第二十三章 堕天使の涙
それは、これまでで最も激しい戦闘だった。
三方向から同時に敵が押し寄せてきた。通常の倍以上の数。ヨハンの小隊が右翼を支え、フィンの小隊が左翼を守り、リーゼが中央で敵を切り裂いていく。通信室ではロッテが絶え間なく座標を読み上げ、奏太は傍らで機体のリアルタイムデータを記録し続けていた。
「中央突破、三体撃破。だが——数が多い。次から次へと来る」
リーゼの声に、いつもの余裕がなかった。殲滅の堕天使が苦戦している。それだけで事態の深刻さがわかる。
「チャーリー隊、レクター少尉! 左翼にも増援! 数、四——いや、六!」
フィンの声が緊迫していた。だが硬直はない。調整された機体が、フィンの恐怖を受け止めている。エーリヒが僚機として左翼を固めていた。
通信にノイズが走った。一瞬の静寂。そして——叫び声。
「ヴェント少尉、被弾! 右脚損傷! 回避機動——取れない!」
ルーカスだった。淡い茶色の髪の新人パイロットが被弾した。右脚の駆動系が損傷し、機動力が大幅に低下している。敵がルーカスの機体に群がってきた。弱った獲物を仕留めようとするように。
「ヴェント、離脱しろ! 後退!」
ヨハンの指示が飛ぶ。だがルーカスの機体は右脚が動かない。後退できない。
通信に、リーゼの声が割り込んだ。
「——私が行く」
座標の変化がロッテの画面に映った。リーゼ機が中央から急転換し、ルーカスの位置に向かっている。圧倒的な加速。白銀の閃光が戦場を横切る。
「中尉、中央が手薄になります——」
「構わん!」
リーゼがルーカスの前に出た。ルーカスに群がっていた敵を薙ぎ払い、壁になるようにルーカスを背に庇う。三体を瞬殺。だが四体目の攻撃が——リーゼ機の左肩を捉えた。
通信に鈍い衝撃音が響いた。
「ヴァイスフェルト中尉、被弾! 左肩装甲損傷!」
奏太の心臓が止まりそうになった。通信室の椅子を握りしめる。ロッテが一瞬だけ奏太を見たが、すぐに通信に集中を戻した。プロフェッショナルの顔だ。
リーゼは被弾しながらも、ルーカスを庇い続けた。左肩の装甲が砕けて内部機構がむき出しになっている。それでも右腕一本で戦い、残りの敵を撃退し、ルーカスの機体を引きずるようにして後退した。
戦闘は辛くも勝利で終わった。だが代償は大きかった。
リーゼは左肩の軽傷。ルーカスは右脚の骨折と全身の打撲で後方に搬送された。他にも何人かのパイロットが軽傷を負っていた。
格納庫に機体が帰還する。一機、二機と着地の振動が響くたびに、整備班が走り出して状態を確認する。リーゼ機の左肩装甲が大きくひしゃげて、内部の魔力回路と物理骨格が露出していた。ガルベルトが駆け寄って損傷を確認し、渋い顔をした。琥珀色の目に怒りが——パイロットに対してではなく、敵に対する怒りが浮かんでいた。
フィンが担架で運ばれるルーカスに駆け寄った。
「ルーカス! 大丈夫か!」
「——すみません。俺のせいで、ヴァイスフェルト中尉が——」
「お前のせいじゃない。誰のせいでもない」
フィンの目が赤かった。先輩として守れなかった——その自責の念が青緑の目に浮かんでいる。かつての自分と重なったのだろう。庇われる側の痛みを、フィンは知っているのだろう。
エーリヒが歩いてきて、フィンの肩を掴んだ。眼鏡の奥の目が真剣だった。
「お前のせいじゃない。いいな、フィン」
短い言葉。だが友人の目は「やめろ、自分を責めるな」と言っていた。フィンは唇を噛んで頷いた。
ルーカスが担架で医務室に運ばれていく。右脚の骨折は酷いが命に別状はない。パイロットとしての復帰には時間がかかるだろう。
