第七話 未払い賃金は忠誠心で相殺できません
食材契約の次に開いたのは、使用人賃金台帳だった。
リーゼロッテは、最初の一ページ目で眉間を押さえたくなった。
「多い」
思わず呟く。
ミラが横からおそるおそる覗き込んだ。
「人数でございますか」
「いいえ。控除項目です」
基本給。
そこから、制服費、寝具費、食堂使用費、呪い危険負担金、祈祷積立金、屋敷修繕協力金、勤勉不足罰金、遅刻罰金、礼儀指導費。
差し引き後の支給額は、基本給の半分以下になっている者が多い。
ひどいものでは、支給額が銀貨数枚しかない。
「ミラ、あなたの賃金は月銀貨二十枚で合っていますか」
ミラは困ったように手を握った。
「帳簿上は、そうなっていると思います」
「実際に受け取っているのは」
「先月は銀貨六枚でした」
リーゼロッテは、そっとペンを置いた。
怒りでペン先を折りそうになったからだ。
「理由は」
「妹の薬代を前借りした分がありまして。それと、呪いの屋敷で働く者は神殿への祈祷金を」
「神殿への祈祷は任意ですか」
「任意と聞いております」
「断ったことは」
ミラは首を横に振った。
「断れば、屋敷に災いを招くと言われました」
任意とは何か。
前世でも何度か見た言葉だ。
任意参加の懇親会。
任意提出の休日課題。
任意と言いながら、断れば評価が下がるもの。
リーゼロッテは静かに息を吐いた。
「ほかの使用人も同じですか」
ミラは答えに迷った。
リーゼロッテは無理に聞かなかった。代わりに、賃金台帳の受領印欄を確認する。
ミラの名前の横に、受領済みの署名があった。
「ミラ。これはあなたの署名ですか」
ミラは見た瞬間、顔を強張らせた。
「違います」
「では誰が」
「分かりません。私は字が、少ししか書けませんので」
署名欄には、整った筆跡で「ミラ」とある。
字が少ししか書けない人の署名ではない。
リーゼロッテは、別のページをめくった。
料理長エダン。
倉庫番トマ。
庭師。
洗濯係。
下男。
同じ筆跡がいくつも並んでいる。
「これは、賃金支払いの証明になりません」
ミラは青ざめた。
「奥さま、どうか、私が告げ口したことには」
「あなたは告げ口をしていません。私が台帳を読みました」
リーゼロッテは紙を一枚取り出し、筆跡が同じ署名を写し始めた。
証拠は原本だけではない。
原本が奪われたとき、何があったかを示す写しと作成時刻と立会人が必要になる。
「ミラ。お願いがあります」
「はい」
「厨房にいる者、洗濯場にいる者、庭にいる者へ伝えてください。今日の夕方、公爵夫人の監査として、過去三か月の賃金受領額を聞き取ります。名前を出したくない者は、紙に金額だけでもよいと」
ミラが目を見開いた。
「そんなことをすれば、みんな怖がります」
「でしょうね」
リーゼロッテは頷いた。
「だから、最初に私が公爵閣下に話します」
「閣下に」
「ええ。使用人の賃金は公爵家の名誉に関わります。私一人で握ってはいけない話です」
ミラは、信じられないものを見るようにリーゼロッテを見た。
「奥さまは、一年で離縁なさるのですよね」
「その予定です」
「それなのに、なぜ」
問いは当然だった。
リーゼロッテは、少し考えた。
なぜ。
離縁する家の使用人など、放っておけばいい。冷めたパンを出されたことに怒って、自分の分だけ上等な食事を用意させればいい。生活費と慰謝料が確保できれば、それで目的は達成できる。
けれど。
「離縁後にこの屋敷を思い出したとき、冷めたパンと未払い賃金しか浮かばないのは、気分が悪いからです」
ミラはぽかんとした。
「気分、ですか」
「ええ。それに、賃金は働いた人のものです。忠誠心や祈祷や屋敷の事情で相殺できません」
リーゼロッテは台帳を閉じた。
「私が一年後にいなくなるとしても、今日働いた人の今日の賃金は消えません」
ミラはしばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げた。
「伝えてまいります」
その日の昼過ぎ、リーゼロッテはアルベルトの執務室へ呼ばれた。
