第89話『でっかいアーリア』
ぼんやりと薄目を開け、朝の気配差し込む僅かの光に違和感を感じていた。
思考と反射が切り離された感覚。それは血を血で洗う殺しの世界に身を置くロイにとって、ついぞ忘れていた幼き頃の残滓。
それが、カチリと、まるでご高潔な神殿様のご立派な石壁の如く、隙間無く合わさった。
遠く家畜のざわめく外の気配は、もう陽が昇ってから数刻は過ぎている様子を物語り、すやすやと健やかな寝息の重奏は、鋭利な刃物となってロイの心臓を貫き、どす黒い嫌悪感となり、切り裂かれだくだくと溢れ出る血潮の様に、その胸中に溢れ出、満たした。
薄い壁の向こうから流れて来る、楽しそうな男女のさえずりなどどうでも良い。
言葉は無い。
言葉も無い。
指先が小剣の指に馴染んだ柄に触れ、そっと引き抜き、するりと鞘より抜け出る感触を試す。
眉間に深い皴を寄せ、ロイは空いていたもう一つの寝台を見た。
それから、あの素性の良く知らぬギルと名乗った行商人が、ゴーゴーと無様に寝ていた真下の寝台を。
そのたるみきった素人ぶりに、内心深い嫌悪感を覚えていた自分に、そっくりそのまま胸を抉り抜かれた気分だ。あの男が、もし殺し屋だったら、自分はもう死んでいた。無様に寝首をかかれ、幽玄の彼方へ旅立っていた事だろう。
そこには小さな身体が丸まっていた。ジミーだ。
すると、あとはシルフーと・・・ああ、あのアルとか言うジミーの仲間だろうと合点した。
(じゃあ、あの男はどこへ?)
視界の隅に、ギルの背負っていた物入れが立て掛けてある。そして、床には茶色い大振りの羽が何本も落ちている。どうせ夕べにでも、このガキ共が森から持ち帰ったのだろう。
自分への嫌悪感からぬっぷりと抜け出す様に、ロイは温もりの残る寝床からぎしぎしと抜け出し、ひやりとした朝の冷気の名残へとその身をさらした。
ブーツに滑り込ませた指先が温もりを取り戻すのを待たずに、表の中庭にあっただろう井戸へと向かう。一刻も早く、この嫌悪感をさっぱりと洗い落としたかった。隣りの二人に顔を見せるのはそれからだ。
井戸端には先客が居た。
「おや!? 随分と遅い朝じゃね!?」
夕べ、宿泊の交渉をしたこの農家の人物は、畑から上がって来たばかりなのだろう、麦わら帽子に作業服らしい粗末な出で立ちで、ごしごしと収穫してきたであろう根菜の類を洗っていた。こちらに無防備な背中を向けているのは、こちらが若い娘や子供を連れた一団だからの油断だろう。他の家人はまだ畑にいるのだろうか。
ここで、特に問題を起こす気も無いので、ロイは普通の旅人を装い続ける事にした。
「おはようございます、ご主人! 精が出ますね!」
「ああ、おはようさん! 腹ぁ~減ってるじゃろ!? 今朝、あんたらの分~パン焼いたし、スープもあんで! 食ってけや!」
好青年を演じる事にしたロイは、笑顔を装いながらゆっくりと歩み寄った。
「それはありがとうございます! みんなも喜びます! ありがとうございます!」
今日は良い天気だ。
陽の光も暖かく、既に朝露も日なたは乾き、日陰との明暗をくっきりとさせている。
そして、井戸端の黒い石畳が、濡れてキラキラと輝く様は、昨日の物騒なオーク鬼との血塗られた邂逅をうやむやにしてくれそうに平和な空気をかもしていた。
「そんじゃ。ま、支度でもさせようかねぇ・・・」
よっこらせと、腰を屈めた男が立ち上がりつつ、屈託の無い笑みで傍らの笊に洗った根菜を手早く放り込むと、不意にそれらがごろごろと石畳に転がり出した。
日に焼け、真っ黒しわしわのいかにも農夫らしい顔が、今や不自然なまでに目を大きく見開いてロイの顔を見上げ、硬直している。
「?」
その反応にピタリ歩みを止めたロイは、咄嗟に懐の小剣に利き手を差し入れ、作り笑いのまま息を呑む。
「ぶはっ!」
弾ける息に、無表情かつどの様な動きにも対応出来るであろう、緩みきったロイの四肢は、この間合いならば即座に必殺の一撃を目の前の男に加える事が可能である。
だが、ロイは動かなかった。
動けなかったと言っても良いだろう。
縦横無尽に鞘ばしるロイの小剣は、無意識下の反射的な動き。相手の殺意に反応しての。故に殺意無き農夫のそれには、ぴたりと硬直したかの様に動く事は無かった。
自然と殺しのスイッチが入ったロイは、農夫の顔の表情がくしゃりと崩れると共に、ドッと冷や汗をかいた。
「あ~っはっはっはっはっはっは!!」
「・・・?」
ロイの顔を真っ直ぐに見、大笑いする農夫。これをまた、目を大きく見開いたままのロイは凝視し、涙目で笑い転げる農夫に、ようやく臨戦態勢を解く事となる。
「あ・・・あんた・・・旅芸人かい・・・?」
ひいひいと息を引きつかせる農夫の視線に、ようやくその顔に指を這わせる。その皮膚の違和感に、顔全体を確かめようと全部の指を恐る恐る近づけると、顔面くしゃくしゃの農夫は手招きする様に、井戸水を張った木のたらいへとロイを誘う。
武器の柄から手を離してしまう程、困惑に支配されたままのロイは、陽光ゆらゆらと反射する水面へ、その顔を覗かせると・・・
「な、なんじゃこりゃぁぁぁぁぁぁっ!!?」
その真っ青に彩られた、悪戯書き満載の顔面に、ロイは激しく水を叩き付けた。
こすり。もみ。洗い流し。
みるみる真っ青に溶け出る、その顔に塗られた何か。
(一体誰が!?)
