第二十二章 二つのアプローチ
奏太はガルベルトに正式な提案を持ちかけた。
場所は整備棟の奥の小部屋。先日、ガルベルトが過去を語ったあの場所だ。壁に掛かった年代物の工具が見守る中、今度は奏太が語る番だった。午後の陽光が小窓から差し込み、テーブルの上に白い四角を描いていた。
テーブルの上に、データと図面を広げた。薄い紙に細かい文字と数値を書き込んだ資料が十枚以上。二週間分の戦闘データの分析結果。機体ごとの稼働効率比較。魔力消費率と物理構造の相関図。棒状のグラフ。散布図に近い手描きのプロット。そして——奏太が三日かけて描いた提案書。
奏太は深呼吸して、話し始めた。
「魔力回路の調律はガルベルトさんにしかできない。あの精度と感覚は、三十年の経験の結晶です。俺がどんなに努力しても、あそこには届かない。それは事実です」
ガルベルトは腕を組んで椅子に座り、無言で聞いていた。琥珀色の目がテーブルの上の図面を追っている。
「でも、物理機構の最適化を組み合わせれば、機体の性能は今の倍は出せる」
「倍だと?」
「大げさに聞こえるかもしれません。でもデータがあります」
奏太は一枚の紙を指差した。調整前後の機体性能比較。ヨハン機、リーゼ機、フィン機。三機分のデータが、明確な改善を示している。さらに、物理構造の最適化がまだ途中段階であること。関節部の放熱改善、駆動系の摩擦低減、装甲配置の空力最適化——やれることはまだ山ほどある。
「全てを実施すれば、総合性能は現状の百五十パーセントから二百パーセントの範囲まで向上する見込みです」
奏太は資料の余白に描いた図を指差した。現在の機体構造と、最適化後の理想構造。関節部の放熱フィン。空力を考慮した装甲配置。駆動系の摩擦低減機構。どれも元の世界の技術をこの世界に適用したものだ。
ガルベルトは長い間、黙っていた。太い指が顎の手入れの行き届いた短い髭をなぞっている。考え込む時の癖だ。資料のページを一枚一枚めくり、数値を追い、図面を見ている。読んでいる。真剣に読んでいる。
「理屈はわかった」
低い声だった。否定ではない。
「だが実績がない。三機の調整結果は見た。効果があることは——認める。だが大規模な改修の実績はない。一つの関節を調整するのと、機体全体の構造を変えるのは次元が違う」
「おっしゃる通りです。だからこそ段階的に進めたい」
「失敗すれば死ぬのはパイロットだ。お前じゃない。整備士はな、自分のミスを自分で受けることができない。結果を受けるのは常にパイロットだ。その重さを——お前はわかっているのか」
あの日の話。二十年前の話。魔力回路の劣化を見落とし、若いパイロットを失った話。ガルベルトの言葉の一つ一つに、あの日の重みが乗っている。
「わかっています。だから、段階的にやりたいんです。一機ずつ。一箇所ずつ。データを取りながら、効果を確認しながら。ガルベルトさんの目で確認してもらいながら」
ガルベルトの琥珀色の目が、奏太を射抜いた。長い時間をかけて——値踏みしているように見えた。技術者の目だ。新しい素材を鑑定するときの目。信頼に足るかどうかを見極めている。
「……今は、まだだ」
拒絶だった。だが——奏太は聞き取った。「今は」。今は、まだだ。未来永劫拒否するとは言っていない。
そして何より——「馬鹿げている」ではなく「実績がない」と言った。技術そのものは否定していない。否定できなかった。データが語っているから。
「わかりました。実績を積みます」
「勝手にしろ」
ぶっきらぼうだった。だが——テーブルに広げた資料を片付けようともしなかった。つまり、もう一度読むつもりなのかもしれない。あるいは、「片付けるな」という無言の許可か。
ガルベルトは立ち上がり、小部屋を出ていった。重い足音が廊下に響き、遠ざかっていく。百九十センチの背中が暗がりに溶けて消えた。
奏太は一人で図面を見つめていた。提案は通らなかった。だが——扉は閉まっていない。ほんの僅か、隙間が開いている。
図面の上に、ガルベルトが触れた痕跡が残っていた。紙の端が少し折れている。資料を丁寧にめくった跡。最後のページまで読んでいた。そのことが、奏太には何よりの手応えだった。
その夜。
カティアが整備棟に来た。他の整備班員が帰った後の、静かな時間。赤毛の下の緑の目が揺れている。
「あの提案——私は筋が通っていると思います」
小声だった。師匠への忠誠と、技術者としての良心の間で揺れている声。
「でも師匠には師匠の理由がある。二十年前のことがあるから——新しい手法を認めるのが怖いんだと思います。自分のやり方以外のものが入ってきて、もし何かあったら——また誰かを失うかもしれないって」
「……ガルベルトさんの恐怖は、理解できます」
「タカモリさんは優しいですね。普通なら怒りますよ。あんな頭ごなしに拒否されたら」
「怒ってないわけじゃないです」
正直に言った。拒否された悔しさはある。データを積み上げて、論理を組み立てて、それでも「まだだ」と言われる。技術者として、結果で語っているのに認められない辛さは——ある。
「でも——あの人が間違ってるとは思わない。慎重すぎるだけで。二十年前に人を失った人間が慎重になるのは当然です」
カティアは小さく笑った。集中する時の舌先ではなく、安堵の笑み。奏太が師匠を恨んでいないことに、ほっとしているのだ。
廊下の奥から、別の足音が聞こえた。重くはないが、確かな足音。ディーターだった。整備棟の見回りのついでに——いや、わざわざ来たのだろう。灰色の短髪が薄くなりかけた頭。骨張った手。無表情な顔。灰色の目が奏太を見て、短く言った。
「班長は変わりつつある。時間をかけろ」
それだけ言って、ディーターは去っていった。振り返りもしない。
ディーターの言葉は短い。だがいつも的確だ。二十年以上、ガルベルトの隣で無言で仕事をしてきた男の言葉。変わりつつある——そうディーターが言うなら、そうなのだろう。あの灰色の目は、嘘をつかない。
奏太は図面をテーブルに広げたまま、もう一度見直した。提案書の端に書いた数値。将来の目標性能。実現のためのロードマップ。
今は「まだだ」と言われた。なら、次に聞かれたとき、もっと強いデータを持っていく。実績を積む。一機ずつ。一箇所ずつ。時間をかけて。
ガルベルトの「感情的な否定」は、「条件付きの保留」に変わった。条件は——実績。ならば実績を作ればいい。技術者にとって、それは一番得意な領域だ。
窓の外で月が出ていた。整備棟の窓から見える格納庫の屋根が、月光に照らされて銀色に光っている。あの中に、自分が触れた機体たちが眠っている。明日また動き出す機体たち。明日また戦場に出る人間たちを乗せて。
ポケットの六角ボルトに触れた。くるくる。くるくる。考え事のリズム。
焦らない。確実に、一歩ずつ。ガルベルトの三十年に比べれば、自分の実績はまだ数週間分でしかない。だが数週間でも、確かな数字を出した。その数字を、積み重ねていく。
元の世界では、いつも一人で残業して、一人でコンビニ弁当を食べて、一人で眠りについた。ここでは——カティアが手伝いに来て、ディーターが茶を置いて、ガルベルトが拒絶しつつも話を聞いてくれる。一人じゃない。それが、こんなにも心強いとは思わなかった。




