第六話 契約書は厨房にも効きます
ロッシュは、いつもの穏やかな笑みを浮かべて戻ってきた。
ただし、その後ろに立つ料理長と倉庫番は、まったく笑っていなかった。
料理長エダンは四十代半ばの大柄な男で、白い料理帽を胸に抱えている。頬はこけ、目の下には濃い隈があった。大きな手は荒れていて、指の節に細かな火傷の跡がある。
倉庫番のトマは、まだ二十歳を少し過ぎたくらいだろう。帳簿箱を抱えたまま、部屋の端で固まっていた。
リーゼロッテは三人を見比べてから、机の上の食材納入契約書を軽く叩いた。
「お呼び立てして申し訳ありません。直近三か月の食材納入について確認します」
エダンがぎょっとした。
「奥さま、厨房に不手際がありましたでしょうか」
「不手際があったかどうかを確認するための監査です。最初に申し上げますが、私は怒る相手を間違えるつもりはありません」
その言葉に、エダンの肩がわずかに下がった。
ロッシュがすかさず口を挟む。
「奥さま。厨房は朝食の支度で忙しい時間でございます。確認であれば私が」
「契約書ではなく、実際に届いた食材について聞きたいのです。ロッシュ、あなたは厨房で毎朝鍋を見ているのですか」
「それは料理長の仕事でございます」
「では料理長に聞きます」
ロッシュの笑みが少し薄くなる。
リーゼロッテは食材契約書の一枚をエダンへ向けた。
「ハルマン商会から、今月は小麦二十袋、干し肉十五樽、根菜六箱、乳製品十二箱が納入されたことになっています。間違いありませんか」
エダンは書面を見た瞬間、顔色を変えた。
「それは、届いておりません」
「実際には?」
「小麦は八袋。干し肉は五樽。根菜は、傷んだものが三箱。乳製品は四箱でした」
「品質は」
「正直に申し上げて、悪いです。特に干し肉は塩が強すぎ、乳製品は届いた時点で酸味が出ていることがあります」
トマが小さく頷いた。
ロッシュが低い声を出す。
「エダン。納入時の不足は都度報告するよう命じていたはずだ」
「報告いたしました」
「いつ」
「毎週、家令室へ」
部屋の空気が張りつめた。
トマが震える手で帳簿箱を抱き直す。
リーゼロッテは彼へ目を向けた。
「トマ。あなたは納入品を検品していますか」
「はい。数と状態を、倉庫台帳に」
「その台帳を見せてください」
トマはロッシュを見た。
ロッシュは何も言わない。
沈黙が、命令よりも重いことがある。
リーゼロッテは机に置かれた白い結婚契約書の控えを開いた。
「昨日締結した契約第十二条。公爵夫人は、生活、家政、納入、雇用、医療契約のうち、自己の責任または生活に影響するものについて閲覧および監査できる。食材納入は私の生活に影響します」
ロッシュがゆっくり彼女を見た。
「トマ」
彼の声は柔らかい。
けれどトマはびくりとした。
「奥さまへ、台帳を」
トマが差し出した倉庫台帳は、擦り切れた革表紙の小さな帳面だった。
リーゼロッテはページを開く。
きっちりした字で、日付、品目、納入数量、状態、受領者が記されている。数字は契約書と合わない。むしろエダンの証言とよく一致していた。
「丁寧な記録です」
トマの目が丸くなった。
褒められるとは思っていなかったのだろう。
「ありがとうございます」
「この記録は誰かに提出していますか」
「毎週、写しを家令室へ」
リーゼロッテは顔を上げた。
「ロッシュ。家令室に提出された写しをお願いします」
「奥さま、古い紙束ですので探すのに」
「古いとは申し上げていません。今月分です」
ロッシュは一拍置いて頭を下げた。
「確認いたします」
逃がすべきではない。
そう思ったが、今ここでロッシュを追い詰めすぎれば、台帳そのものが消える可能性がある。リーゼロッテは追撃を飲み込んだ。
前世の記憶がささやく。
証拠保全が先。
「トマ。この台帳の写しを、今ここで作れますか」
「はい」
「ミラ、白紙とインクを。エダン、厨房に残っている食材の一覧を作ってください。可能であれば、状態も」
「承知しました」
エダンの声に、少しだけ力が戻った。
ロッシュが言う。
「奥さま。そこまでなさらずとも、ハルマン商会へ確認を」
「もちろん確認します」
リーゼロッテは契約書の解除条項に指を置いた。
「ですが、確認とは『届いていませんよね』と尋ねることではありません。契約上の通知を出すことです」
「通知」
「納入数量および品質の契約不適合について、即日で書面通知します。三日以内に納入記録、配送記録、検品立会人の署名、価格算定根拠を提出。提出がない場合は即時解除および過払い分返還請求」
トマがぽかんとした。
エダンは少しだけ口元を押さえた。笑いをこらえているようにも見える。
ロッシュだけが、まばたきもせずリーゼロッテを見ていた。
「奥さまは、まるで契約院の審査官のようでいらっしゃいますな」
「光栄です」
皮肉は、受け取らなければただの音である。
リーゼロッテは羽根ペンを取った。
「それから、支払いを一時保留します」
「支払いを?」
「契約不適合の疑いがあるため、今月分の未払い分は保留。すでに支払った分については、返還または次回相殺を求めます」
「ハルマン商会は長年の取引先です。関係を損なえば、食材が止まる恐れが」
「すでに止まりかけています」
部屋が静かになった。
薄いスープ。
硬いパン。
薪を節約する厨房。
それが長年の取引先の成果なら、関係を大切にする価値を見直すべきだ。
リーゼロッテは通知書を書き上げ、最後に公爵夫人として署名した。
まだその名に慣れない。
けれど、使われるだけの名ならいらない。使うための名なら、今は必要だ。
「トマ。この写しを一部、私の部屋に保管します。もう一部は料理長へ。原本はあなたが持っていてください」
「私が、ですか」
「あなたの記録です」
トマの喉が動いた。
「ですが、家令さまが」
「契約上、監査資料の隠滅は公爵家側の契約違反になります」
リーゼロッテはロッシュへ微笑んだ。
「そんなことは起きませんよね」
ロッシュも微笑んだ。
「もちろんでございます」
その笑みは、初めて少しだけ硬かった。