グルドのふざけた顔が脳裏を過ぎる。
その傍らに身を寄せるアーリア。
くねくねと多腕をうねらせるシルフー。
ジミー。
アル。
ギル。
目の前のおっさん。
か~っと血が頭に上る感覚は、どす黒い殺意のそれとなって、ロイの中を満たしていく。
そして、これまたタイミングを見計らったかの様に、どたどたと駆け出て来る何人もの気配。
「お前かっ!!?」
振り向きざまに、ロイは叫んだ。
その目線の先には、先頭を来るグルドの巨漢が。もう何もかも知ってるかの、ありありと判る楽しげな顔で。
「何の事だっ!?」
(楽しんでやがる!)
すると、その背からひょいと顔出すアーリアの、これまた全ての事情をご存知で御座いと言わんばかりに瞳をキラキラさせた顔がひょいとのぞく。そして、ロイが質問もしてないのに首を左右に振った。
「あたし、何もしてないよ!」
「ないな~いヨ」
続いてゆらゆらと、揺れ出るシルフーがその半透明の身体を極彩色に輝かせながら、その頭上より顔を出す。
パタパタと軽い足音が二つ、続いて飛び出して来ると、ロイの剣幕を察してか、グルドの巨漢を盾にする様に、身体を半分だけ覗かせて、これまた好奇心いっぱいの眼でロイの瞳を覗き込んで来た。
「俺達、夕べ帰ったら、もうなってたんだ!」
「そうそう。誰がやったんでしょうねぇ~。もしかしたら、ギルかも知れませんよ。あれ、実は悪魔だったんですよ。あ、おじさんというのも、嘘で、全部脅かされていたんです。すいません」
しれっとした顔でジミーに続くアルに、農夫も笑いながらうなずくと、よっこいしょと腰を上げた。
「ああ~、悪魔の仕業かもねぇ~。くわばらくわばら。あんたら、飯にするかね?」
すっかり子供の悪戯か何かだろうと合点した農夫は、さっさと切り上げて家に戻ろうとする。それに皆は笑顔でうなずいた。
納得してない一人を除いて。
「ちょっと待て、何だその悪魔って話は?」
やや早口。殺意に満ちた殺し屋ロイの問いに、今や人でなしとなったアルは、平然と答えた。
「ええ。言った通りですよ。ギルは悪魔だったんですよ。いやぁ~、酷い奴でした。僕を操って、ジミーや皆さんを殺そうと企んでいたんですから・・・」
まるで他人事の口ぶり。
完璧なるすっとぼけ。
生前のアルなら、完全にびびって、おしっこをもらして座り込んでいただろう。
だが、今やアルは生まれ変わったのだ。
魔の眷属に。
この様なロイの敵意など、むしろ心地良い。ふつふつと全身に活気が満ちて来る想いだ。
「じゃあ、あいつはどこだ!?」
「行っちゃいましたよ。どっかに・・・」
むしろ面白がってる表情を隠しもせず、ロイを見上げるアルは、そこで、どっか、何か、どうにも、忘れている様な引っ掛かりを覚えた。
そこへ、にやつくグルドが、鼻の下を指先で軽くこすりながら口を挟んだ。
「それより、ほら。なんだ、その。夕べは、良い天気だったじゃないか」
「?」
怪訝そうに見返すロイに、その身をグルドの左腕に巻きつける様にして立つアーリアも、さも楽しそうに、さも言いた気にうなずいてみせる。
「だって、夕べは星が綺麗な夜だったよ。ね~?」
「ああ。星が良く見えたな」
グルドとアーリアは目線を交わしながら頷き、緩む頬を互いにぴくぴくさせるのを確認し合う。笑い出すのを堪えるのが大変なのだ。
「なん・・・だと・・・」
嫌な予感がする。ロイは、口元に残されていたマーキングを確認する様に指を置くのだが、まったく記憶に御座いません、状態だ。
(どういう気だ・・・?)
