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深淵の符呪師 ヨグソトースの落とし子  作者: ケロン藤野


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第29話 よくある降魔戦争の話

「戦争が始まった頃な。」


沙織は空を見上げ、遠い昔を思い出すように目を細めた。


「うち、東京で子役とモデルやっとったんよ。」


「ちょっとだけ売れとってな。叔父さん夫婦の家から撮影や仕事に通っとった。」


「その頃は、鳥取の実家ともちゃんと連絡が取れとったんや。」


「父ちゃんも母ちゃんも、『こっちは大丈夫や。東京で頑張れ』って言うてくれとった。」


「……せやけど。」


その表情から笑みが消える。


「九州や四国に魚どもと邪神眷属が上陸してから、全部終わった。」


「戦争が激しゅうなって、実家とも連絡が取れんようになった。」


「毎日、不安で不安でたまらへんかった。」


シュークリームを見つめながら、小さく息を吐く。


「家族のところへ帰りたい。」


「その一心で、うちは民間防衛隊に志願した。」


「奈良防衛線が、うちの戦争の始まりや。」


誰も口を挟まない。


ヘルハウンド隊の隊員たちは、隊長の過去を静かに聞いていた。


「何年も戦って……やっと鳥取へ戻れた。」


「……でも、家族は誰もおらへんかった。」


沙織は静かに続ける。


「生き残っとった姉ちゃんだけ見つかった。」


「会いに行ったら……手足を切り落とされて、魚人の苗床にされとった。」


「最後に少しだけ正気を取り戻してな。」


「『沙織……殺して』って。」


「せやから、九ミリ拳銃で心臓を撃ち抜いた。」

「顔は華麗なまんまにしておいた。」


一度目を閉じる。


「母ちゃんも苗床にされて三人産まされて死んだらしい。」


「国防軍の工兵が遺体を見つけてくれてな。」


「虫に食われたミイラみたいになっとった。」


「DNA簡易鑑定で九十九・八パーセント一致。」


「母ちゃんやった。」


静かに息を吐く。


「親父と弟は九州要塞建設に連れて行かれて強制労働。」


「親父は餓死。」


「弟だけは生きとった。」


「……親父を食うて、生き延びたそうや。」


「親父の頭蓋骨を渡されてな。」


少し間を置き、さらに続ける。


「……でも、弟も心が壊れてもうた。」


「収容先の難民キャンプで首を括って死んだわ。」


沙織は包み紙を丸め、クーラーボックスの上へ置いた。


「結局、家族はみんな死んでもうた。」


寂しそうに笑ったあと、その表情は少しだけ柔らかくなる。


「……せやけどな。」


「今は部隊のみんながおる。」


「せやから、うちはもう大丈夫や。」


隊員たちは何も言わない。


それでも、その場にいる誰もが隊長を家族のように慕っていることが伝わってきた。


沙織は二十ミリ・マウザー機関砲の砲身を軽く叩き、魚人自治領Bゾーンのゲートへ視線を向けた。


「……あー。」


「でも、この二十ミリ・マウザーを、あのゲートの魚人どもに撃ち込みたい気分にはなるわ。」


副官の橋本凛は即座に答えた。


「駄目です。」


その声には迷いがなかった。


「彼らは、お姉様と同じような悲劇を経験した人々から生まれた者たちです。」


「国と東京、そして八王子への忠誠を誓い、その誓約によって生きることを許されています。」


橋本の眼差しが鋭くなる。


「ですが、その誓いを裏切る者が現れたなら。」


「この橋本凛が、誰よりも先に斬り込みます。」


その言葉に、ヘルハウンド隊員たちは静かに頷いた。


沙織は肩をすくめて笑う。


「橋本ちゃん、こわーい。」


「さすがヘルハウンドの鬼の副長やわ。」


橋本は真顔のまま答えた。


「隊長の暴走を止めるのも、副官の仕事です。」


その一言に車内の隊員たちから小さな笑いが漏れる。


沙織も吹き出し、残ったシュークリームを頬張った。


「はいはい。」


「今日はシュークリームだけ食べとくわ。」

その和やかな空気を破るように、ゲート脇の無線機から短い呼び出し音が鳴った。


「こちら自治警備隊。」


「定例物資搬入車両一台、入域許可を申請します。」


橋本は受話器を取り上げ、淡々と応答する。


「こちら八王子軍警、ヘルハウンド隊。」


「車両番号、積載品目、乗員を確認します。」


無線越しに手際よくやり取りが進む。


沙織はシュークリームの最後の一口を頬張りながら、その様子を眺めていた。


「ほんま、橋本ちゃんは真面目やなぁ。」


「隊長が適当すぎるだけです。」


「ひどっ。」


隊員たちから小さな笑いが漏れる。


橋本は書類を確認すると、ゲート警備の魚人隊長へ向かって敬礼した。


魚人隊長も同じように敬礼を返す。


互いの間に笑顔はない。


しかし、敵意もない。


そこにあるのは、長い戦争を終えた者同士の緊張と信頼だけだった。


二郎はその光景を遠くから眺め、小さく呟く。


「魚人と軍警が普通に敬礼し合ってる……。」


『降魔戦争が終わって二十年。』


『血で血を洗う時代は終わったということじゃ。』


ダニッジが静かに答える。


『もちろん、全員がそうではない。』


『邪神を崇める過激派もおれば、人間を憎み続ける者もおる。』


『じゃが、この自治領で暮らす魚人は違う。』


『国へ忠誠を誓い、法を守ることで生きる道を選んだ者たちじゃ。』


二郎は改めてゲートを見つめた。


フェンスの向こうでは、魚人の親子が買い物袋を提げて歩いている。


学校帰りらしい子どもたちが笑いながら走り回り、露店では魚人の商人が威勢よく客を呼び込んでいた。


戦争を知らない世代が、当たり前の日常を送っている。


「……平和なんだな。」


『いや。』


ダニッジは静かに否定した。


『平和ではない。』


『平和を守り続けておる者がおるから、平和に見えるのじゃ。』


その言葉に、二郎はもう一度ヘルハウンド隊へ目を向ける。


二十ミリ・マウザー機関砲。


重装甲車。


巨大な機動装甲歩兵。


そして、シュークリームを頬張りながら笑う柏木沙織。


彼女たちは戦争を忘れたのではない。


戦争を知っているからこそ、二度と繰り返させないために、この国境を守り続けているのだった。

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