第52話『わずかにずれた闇の中で』
明り取りの小さな窓から、祭りの喧騒が遠くに聞こえる。
厚い石組みの牢獄は、重苦しくも自由を奪い、黙殺し、行き着く死へのレールとなる。
ついぞ、新入りの入牢に沸き立った空気も、今は静かだ。
ただ、苦しげな幼い息遣いが、延々と続く。
「うるせえぞこらぁっ!!」
「黙らねぇか、この糞がキ!!」
「さっさと、おっちんじまえやっ!!」
時折、思い出した様に、囚人たちが鉄格子を叩き、罵声を浴びせかけるが、意識朦朧としたジミーには言い返す元気も無い。
冷たい石の寝台に、うつぶせに寝かされた少年の体は、ひきつく様に小さく揺れ、荒い呼吸を、いつ途絶えてもおかしくないくらいに短く繰り返していた。
背中かから全身へ向けて、自分の体で無い別の生き物がへばりつき、カッカカッカと燃えながら命を啜ってる。指を少し動かそうにも、ぱんぱんに膨らんだそれはまるで別の部位の様で、辛うじて震えるだけだった。
薄っすらと開く目には、汗と目やにが気持ち悪く、全てがぼんやりと映った。
失敗したしっぱいっしたしししっぱいしぱしし・・・
死ぬ?
死ししし死ぬ・・・死・・・ししし・・・
短く不連続な思考が、壊れかけた頭の中で何度も浮かんでは繰り返され、無意味に闇へ溶け込んでは戻る。
落ち込んで行く。何も無い世界へ。全ては自分から離れて行く。誰もいない。何も無い。みんないない。僕は一人・・・一人・・・
「助かりたいのかね?」
耳元に響く、声に、ゆっくりと首を、目を、眼球を動かし、見た。
「助かりたいのかね?」
まっくらな暗闇の中、笑顔が張り付いた様な顔がそこにはあった。どこかで見た様な。どこかで会った様な。判らない。判らない。誰だか判らない。
「助かりたいのかね?」
三度、訊かれる問いに、助けてくれるのかと、わずかな希望が胸にともる。
「う・・・」
肺の空気は、短く返事をなさない。
あごと首に力を込めて、やっとの思いで僅かに動かす。頷いているのだと、判って貰いたくて。
「君は助からないよ」
胸を、心を鷲掴みにして握り潰される。
戦慄が、どす黒い染みとなってジミーの心を引き裂いた。それが何なのか理解出来ない。判らない。判らない何かが、ジミーを更に冷たく悲しく刺々しく痛い処へと引きずり込む。
闇に男の嘲笑が高らかに響く。
「死ぬんだ! 君はもう死ぬんだ!!」
世界が笑っている。ジミーの死を笑っている。ジミーの破滅を喜んでいる。
喜んでいるんだ!!
「誰も助けてくれない!! みんな卑怯な裏切り者だ!! お前は、みんなに選ばれた!! いけにえなんだ!! みんな、お前の事を見捨てて、楽しく祭りに興じているぞ!! 最高だろぅ~・・・?」
悲鳴を上げたくても上げられない。
ただ、心はずっと叫びをあげている。何の感情だか理解出来ない、破裂する様な潮流が、闇へ落ち込むのと同じくらいの勢いで、ジミーの心を吹き抜けてゆく。
「いいよ・・・ジミー・・・お前は、最高だ・・・最高の『絶望』だ・・・」
ねっとりとまとわりつく声が、男の喉元から転がる様に漏れいずる。
それは、正に絶望という闇の中にあって、ジミーの魂にぬらぬらとした食指を這わせている様だ。
「最高の『恐怖』・・・」
男の指が、むき出しの青黒い背中を、ぶよぶよに腫れ上がった肉を、まるでその弾力を楽しむかの様に押してゆく。
「一目見た時から・・・お前の輝く魂が、薄汚く穢れて悲鳴をあげる所が見たくて見たくて見たくて見たくて・・・見たくて仕方なかったんだよ、ジミー君」
「僕の願いは叶った・・・」
直接、魂に触れる様な口付け。背中より心臓への。ハートへの。
そこから、何かを舐める様に、啜る様に、なぶる様に、緩やかな流れが・・・
「どっこらしょっと!」
びくり。
男の口は、唇は、まるで闇の結晶であるかに禍々しく濡れたそれは、僅かにジミーの背から離れた。
「あ、ごめんなさ~い! 続けて続けて!」
最高の瞬間を邪魔された。
邪魔された。
邪魔された!
