第33話『心の距離』
じゃりじゃりとした岩塩を少々、冷たい水で一気に押し流すと、甘みのある余韻が口に残る。
これが最後の一口とアーリアは決めていた。
「ふぅ~・・・」
飲み口の滑らかな、冷たい感触のくすんだ銅のカップを傍らに置いて一呼吸。
最後に入れたばかりの白い一枚が、赤々とした光の中で徐々に黒ずんでいくのを、ひりひりしょぼしょぼした目で見つめながら、顔に浮かび上がる汗を、白く塩が吹いた冠頭衣のごわごわとした端でぬぐった。
冷たい風が、紫がかった空の下を走り、黒く雨ざらしにくすんだ屋根を踏み鳴らしてゆく。そんな空々しい響きも、この日だけは主役となりえない。
朝方、教会の鐘の音と共に街の門が開くと、外で待ち構えていた人々が、どっと街中へ雪崩れ込み、祭りの準備に浮き足立った街の空気を雑然と塗り替えて行った。
「はいっ! これが最後ねっ!」
長柄のへらで釜の中からサッと掬い出すと、今か今かと待ち構えていた籠の中へ放り込む。
細く白い腕を精一杯広げて籠を持つ二人の少年は、それが飛び込むのをがらんどうになった無表情な瞳で確認すると、半開きの口からため息みたいに意味不明の返事をもらし、厨房から巡礼者で込み合った食堂の広間へと、よたよた危なっかしい足取りで歩き出す。
一瞬、頭の中が真っ白になった気分でそれを眺めていたアーリアは、思い出した様に駆け寄ろうとして、思わず小麦粉で白い作業台に手を突いてしまった。
「あ、あれ?」
ひざがふわふわして、力が入らなかった。
「え~・・・?」
老人が杖を突く様によろよろと立ち、結局は冷たい床石の誘惑に負けて、ずるずるその場に座り込んでみた。
「お~・・・」
お尻から脚にかけ、じわじわっと広がる冷たい悦楽に長々とため息。口元を緩め、人気の去った厨房で一人、目を細め、口元を緩めてしまう。
隣接する食堂からは、雑然とした人の気配が届くのだが、不可思議な距離感を持って、アーリアを隔絶させているかに思えた。古びた、間違いなくアーリアよりもず~んと重いだろう木製の作業台が、視覚的にも戸口から向こうに存在するだろうそれから護ってくれている様にも思える安心感があった。
「あら? お疲れ~♪」
「わわっ!?」
そんなアーリアの幻想を見事に打ち砕き、例の女主教さんが空気を割って入って来た。
それと感じさせない軽やかな足音。ざっと体内を流れた血の音に、慌てて立ち上がろうとするアーリアは、無様に脚を動かすだけだ。
「あ? 何? 驚かせちゃった? ごめんね~」
そう言って微笑みながら、女主教は魔法の釜の前に立って、その火を落とす。
それまで吹き出していた熱気が不意に感じられなくなり、汗ばんだ体がスッと冷え込む気配を覚えた。
「疲れちゃった? なんだったら、そのまま休んでていいから~」
「いえ・・・大丈夫・・・です・・・」
辛うじて立ち上がると、目の前で自分の数倍の速度で片づけを始めた女主教の動きに、邪魔にならない様にと自分が手にしていた長柄のへらを水槽につけ、たわしでこすり、水を切って、あった場所へ戻す。
「あとは・・・」
何かする事は無いかと振り向くと、どうやら手伝える事はもう無いらしいと、直感が告げていた。
「あの~・・・?」
「・・・」
振り向くと、そこには女主教が腕を組んで、こっちをじっと睨んでいた。
床の上を何匹もの小人達が走っていく。
この教会に住む精霊が、床に落ちた小麦粉やらを拾っていく。そんな話は聞いた事があったけど、こんなにはっきり見たのは初めてだ。
が、そんな事はお構いなしに、目の前で仁王立ちに立つ女主教からは、まるでアーリアの肉体を細切れにしても飽き足らない程の目線が照射されている。正直びびった。理由も無しに本能で生命の危険を感じた。やばい! やば過ぎる! もしかしたら、次のスープの具にされてしまうのでは!!?
