくれた。その一言が、どんな言葉よりも重い約束だった。
重い足音がゆっくりと遠ざかっていく。暗い廊下にガルベルトの背中が消える。
廊下の向こうから、もう一組の足音が聞こえた。軽い足音ではないが、ガルベルトほど重くもない。ディーターだ。二人の声が聞こえていたのだろう。表情は変えていないはずだ。あの男は表情を変えない。だが——足取りが少し軽い。奏太にはそう聞こえた。
作業台に残された杯を見つめる。蜂蜜酒の甘い残り香が、油と金属の匂いに混じっている。
杯の底に残った蜂蜜酒が、作業灯の光を琥珀色に返していた。この世界に来て、魔力もなく、資格もなく、何者でもなかった自分を——技術で認めてくれた人がいる。
窓の外に月が出ていた。冷たい夜風が整備棟に入り込み、蜂蜜酒で火照った頬を冷やした。
ポケットの六角ボルトに触れた。くるくる。くるくる。いつもの癖。だが今夜は、いつもより軽く回った。
翌朝。
カティアが整備棟に入ってきて、不思議そうな顔をした。
「師匠の機嫌がいいんです。朝から鼻歌まで歌ってました。何があったんですか」
「さあ。俺は何も知りませんけど」
奏太は知らないふりをした。カティアの緑の目が怪訝そうに細くなったが、奏太の口元が微かに緩んでいるのを見て、何かを察したのか、それ以上は聞かなかった。
作業台の上に、杯が一つ残っている。洗って返さなければ。でも——もう少しだけ、ここに置いておこう。