邪魔された!!
張り付いた様な、まるで作り物染みた笑顔が崩れ、男は声の主を、その人間の女を見た。
「何をしている?」
震える唇が、辛うじて冷静を保ち、それだけを訊ねた。
女は、いそいそと上着を脱いでいる。赤い冠頭衣を。
この閉鎖された空間で。
どこから入った?
女は、頭から司祭服を脱ぐと、髪の乱れを直しつつ、器用に畳んだ。
「悪かったわね。大事なところで」
「何をしてると聞いている・・・」
こいつは馬鹿か?
それとも、いっぱしのエクソシストか?
魔の知覚で女を観る。一見、何の力も働いて無い様だが・・・こちらの知覚を阻害してるのか?
「こらこら。貴方、女もOKなタイプ?」
そう言って、胸元を隠す様にウインク。足元に、畳んだ服を置いた。
「何をしてるかと聞かれると。まだお仕事が残ってるから、これ汚す訳にはいかないのよね~」
「服の心配をしている場合かね?」
そして女はゆっくりと左へ歩き出す。服から離れる為に。白い肢体が、闇に残像を残す様に。口元に余裕の笑み。その青い瞳にも恐怖の色は見えない。
「だって、貴方の体液で濡れたら、赤く無くなっちゃう」
「問題無い。濡らすのはお前の血だ!!」
「血を見るのはお好み?」
四つに千切って搾り出す。こんな奴にかまってる暇は無いのだ。その意思の力が、受け止められた。
「貴様、相当高位のエクソシストだな?」
否。
同じ力だと?
全て、同等に相殺・・・詠唱もせず・・・
「その子、明日の朝まで生かしておきたいの」
そんなには待てない。ましてや、待つなどあり得ん!
男は少しだけ同族を相手にする時の様に、力に変速をかけた。
「貴方、それなりに強い魔族ね。どんな奴が、貴方と契約してここへよこしたのかしら?」
「知りたいかね?」
「別に。それに答える気なんて・・・」
「元より、無い!!」
弾ける波動が、次第に炎、冷気、雷と多彩に切り替わってゆく。
次第に圧を上げるのだが、女は表情を苦しげに歪めるどころか、むしろ楽しげに、舞う様に手足を巡らせる。
い~や。こいつは絶対、楽しんでいる!
「馬鹿にしてるのか!!?」
人間相手に、ここまでするのは屈辱だ。
悲鳴を上げて、のたうち回るしか能の無い、下等な存在が!!
「いいえ~。貴方、なかなかいい感じだわ。惜しむらくは、貴方が魔族に、悪魔に生まれた事かしら?」
「何・・・だと・・・?」
スッとあらゆる感情が集約されていく。そして、それは一つとなる。
自分の顔が、今までに無く、正直に、心のままに歪んでいくのが判った。
「ふ・・・ふふふ・・・」
「あら? そんなに貴方のプライドを傷つけたかしら?」
その言葉。その表情。実に薄い感情だ。それが無性に腹立たしい。
「人間風情が・・・短い命の虫けらが・・・刈り取られる事でしか意味の無い存在が・・・」
踏み潰すのは当然。故に、意味の無い殺戮は下等な存在の証。如何に穢れ無き魂を堕落させ、失意と絶望の中に引きずり込むかが喜びであり価値を生む。
延々と続けてきた営みを、下等生物如きに馬鹿にされ、ただで済ませる訳にはいかない。
ゆっくりとした詠唱。
その一言一言に、隠された秘密の響きがある。一つの音に、数十数百、いやそれ以上の・・・
「空間ごと消してやる」
その表層の響きにすら、禍々しくも事象を変動させる意味がある。
より鋭く。より激しく。より鮮烈に。
闇にあって闇に溶け込む闇の刃。
「お前に、これが見えるか?」
「だからさあ」
楽しげに、こちらを見ていた女の声が、不意に耳元でささやかれた。とても楽しそうに。
「悪魔に生まれた事が、惜しかったわね」
左胸の脇から、女の腕が目の前へ突き抜けていた。
「が? ぼっ・・・」
口から体液が噴出し、闇色に染まる女の右腕を更に濡らす。
その手刀の先、四本の指に摘まれる様に、それはあった。
薄っすらと暗緑色に輝くそれは、呼吸する様にゆったりと明滅している。
「なかなか綺麗じゃない。貴方の心臓」
自分で見るのは初めてだった。