口元を押さえ高笑いする女の顔が脳裏に浮かぶ。
そして、困惑するままのロイをおかずに、一同にやにやと気持ちの悪い目線を注ぐ。
それから、たっぷり堪能した頃合を見計らい、グルドが何とか口調を戻し、閉めに入った。
「ぷっ・・・まあ、それにだ。こっちを殺そうって腹の悪魔と、一晩過ごして無事だったんだから、むしろ良かったんじゃねぇか? 感謝しなきゃだろ? これくらいの悪戯、かわいいもんじゃねぇか?」
「う・・・ぐ・・・」
容認し難い屈辱感に苛まれつつ、気持ち悪い視線を振り払う様にして、ロイはそっぽを向きながら、皆にしっしとばかりに手を振った。
「判った判った。もう判ったから、お前らあっちへ行け」
「じゃあ、朝ごはんだね?」
「ああ。腹減ったな」
くいっと野太いグルドの腕を引き、家屋へ戻ろうと誘うアーリアに頷き、その巨漢が動く。すると、残る三人も家屋へ戻ろうと後に続いた。
「シルフー、食べルヨ~」
「おい、一緒にメシなんて久しぶりだな!」
「そう・・・だね・・・」
なんとも足取りの重いアルの肩を、屈託無く笑い、ジミーはぽ~んとはたいて促す。
「う~ん・・・」
「何だよ、アル!? 腹でも痛いのか!?」
「お腹、痛イのカ?」
しゅるるっと伸びてくるシルフーの触腕に、そっと手を置き静止するアルは、心配気に見返して来るロイを除いた一同に、首を左右に振って微笑んで見せた。
「どうしたの?」
「どれ・・・」
脈を取ろうと無造作に伸びて来るグルドの手からスッと距離をとり、アルは一同を見渡した。
「違うんです」
(脈拍約2000・・・体温は・・・ここで僕が人で無い事を、まだ知られる訳にはいかない・・・)
その身に宿る悪魔の知識を元に、アルはゆっくりと体内の代謝活動を人のそれに近付ける努力をしつつ、言い訳を考えた。そして、素直に話す事にした。
「実は、さっきから何か大事な事を忘れてる様な気がしてならなかったんです・・・」
「何だよそれ。ギルって悪魔に関する事かよ?」
口を尖らせ、怪訝そうな顔をするジミーに、肩をすくめて見せると、アルはゆっくりと、思い出す様に言葉を選んだ。
(なんだ、この中途半端な感覚は・・・僕にとって、大事であり大事でない事・・・人にとっては大事だが、悪魔にとっては大事では無い・・・)
「そう・・・多分、いつかどこかであの悪魔から・・・」
キラリ、何かの閃きが脳裏を過ぎる。
その時である。
「大変だぁ~っ!!!」
遠く何者かの悲鳴に似た叫びが風に乗って、この農家の中庭まで届いてきた。
「た、大変だぁ~っ!!!」
その声が呼び水となってか、村全体がざわついて来る気配。
何事かと全員で門前に押しかける。
折り重なる様に、顔だけ声の方へ覗かせると、村の農道を手を振り右往左往する人々の姿が見えた。
「これって、もしかして、お前の言う何か大事な事に関係あるかよ!?」
「ああ!」
ジミーの質問に応える様に、ポンと手を鳴らしたアルは目を細めた。
ようやく合点がいった。
「うん。とっても大事な事だった・・・」
自然と、口元がほころぶ。自然な笑みだ。
そして、更にもう一つ合点がいった。
「何だよ!? 勿体ぶらずにさっさと言えよ!」
「ああ・・・やっぱりそういう事だったんだ」
「だから、何だよっ!?」
「オークだぁ~っ!! オーク鬼が攻めて来たぁ~っ!!」
悲鳴を上げながら転がる様に駆けていく農婦に、うんうんと満足げに頷くアルであった。
「何、単純な事だよ。あの悪魔はオーク鬼の氏族に協力させる見返りとして、事が終わったらこの村の門をね・・・」
そこで一度言葉をためて、アルは確認する様に更に頷いた。
「門を開放しておく約束をしたんだ・・・つまりは、この村を略奪出来る様に・・・」
アルは見る見る表情を変えるジミーを目の当たりにして、確信した。
その身の内に沸き起こる歓喜と呼ぶべき高まりに。
自分が何を一番に欲しているのか。
「でも大丈夫さ・・・」
アルはジミーに囁く。不安に揺れるジミーの関心が、全てこの身に注がれる様にと。
なんと甘美な・・・