格納庫の喧騒が落ち着いた頃、奏太は格納庫の奥を歩いていた。損傷した機体の状態を確認するためだ。リーゼ機の左肩の損傷は深刻で、物理構造と魔力回路の両方に修復が必要だった。
格納庫の隅に、人影を見つけた。
銀灰色の髪が薄暗い照明の下で揺れている。リーゼが壁の前に立っていた。いや——壁に向かって、拳を打ちつけていた。
がん。がん。がん。
小さな、だが鋭い音。拳が壁に当たるたびに、リーゼの肩が震えている。左肩には応急処置の包帯が巻かれていた。軽傷だと聞いた。だが——本当の傷は、そこではない。
「リーゼ」
奏太が声をかけた。
リーゼの手が止まった。振り返らない。
「問題ない。怪我は大したことない」
声が震えていた。「問題ない」と言いながら、明らかに問題がある声だった。
奏太は何も言わず、リーゼの隣の壁に背をつけて座った。冷たいコンクリートの感触が背中に伝わる。格納庫の隅は暗くて静かで、少し油の匂いがした。
長い沈黙があった。
リーゼもゆっくりと壁に沿って座り込んだ。膝を抱えて、顔を伏せた。銀灰色の長い髪がカーテンのように顔を隠す。
五分。十分。言葉はなかった。
やがて、リーゼがぽつりと口を開いた。
「母も——誰かを庇って死んだ」
声が細かった。殲滅の堕天使の面影はどこにもない。二十六歳の女性が、母の死を語っている。
「パイロットだった。優秀な人だったらしい。部下を庇って——帰ってこなかった。私が十二歳の時だ」
奏太は黙って聞いていた。
「だから——庇うのは、できないはずだった。あんな真似をするつもりはなかった。でも、あのガキが——ルーカスが目の前で被弾した瞬間、体が勝手に動いた」
リーゼの声が掠れた。
「母と同じだ。馬鹿な話だ。庇って死んだら意味がないとわかっているのに——体が勝手に動く。母の血か。最悪の遺伝だ」
奏太は何も言わなかった。慰めの言葉も、励ましの言葉も、今は違う。この人が必要としているのは、そこにいること。ただ隣にいること。
格納庫の高い天井から、冷えた空気が降りてくる。二人の間を沈黙が満たし、遠くで整備班が機体を修復する音がかすかに聞こえていた。
「……お前は」
リーゼが顔を上げた。紫の瞳が潤んでいた。涙は流していない。だが、ぎりぎりだった。
「何も言わないんだな」
「何を言えばいいかわからないんです。ただ、ここにいます」
「……馬鹿だな」
「よく言われます」
リーゼの口元が微かに緩んだ。笑いとは言えない。でも——少しだけ、力が抜けた。
二人はしばらくそうしていた。格納庫の隅で、壁にもたれかかって、並んで座って。言葉のない時間が、ゆっくりと流れていった。
やがてリーゼが立ち上がった。髪についた埃を払い、軍服の襟を正す。殲滅の堕天使の顔に戻っていく。だが、完全には戻りきらなかった。紫の瞳の奥に、さっきまでの脆さが薄く残っていた。
「——ありがとう」
背中を向けたまま、リーゼが言った。小さすぎて聞き逃しそうな声だった。
奏太は格納庫の隅で、一人残った。冷たい壁の感触を背中に感じながら、天井を見上げた。
何かをしたわけではない。機体を直したわけでも、データを分析したわけでもない。ただ隣に座っていただけだ。それでも——あの人には、それが必要だったのだと思う。
技術では支えられないものがある。でも、そこにいることはできる。
ポケットの六角ボルトに触れた。今日は回さなかった。ただ握っていた。冷たい金属の感触が、確かに自分がここにいることを教えてくれた。