呼ばれた、というより、ロッシュが報告したのだろう。
執務室は屋敷の二階、北側にあった。広い部屋なのに、カーテンは半分閉じられ、暖炉にはやはり小さな火しか入っていない。机の上には領地からの報告書が山になっている。
アルベルトはその奥に座っていた。
昨日より顔色が悪い。
右手の手袋は外されておらず、袖口から黒い蔦の痣が少し覗いている。
「座ってくれ」
「失礼いたします」
リーゼロッテが椅子に座ると、ロッシュが壁際に控えた。
アルベルトは彼女の前に、食材契約の通知書と賃金台帳の写しを置いた。
「朝から、屋敷が騒がしい」
「監査ですので」
「君は離縁準備をしているはずではなかったか」
「はい。離縁後に不利な責任を負わないため、監査しています」
「使用人の賃金まで?」
「公爵夫人の名で働かせている使用人が未払いを受けていれば、私も名誉上の責任を問われる可能性があります」
半分は理屈。
半分は意地。
アルベルトはそれを見抜いたように、じっと彼女を見た。
「無理をするな」
「まだ徹夜はしておりません」
「そういう意味ではない」
低い声だった。
「この屋敷には、触れないほうがいいものが多い。君は一年で出ていく。深入りするほど、危険になる」
それは警告だった。
同時に、心配にも聞こえた。
リーゼロッテは机の上の賃金台帳へ視線を落とす。
「危険の説明義務は、昨日の契約に入れました」
アルベルトが眉を寄せる。
「君は本当に契約書で返してくるな」
「便利ですので」
「便利、か」
彼は疲れたように背もたれへ体を預けた。
「私は長く、屋敷の実務をロッシュに任せてきた。発作が増え、領地へ出ることも減った。報告は受けていたが」
ロッシュが静かに頭を下げる。
「閣下にご負担をかけぬよう、私が処理してまいりました」
「その処理の結果、厨房に食材が届かず、使用人の賃金から不明な控除がされています」
リーゼロッテは言った。
ロッシュは傷ついたような顔をした。
「奥さま。私は公爵家を守るため」
「守るために、誰の賃金を削りましたか」
言葉が少し強くなった。
リーゼロッテは自覚していたが、引かなかった。
「守る対象に使用人は含まれますか。料理長は。倉庫番は。侍女は。彼らが食材も賃金も足りない状態で働くことは、公爵家を守ることですか」
ロッシュの目が細くなった。
アルベルトは黙っている。
けれど、その沈黙はロッシュの味方ではなかった。
「賃金台帳の原本を出せ」
アルベルトが言った。
ロッシュの表情が消えた。
「閣下」
「今すぐだ」
「畏まりました」
ロッシュが部屋を出ていく。
扉が閉まると、アルベルトは小さく咳き込んだ。
リーゼロッテは反射的に立ち上がりかけた。
彼は手を上げて制した。
「近づくな」
「ですが」
「まだ大丈夫だ」
まだ。
その言葉が気になった。
けれど、今聞いても答えは得られないだろう。
アルベルトは息を整え、彼女を見た。
「賃金の未払いが事実なら、支払う」
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
その声には、硬い自責が混じっていた。
「私が知らなかっただけだ」
「知らなかったことと、知った後に放置することは別です」
アルベルトの目が、わずかに揺れた。
「君は」
言いかけて、彼は口を閉じた。
何を言おうとしたのか、リーゼロッテには分からなかった。
ただ、彼が再び賃金台帳の写しへ目を落としたとき、その手は先ほどより強く握られていた。
リーゼロッテには分からないまま、アルベルトは言葉を飲み込んでいた。
自分が見ようとしなかったものを、この人は見ている。
彼女は一年後に逃げるための権利を得たはずだった。生活費と慰謝料を確保し、自分の身だけ守っていれば、それで足りるはずだった。
なのに、冷めたパンを出した使用人の賃金を見ている。
屋敷の帳簿を、自分の逃げ道ではなく、誰かの今日の食事につなげようとしている。
それが責められているようで、ひどく痛い。
同時に、目をそらせなかった。