不意に彼女の前で十字にクロスされていた腕が解かれ、ゆっくりと、それでいて確実に、逃れる術の無い圧倒的な気配と共に、アーリアに向かって突き出され・・・
ぽん。
両肩に手を置かれた。
「あなた、お祭りに来たのよね?」
「・・・は・・・はい・・・」
それはあまりにも普通の質問だった。
通常ならば、ミノタウルスやキメラ程度なら、素手で屠る事もあるだろう女主教の双の掌が、その気配を露にしつつ置かれたのだ。脱出不可能。風前の灯火。さらば涙と言おう。吹き抜ける様に、人生の儚さを体感させられた。
「リュートを演奏するんでしょう?」
「はい・・・でも・・・どうして?」
すっと両の掌を持ち上げられ、くすぐったくもたこの部分を指でなぞられた。
「手を見れば判るわよ」
屈託の無い笑顔がそこにはあった。
「私にも、片手にメイス、片手にリュートって時代があったから」
どんな時代だろう?
そんな疑問が脳裏を過ぎる。
「楽器はあるの? 服は矢を抜く時に破いちゃったけど・・・」
言われてみて、ハッとした。
心配気に表情を見られているのは判っていたけれど、ついつい本音が出てしまう。
「楽器は多分・・・でも、服は一張羅だったから・・・」
「そっか・・・そっか・・・」
アーリアの意気消沈とした答えを吟味する様に、女主教は少し芝居がかった仕草でうなずいて見せた。
それから、細目を開けてアーリアの目を、少し楽しそうに覗き込んだ。
「そ~いう事なら、『お姉さん』にま~あかせなさあ~い♪」
いえ、結構です。口はそう動いたが、声にならない。嫌な予感がびんびんする。
◇
「この部屋でいいわね!」
ぐいぐい腕を引かれて、多分教会の人が寝泊りしているだろう誰もいない殺風景な小部屋に引きずり込まれると、ガチャリと扉を閉められた。
「どうして閉めるんですか?」
「別に~」
如何にも楽しそうな女主教は、ゆっくりとした緩慢な動きで振り向くと、アーリアに右手を差し出した。
「では、まずはその服を脱ぎなさい」
「ええっ!?」
それはちょっと恥ずかしい。というか、傍らには硬そうな寝台があって、小さな机があって、ほかに何も無くて・・・
「え? ええっ!?」
思わず前で腕を組む様に、着ている服を抱きしめ、硬そうな寝台と小さな机と、窓と扉と女主教をぐるぐると見回して。
「えええっ!?」
「ま、別にそのままでも良いけど」
それを楽しんでる風情の女主教は、アーリアへ突き出していたその指先から、勢い良く霧を噴出させた。
「うわっぷ!」
開いた口から喉の奥まで吹き込む様な濃密な霧に、みるみる濡れそぼるアーリアは、不意にそれが止むと目をしばたかせて咳き込んだ。
「さっぱりしたでしょ?」
ぽたぽたと水が滴るアーリアに、女主教はぽ~んと木綿のタオルを投げかけた。
あれ? あったっけ?
受け取ってみて、頭の中に?マークが一つ。
「そのままじゃ、風邪ひくわよ」
「はい・・・」
何か変だ。これも魔法?
そんな戸惑いもお構い無しに、頭からひょいと服を脱がされて、慌てて体を拭いていると、傍らから今度は少し暖かな風が吹き出して、アーリアの髪を乾かし始めた。無論、その風は女主教の掌から吹き出しているのだ。
「次はこれを着る事」
そう言われて、傍らの机に投げ出された物を見て、アーリアは少し凍りついた。
何、これ?