だが、明らかにそれは己の魔力の源泉であり中核。元に戻ろうと、体組織が蠢くのだが、女の腕が器用に邪魔をする。
下手をすれば握りつぶされる。それは、己の体を守っていた幾つかのフィールドが、あっさりと貫かれた事からも疑い様の無い事実。
「ほ~ら、見て御覧なさい。綺麗に滴ってるでしょう?」
「ば、馬鹿な・・・」
痛みより、存在が引き裂かれた驚愕の方が大きかった。
目の前で、まるでおもちゃのボールの様に弄ばれる己の存在。
「これが貴方の『恐怖』・・・」
おぞましい程に、ぞくりと響く女の声。
心臓よりぷつぷつと滴り出した、深い緑色の液体は、明らかに己の体液とは違ってみえた。
「これが貴方の『絶望』・・・」
既に女の肉体は腕の中にあり、男の肉体もまた女の腕の中。
見ている前で、ゆっくりとそれは女の口元へと運ばれてゆく。
闇の中にあって、異様に赤く見える、女の唇へと。
「や、止めろ・・・」
ちらりと覗いた赤い舌が、そっと触れた。
触れられてしまった・・・
ねっとりとした舌使いで、奪われていく己の衝動。
その全てが、女の舌先に読み取られてしまう感覚に、あらゆる衝動が鬩ぎ合い、ぶつかり、拒絶するのだが。
「『お前』があの子にしようとした事を、されているだけ・・・」
睦みあう男女の様に、目線を絡ませる二人。
妖しい色彩を帯びた女のまなこが、大きく揺れる度に、己が侵略されていく。
「それなのに、『お前』は嫌がるの?」
今や女の白かった体は、悪魔の黒い体液に濡れ、ぬらぬらと黒く輝いていた。
にいっと笑う。
食われると思った。
「な~んちゃって」
小さく甘噛みした悪魔の心臓から、女は楽しげに口を離して見せた。
そして、それを相手の胸の中へと戻しつつゆっくり腕を引き抜くと、指先に残る悪魔の情液を、相手によく見える様にこれでもかと舐めとっていく。
「こ・・・この次は・・・」
「この次は無いわよ」
引きずる様に離れる相手に、女はきっぱりと言い放った。
「この次に会ったら、『お前』の全てを吸い尽くしてやろう」
「う・・・」
ぞわり。消失の予感が、全身を駆け抜けた。
「この次に会ったら、『お前』の全ては私のもの・・・」
何という甘美な眼差しだろう。
「組み伏せて、欠片も残さず奪い尽くす・・・」
「こ、この悪魔め・・・」
肉体の再生を終え、よろける様に立ち上がる。
思わず口にした言葉に、己も相手の女も、一瞬だがきょとんとした顔になる。
「あ~っはっはっはっはっは!! 『お前』やっぱりなかなか良いわぁ~!!」
「ふざけるな!!」
高らかに嘲笑する女に、その隙を目掛けて残像を放つ。
たちまち、4つに分かれた男の像は、四方に飛ぶ。
そして、笑いながら女の姿も、幾つにも分かれてそれを追う。
交錯する影と影。
火花を散らし、対消滅。
そして、横たわるジミーの少し手前で、男は再度女に踏みつけにされていた。
「だからさぁ~、消耗した今の『お前』じゃ相手にならないって。元々、肉弾戦の方が本職だしね~」
「こ、殺せっ!! 今、すぐに!!」
「簡単に諦めんなよ。それとも、こうして欲しかったのかなぁ~?」
ゆっくりと、女は足の裏で、男の体組織の一つ一つを確かめる様に踏みしめる。
「あらあら? 患者さん、少しお酒が過ぎるんじゃありませんかぁ~?」
「・・・」
「もしも~し!?」
「・・・」
「おっきいの、一発きめとくぅ~?」
「・・・」
すっかり押し黙ってしまった相手に、女はちょっと困った様な表情を浮かべ、そっと足を離した。
「だからさ。『お前』は悪魔特有の優れた才能に、ちょっとばかり努力をする事を怠った訳だよ。磨けばまだまだ強くなるよ~。もしかしたら、私なんか小指でちょいなんて程の大悪魔にだってなれるかも知れない。だからさ・・・」
慰める様に、女はそっと悪魔のごわごわとした右肩に手を置く。
それを悪魔は左手で払った。
「冗談じゃない・・・人間風情が舐めるなよ・・・」
ゆっくりと立ち上がった悪魔は、背中を向けたまま歩き出す。
