第二話 初夜に差し出されたのは花束ではなく契約書でした
グレンヴィル公爵家の馬車は、内側まで黒かった。
座席の革も、窓枠も、カーテンの房飾りも、すべて深い黒で統一されている。花嫁を迎える馬車というより、喪の帰り道に使う馬車のようだった。
向かいに座るアルベルトは、式が終わってからほとんど口を開かなかった。
リーゼロッテも話題を探さなかった。
聞きたいことは山ほどある。
なぜ姉との婚姻を望んだのか。ベルク伯爵家の事情をどこまで知っていたのか。呪いとは本当に人に移るものなのか。そして、式で彼が自分の名を確認したのは、怒りからなのか、誠実さからなのか。
だが馬車には、初老の男が同乗していた。
バルト・ロッシュ。
グレンヴィル公爵家の家令であり、今日の婚礼手配を取り仕切った人物だと紹介された。薄い唇に穏やかな笑みを乗せているが、その目は少しも笑っていない。
「奥さま、お疲れでございましょう。屋敷に着きましたら、すぐにお部屋へご案内いたします」
奥さま。
その呼び方は丁寧だったが、どこか紙に書かれた役職名を読んでいるようだった。
「ありがとうございます、ロッシュ殿」
「殿など不要でございます。私はしがない使用人にすぎません」
「では、ロッシュ」
リーゼロッテが言い直すと、ロッシュはわずかに目を伏せた。
失礼ではない。
だが、彼は気に入らなかったらしい。
公爵家の屋敷は王都北端の高台にあった。白い石造りの大きな屋敷だが、窓の半分には厚いカーテンが下り、庭の噴水は止まっている。玄関前に並んだ使用人たちは礼儀正しく頭を下げたが、歓迎の色は薄い。
ここには花がない、とリーゼロッテは思った。
季節の花も、客を迎える音楽も、台所から漂う夕食の匂いも。
ただ、静かだった。
案内された部屋は、公爵夫人の部屋としては小さかった。壁紙は上等だが古く、暖炉には火が入っていない。ドレスのまま一人で待たされていると、窓の外で夜の鐘が鳴った。
初夜。
その言葉を意識した途端、指先が冷えた。
リーゼロッテは鏡の前でベールを外した。姉のために結い上げられた髪から、真珠のピンを一本ずつ抜いていく。急に嫁がされたとはいえ、相手は夫になった人だ。どのような扱いを受けるのか、覚悟はしておかなければならない。
扉が叩かれたのは、最後のピンを抜いたときだった。
「入っても?」
アルベルトの声だ。
「どうぞ」
入ってきたのは、アルベルトとロッシュだった。
花束も、酒も、甘い言葉もない。
ロッシュが銀盆に載せていたのは、分厚い羊皮紙の束と、黒い魔石インクだった。
リーゼロッテは、反射的に背筋を伸ばした。
アルベルトは部屋の中央で足を止める。夫婦の寝室というには、距離がありすぎた。
「リーゼロッテ嬢」
まだ妻とは呼ばないのだな、と彼女は思った。
「今日の婚姻について、君には十分な説明がなかったはずだ」
「はい」
「私は君を妻として扱うつもりはない」
言葉は刃物のようにまっすぐだった。
胸が痛まなかったと言えば嘘になる。だが、痛むほどの期待を持つ時間もなかった。
「承知いたしました」
「互いに愛さず、触れず、同じ寝台を使わない。一年後、婚姻無効の手続きを取る。その際には相応の金を支払い、君の生活に困らないよう手配する」
アルベルトはロッシュから羊皮紙を受け取り、机に置いた。
「そのための契約書だ。署名してほしい」
白い結婚契約。
リーゼロッテは、机の上の羊皮紙を見下ろした。
逃げた姉の代わりに嫁がされ、初夜に突きつけられたのは、一年後に出ていけという契約書。
あまりにも分かりやすい冷遇だった。
けれど同時に、奇妙な安堵もあった。少なくとも今夜、無理に夫婦の義務を求められることはないらしい。
「読んでもよろしいですか」
アルベルトが一瞬だけ目を見開いた。
ロッシュが柔らかく笑う。
「もちろんでございます。ただ、内容は一般的な白い結婚契約でして、奥さまのお手を煩わせるほどのものでは」
「署名する書類を読まない者は、煩う手以前に首が危ういと教わりました」
誰に、とロッシュが問う前に、リーゼロッテは羊皮紙を手に取った。
細かい文字が並んでいる。
甲はアルベルト・グレンヴィル。乙はリーゼロッテ・ベルク。婚姻継続期間は一年。乙は公爵家の名誉を損なってはならない。乙は甲の私生活に干渉してはならない。乙は屋敷運営に関与してはならない。乙は契約内容を第三者に漏らしてはならない。乙は。
乙は。
乙は。
おや、とリーゼロッテは思った。
なぜ乙の義務ばかりなのだろう。
次の行を読んだ瞬間、頭の奥で何かが鳴った。
『相応の金員を支払うものとする』
相応。
相応とは何か。算定基準は。支払日は。通貨は。遅延した場合の扱いは。支払い主体は公爵個人か、公爵家会計か。税はどちらが負担するのか。
文字が滲んだ。
いや、滲んだのではない。
別の記憶が、羊皮紙の文字の向こうから浮かび上がってきた。
蛍光灯。積み上がった契約書。赤いボールペン。電子稟議の差し戻し。上司のため息。取引基本契約。秘密保持契約。損害賠償条項。解除条項。反社会的勢力の排除条項。
『真壁さん、これ今日中に確認できる?』
できます、と答えた自分。
本当はできなかった自分。
でも、穴だらけの契約書を見過ごすことだけは、どうしてもできなかった自分。
一度、見過ごしかけたことがあった。
業務委託契約の「必要に応じて協力する」という一文。誰も気にしなかったその曖昧な文言で、取引先の若い担当者が夜間対応と休日対応を背負わされ、最後には「契約に含まれる」と切り捨てられた。
莉子は後から気づいた。
もっと早く赤を入れていれば、と何度も思った。
リーゼロッテは瞬きをした。
前世。
その言葉が、驚くほど自然に胸に落ちた。
自分はかつて、別の世界で生きていた。真壁莉子という名前で、企業法務の部署にいた。正式な弁護士ではない。けれど毎日、契約書と稟議書と取引先の怪しい文言に追われていた。
そして過労で死んだ。
最期に読んでいた契約書にも、たしかこんな曖昧な文言があった。
相応の努力を行う。
必要に応じて協議する。
善処する。
善処で人は守れない。
リーゼロッテは羊皮紙から顔を上げた。
「公爵閣下」
「なんだ」
「この契約書は、署名できません」
ロッシュの笑みが止まった。
アルベルトの灰青の瞳が、静かに彼女を見返した。
「理由を聞こう」
リーゼロッテは、羊皮紙の一行目に指を置いた。
「条項が穴だらけです」