黒く、薄くて、ひらひらした・・・
「もしかして、つけ方判らない?」
スッと耳元でささやかれ、かなりどぎまぎ。
続いて心地よい香りの香油が髪にすり込まれると、手櫛からふわりと香りが膨らんで、頭皮から鼻腔にかけて何とも言えない刺激が思考を奪っていく。
辛うじて繋ぎ止めた人間としての尊厳が、思考停止したい欲望を押しとどめ、アーリアに人の言葉を口にさせしめた。
「これは・・・『何』ですか?」
その返事とばかりに、さらにその上に漆黒の衣装がふわりと、まるで重さなど存在しないかに重ねられる。
「ぐふっ!?」
ボディブローの様に畳み込まれる現実に、女主教は更に説明を加えた。
「そりゃあね。いつ、どこぞの魔王から『死のダンスを踊りに来ないか』ってお誘いを受けても、レディとしての尊厳を維持するだけの備えはしておきたいものよ。鎧がちゃがちゃって時代もあったけれど、ほら! これなら、頭から返り血を浴びても目立たないでしょう!?」
嬉々として手に取り、アーリアの目の前で広げて見せるそれは、どこの魔界の女王様ですかと言わんばかりの、こんなちっぽけな街には不似合いな、えらく突き抜けた衣装だった。
実験台ですか? 罰ゲームですか? それとも・・・
「だ~いじょうぶ! 動き易い様にコルセットは使わないから、お腹から思いっきり声が出せるわよ!」
「そういう問題じゃないです! これって・・・これって、どーいう!?」
「別に魔法のアイテムって訳じゃないから、気にしないでいいわよ。私もね、作ってから随分経つから、この際新しいのを作る良い機会だと思ったのよ。だから、気にしないで、着てってね」
「もっと普通のは無いんですか!?」
「お祭りに来て普通だなんて、面白い事を言うのね」
「面白いを通り越して、どこかに幽閉されちゃいますよ!」
「やだ。無礼講なんだから、この程度じゃ物陰に引きずり込まれて襲われる程度で済むわよ」
「襲われたくありませんって!」
「お友達が護ってくれるんでしょう?」
「いや、そこまでしてくれるかどうか・・・」
ぐっと言葉に詰まるが、真面目に考えると馬鹿馬鹿しいところまで話が平行線を辿るものの、物理的な侵略の魔の手は着実に進行し、抵抗するアーリアの防衛線はことごとく押し切られ、ど~いう訳かその破壊的な漆黒の衣装は見事に装着されつつあった。
「って!?」
「は~い、完成~♪」
「とほほ~・・・」
「似合ってるわよ♪」
そこには、見事なまでに漆黒のドレスに包まれた、半死半生の体を為すアーリアが呆然自失といった表情で佇んでいた。
「じゃあ、次はそこに座って」
「ううう・・・誰か助けて・・・」
「大丈夫大丈夫」
机の前に座らされると、今度はそこにどんと化粧箱が。
「あの~・・・」
「何?」
そこから次々と取り出される様々な道具に呆然としながらも、完全におもちゃにされてる感のアーリアは色々と諦めた。も~駄目だ・・・
「さっきから、どこから取り出してるんです? これ・・・」
「ああ、あちこちかな?」
「やっぱり魔法なんですか?」
「ええ、そうよ」
パッと目の前に三面鏡が開かれ、これまで見た事も無い程に、黒を基調にメイクアップされてる自分の驚いた顔を見た。
「心の魔法ね。大切な人って、遠くに居ても思い出せばその人を感じる事って出来るでしょう?」
「え・・・」
その例えは、アーリアの胸の中で、いびつに響いてあいまいな像を描いた。
「思い出してみれば、距離なんか関係無くその人を感じる事が出来る。大切な物もそう。だから、距離に関係無く、思い浮かべた物を感じ、ここに『ある』とすれば・・・」
女主教が、僅かに意味不明な言葉を口にし、掌を返すと、そこにはかなり年季のいった、あめ色の小さな木彫りの人形があった。それを、目を細めて微笑み、眺めた。
「懐かしいな・・・物は大概はっきりとした意思が無いから、こちらの場所に事象を引き寄せるのは簡単なんだけど、はっきりとした意思のある生き物を引き寄せるには、結構ホネかな? 召喚師や降霊術師、死霊使いの類になると、もっと色々ある。何となく判るかな~?」
なんか物騒な言葉も漏れ聞きながら、何となく判った様な気がした。
黙って頷いてると、女主教は少し意地悪な笑みを浮かべた。
「色々あるって言ったけれど、その一つに『縁』ってものがあってね。これが色々と面白い形で事象に現れる事があるのよ」
「へぇ~・・・」
その笑みの意味を図りかね、軽い相槌を打つアーリアに、女主教は、相も変らぬ笑みで更に続けた。
「昨夜のグルド君だっけ? 彼ね、あなたの心を盗み見たのに気付いたかしら? 直接あなたのハートに手を触れ、あなたの心を盗み読んだ。あれも立派な心の魔法でね。そういう事をされると、おかしな『縁』って奴が生まれる事があるのよね」
「へえええええええ~~~~~何が言いたいんですか?」
顔が引きつった。
「良縁、悪縁、腐れ縁、引きずられる事もあるから、気を付けてね」
「あの~・・・どうしてそんなに、楽しそうに言うんです!? その縁って奴、すっぱり切れないんですか!?」
その女主教は、無責任にもこう述べた。
「いいんじゃない? まだ、若いんだから」