そして、そんなジミーにアタタカナ救いの手を差し伸べてやるのだ。この僕が・・・
「あの悪魔は、悪魔だからね。そんなつまらない約束なんて、守る訳無いだろう?」
そう言って、アルは微熱を帯びる程度に暖かな掌を、ジミーの脈動がはっきり判る様にと、その左の頬へと差し伸べた。
「せいぜい、約束を反故にされた馬鹿なオーク共が、じれて門の前に集まった程度だよ。僕らは、さっさと反対側の門から逃げ出せば良い。オーク共が、村の門をぶち破って突入するまで、時間はたっぷりあるさ」
見捨てれば良い・・・
逃げ出せば良い・・・
そうやって、君は楽な方へ・・・楽な方へと・・・
この僕を頼る様になるんだよ・・・
そんな熱い想いを胸にたぎらせるアルは、その悦楽のほとばしりが不意に萎む感覚に、ジミーの注意が自分より他へと移ってしまった喪失感を覚えた。
「姐さん!」
シルフーに抱きかかえられ、宙に浮き出したアーリアを見上げ、アルは自分だけ逃げ出すのだろうと思った。
だが、ジミーは確信と共に羨望の眼差しで見上げていた。
「おいおい。あんまり無茶すんなよ・・・」
苦笑いで見送るグルドに、やれやれと肩をすくめるロイ。
「ちょ~っと行って来る!」
そんなみんなへ、にこやかに手を振ると、アーリアはシルフーに手で合図を送る。
「リョーカイリョーカい」
途端に空気袋を大きく膨らませたシルフーが、勢い後方へと気流を噴出すと、二人の身体は風を巻いて飛んで行く。
飛んで行く。
飛んで行く。
そして、もうすぐ騒ぎの起きてる門へと差し掛かると、シルフーはその触腕を解き、アーリアの身体を空中へと放り出す。
その下には、何十人という農民が手に手に長柄の鋤や鍬、武器になるものを持って集まり、その向こうではけたたましい嘶きと、何か重い物を門扉へ叩きつけている音が響いていた。
思いっ切り手足を伸ばしたアーリアは、空中で高らかに呪文を唱えた。
見る間に近付く眼下の大地。そこにひしめく醜くも残忍なバケモノ達の群は、切り出したであろう大きな木を数十匹で勢い良く村の門扉に叩き付けている真っ最中だ。
その上に、アーリアの巨体が舞い降りた。文字通り、でっかくなったアーリアがだ。
ワッと離れるオーク鬼達は、突然に舞い降りてきた二階家よりもでっかくなったアーリアに、地響き高くも自分達の破城槌を奪われ、大地に叩きつけられると、唖然として見上げるしかなかった。
百匹近くのオーク鬼に囲まれ、アーリアもにんまり。スッと大きく息を吸った。
一瞬の沈黙。
戸惑いと、怯え、恐れ、驚愕・・・
それは村の人間達にとっても同じ事。
「こらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!」
タイミングばっちり。
長年の歌唱で鍛えられたアーリアの喉が、思いっ切りに叱り付ける。
意味の無い凶獣の咆哮とは一味違う。
厚み、重みたっぷりの意味のある音声が、頭の上から叩きつけられたのだ。
次には、百匹近くのオーク鬼達は、地面にひっくり返っていた。
まるで、アーリアを中心に、放射状に。
脳天から叩き付けられた声が、脊髄を突き抜け、四肢の力を奪っていた。びっくりしてしまったのだ。
力の抜けた手足で出来る事は、最早あがく事だけ。
動きを忘れてしまった手足をもたつかせ、一時も早くこの場から逃げ出そうと四苦八苦。
オーク鬼達を突き動かすのは、原体験として叱り飛ばされた時の恐怖。
幼少時の記憶。
更に追い討ちをかける様に、アーリアは逃げ出そうとあがくオーク鬼達に向かって、足を思い切り踏み鳴らしながら高らかに笑い飛ばしてみせた。
揺れる大地に、高らかな笑い声。
逃げ惑うオーク鬼達に、最初は唖然としていた村人達も歓声を上げて喜んだ。
後に、この小さな門は「でっかいアーリア」と呼ばれる様になり、そこにこの名残を残した。アーリアが踏み鳴らした足跡はくぼみとなり、雨水がたまって小さな池となり「でっかいアーリアの池」と呼ばれ、毎年この時期になると、ここで大笑いコンテストが開かれる様になるのだが、それはまた後々の事である。