「冗談じゃない・・・そんな事は最初から判ってるのさ・・・本気で努力するなんて馬鹿馬鹿しいだけの事・・・」
少しずつ遠ざかる歩みが、ぴたりと止まる。
「この次に会ったら、お前の心臓を弄んでやる・・・」
「・・・そう・・・だね・・・」
口元を緩め、何とも照れくさそうに頬を掻く女。
悪魔の背に、大きな翼が開くと同時にそれは閉じ、その空間ごと立ち去って行った。
「ま~た、やっちゃったかなぁ~・・・」
いたずらを咎められた子供の様に、何ともいえない表情を浮かべる女は、さっと手を一振り。
周囲は元の空間へと、狭い牢屋の中へと戻っていた。
細やかな霧をまとい、次には風で乾かすと、さっぱりした気分でガルパニの真っ赤な祭司服に袖を通した。
そして、傍らの寝台に寝ている少年を覗き込む。
「良かった。まだ息あるよね?」
小さく頷くジミー。
「それでは君に質問があります。選択肢は二つ。心して返答する様に」
じっと少年の表情を見つめ、女司祭は小さく頷いた。
「君はもうすぐ死ぬでしょう。ですが、このまま死んで、次の転生の輪廻に戻るという事が出来ます。ですが、次に生まれて来る先が人間か、動物か、植物か、虫かなめくじか、それは判りません。ですが、転生を選ぶ事が出来ます。今の悪魔君に魂を啜られて地獄に堕ちていたらそうは行かなかった訳ですが、この天使の如き『美しい』ガルパニの使徒のお陰でそれはまぬがれた訳です。良かったですねぇ~♪」
話の後半は、すごく面白い冗談に聞こえ、ジミーは体力も少ないくせに、思わず笑いそうになってなんとか顔を歪めた。
「もう一つの選択肢は『ロード(君主)』を目指す事。これは普通の人生ではありません。英雄を超え、賢者を超え、人の身に許された究極の存在になる事・・・と言っても、そこが終点という訳ではありませんが、ただ生きているというだけでは到達しようの無い域にあります。もし君がそれを望むというのであれば、その傷を癒し、新たな運命への歩みを約束しよう。例え万が一の可能性だとしても、己の運命へ立ち向かう者に、戦う者に、大霊ガルパニは加護を惜しまないでしょう」
ジミーには、元より選択肢は一つだった。
返答を口にしようとすると、その女司祭は身を屈めて、ジミーの口元に耳を運んできた。
たった今、血みどろの戦いを悪魔と繰り広げた筈なのに、とても心地よい香草の香りが、ジミーの鼻腔いっぱいに広がった。
「宜しい。それでは、君には私からも試練を与えよう」
あっけらかんとした女司祭の声に、ジミーはなんだかとても嫌な予感がした。
「君の魂に私の名を刻もう。犬のマーキングみたいなものだ。なあ~に、大した意味は無い。ただ、私を知る『存在』は、私の縁者である君に『試練』を与えて来るだろう。さっきの悪魔君みたいにね」
え・・・
「それにどう対処するのか、それ自体が試練だ。だが、大きな試練には大きな経験という報酬がつく。見事、勝ち続け、『ロード』となり、更にはその先へと進むが良い。もしかしたら・・・いや、その先は言わないでおこう」
ええ~・・・?
問答無用に、女司祭の腕がジミーの肉体深くに差し込まれた。
心臓の辺り。
何か一瞬だけ弾けた様な。
それからゆっくりと引き抜かれるのだが、痛みはもう感じなかった。
もう、ジミーの肉体は痛みを感じる事が出来ない状態にあった。
荘厳な祈りの言葉。
「大霊イーヴォよ、この者の肉体を、再びあるべき調和の姿に・・・」
十字に交錯した女祭司の腕から、白い光のシャワーが激しくジミーの肉体を打った。
一瞬、のたうつ様な背中の痛みが、再度感じられたかと思ったら、ジミーは石の寝台の上に、うつぶせに横たわっていた。
体が動く。
確かめる様に起き上がったジミーは、石の寝台ですっかり冷え切った体に、思わずくしゃみした。
そっと辺りを見渡す。
その牢屋には、ジミー以外の姿は無かった。ただ、あの女司祭の祭司服に焚き染められていた、ハーブの残り香が感じられた。




