第三話 条項が穴だらけです
沈黙が落ちた。
暖炉に火が入っていない部屋で、さらに温度が下がった気がした。
ロッシュが先に笑った。
「奥さま。ご不安は分かりますが、こちらは当家の顧問契約官も確認した文書でございます。貴族の白い結婚契約としては一般的な」
「その顧問契約官とは、どなたですか」
「私でございます」
「では、なおさら確認が必要ですね」
ロッシュの頬がぴくりと動いた。
リーゼロッテは机の前に立ったまま、羊皮紙を整えた。前世の記憶が完全に戻ったわけではない。家族の顔、住んでいた部屋、好きだった菓子の名前はぼんやりしている。
けれど契約書の見方だけは、嫌になるほど鮮明だった。
定義。
権利義務。
対価。
期限。
解除。
損害賠償。
秘密保持。
管轄。
紙の上で人が不幸になる道順を、彼女は何度も見てきた。
「問題は多いです」
言いながら、リーゼロッテは自分でも驚いていた。
口が止まらない。
いや、止めてはならない。
この紙に署名した瞬間、彼女の一年間とその後の人生が決まる。
ただ、全部を読み上げれば夜が明ける。聞いている側も、読んでいる側も、息ができなくなる。
リーゼロッテは震えそうになる指を、羊皮紙の端でそっと押さえた。
今、直すべきものを選ぶ。
命と生活に関わるものから。
「まず、生活費です。『公爵家の慣例に従う』とありますが、月額、支給日、私室、衣服、侍女、医療費が何も書かれていません」
「公爵家が奥さまを飢えさせるとでも?」
ロッシュが柔らかく言う。
「飢えなければよい、という契約では困ります」
リーゼロッテは自分のドレスの袖を見た。
姉の寸法に合わせた袖は、まだ少し長い。
「私は今日、姉の代わりに嫁ぎました。私個人の持参品も、衣服も、侍女も、ほとんどありません。一年後に離縁するなら、なおさら私自身の生活基盤を明確にしていただく必要があります」
アルベルトの目に、初めて痛みのようなものが走った。
「……その通りだ」
ロッシュが口を開く。
「閣下」
「続けてくれ」
アルベルトは低く言った。
リーゼロッテは頷いた。
「次に、秘密保持義務です。私だけに課されていますが、公爵家側にも、私の身分、婚姻経緯、離縁条件について守秘義務が必要です。私だけが黙る契約では、私の事情だけが都合よく使われます」
「当然、当家は口外いたしません」
「当然のことほど、書くべきです」
前世の上司がよく言っていた。信頼している相手ほど契約書を整えろ、と。
信頼していない相手なら、なおさらである。
「最後に、離縁時の金額です。『相応の金員』とありますが、相応では計算できません。最低額、支払時期、遅延時の利息、支払いが滞った場合の担保を定めてください」
「担保?」
アルベルトが聞き返した。
「公爵閣下が亡くなられた場合、または呪いにより意思表示ができなくなった場合でも、私への支払いが消えないようにするためです」
言った瞬間、空気が強く冷えた。
失礼だったかもしれない。
だが必要な確認だった。
アルベルトはゆっくり息を吐いた。
「君は、私が一年以内に死ぬ可能性を考えているのか」
「はい」
ロッシュが鋭く彼女を見た。
リーゼロッテは逃げずに答えた。
「この婚姻が呪いを理由とするもので、かつ白い結婚を前提とするなら、閣下の健康状態は契約の重要事項です。死を願っているのではありません。死んだ場合に私が路頭に迷わないよう、今決めておきたいのです」
無礼だと怒鳴られても仕方がない。
けれど、アルベルトは怒らなかった。
むしろ、ひどく疲れたように笑った。
「正直だな」
「契約書の前では、正直であるほうがお互いのためです」
リーゼロッテは羊皮紙へ視線を戻した。
白い結婚の定義、私生活の範囲、屋敷運営の責任、解除条件、管轄。
指摘したい箇所はまだ十数か所ある。
だが、今この部屋に必要なのは、彼女が泣き寝入りしないと示すことだった。
「ほかにも修正が必要です。ですが、まずこの三点が直らない限り、私は署名できません」
「そうか」
アルベルトは机に近づいた。リーゼロッテとの間には、まだ人一人分の距離がある。
「では、君ならどう直す」
ロッシュが目を見開いた。
「閣下、奥さまは本日嫁がれたばかりです。契約実務など」
「今の指摘に誤りはあったか」
「それは」
「答えろ、ロッシュ」
静かな声だった。
だがその一言で、部屋の主が誰なのかが分かった。
ロッシュは一拍置いて、頭を下げる。
「大きな誤りは、ございません」
大きな、というところに意地が見えた。
リーゼロッテは見逃さなかったが、今は追及しなかった。
「紙をもう一枚いただけますか」
アルベルトはロッシュへ目で命じた。
魔石インクの横に、白紙の羊皮紙が置かれる。
リーゼロッテは羽根ペンを取った。
手が震えていることに気づいた。
怖くないわけではない。
けれど、泣いて黙って署名するよりはずっといい。
「まず、定義条項からです」
彼女はペン先にインクを含ませた。
黒い魔石インクが、灯りを受けてわずかに青く光る。
「白い結婚とは、寝所、身体的接触、婚姻継続の意思、嫡子に関わる義務を互いに求めない婚姻状態。ただし、同居、食事、会話、医療上必要な看護、屋敷運営上の協議、公的行事への同伴は、双方が書面で別途合意しない限り、婚姻無効主張の妨げにならない」
書きながら、リーゼロッテは思った。
初夜に書く文章ではない。
けれど、自分の人生を守る文章ではある。




