第一話 身代わり花嫁は、まず名前を確認される
花嫁の控室には、姉のために仕立てられたドレスがあった。
真珠を縫い込んだ白絹。胸元にはベルク伯爵家の紋章を模した銀糸。袖口のレースは、王都で一番高い店から取り寄せたものだと、昨日まで母が誇らしげに語っていた。
それを今日、リーゼロッテ・ベルクが着ている。
姉ユリアナは夜明け前に消えた。
残されていたのは、香水の匂いが移った手袋と、たった一行の置き手紙だけだった。
『呪われた公爵さまのところへは行けません。ごめんなさい』
ごめんなさい、で済むものではない。
そう思ったが、口には出さなかった。控室の扉の向こうで、父ギデオン・ベルク伯爵が何度も靴音を立てて歩き回っている。伯爵家の借金、支払済みの持参金、招待客、王家に提出した婚姻届、すべてが今日の式にぶら下がっていた。
姉がいないから中止にします、とは言えない。
そして、姉とよく似た銀髪を持つ次女が、たまたまこの家には残っていた。
「リゼ」
父が入ってきた。
娘を気遣う顔ではなかった。壊れかけの馬車を、どうにか市場まで走らせる商人の顔だった。
「顔を上げろ。泣き腫らした目では困る」
「泣いておりません」
「なら笑え。グレンヴィル公爵家は気難しい。せめて花嫁が従順であることを見せねばならん」
従順。
リーゼロッテは鏡の中の自分を見た。姉より少し背が低く、姉ほど華やかではなく、姉の代わりにドレスの背を急いで詰められた花嫁。
父が求めているのは従順さというより、代用品であることを黙って隠す都合のよさだろう。
「公爵さまには、私がリーゼロッテであるとお伝えしたのですか」
「式のあとでよい」
「婚姻契約です。相手方の錯誤になります」
父の眉が跳ねた。
「難しい言葉を覚えたな。だが、女の小賢しい口出しで家が救えるなら苦労はせん」
その瞬間、リーゼロッテの頭の奥で、見知らぬ赤字が走った。
署名者の同一性を曖昧にした契約は、あとで必ず揉める。
まだそれを前世の記憶だとは知らない。けれど、紙束に埋もれた別の自分が、父の言葉に太い斜線を引いたような感覚だけはあった。
理不尽な命令。説明のない責任。曖昧な期限。
人を黙らせるための言葉ほど、書面に残すと弱い。
「……承知いたしました」
了承ではない。
それ以上、今ここで言い争う時間がないと判断しただけだ。
鐘が鳴った。
扉が開き、白い光が差し込む。リーゼロッテは裾を踏まないように歩き出した。絨毯の先には、黒衣の男が立っている。
アルベルト・グレンヴィル公爵。
黒髪に灰青の瞳。噂よりも若く、噂よりもずっと静かな人だった。ただし、近づくほど空気が冷える。冬の朝に窓を開けたときのような、肺の奥まで細く冷たい空気。
右手には白い手袋をしている。首元まで詰めた礼服の隙間から、黒い蔦のような痣がわずかに見えた。
呪われた公爵。
姉はその言葉だけで逃げた。
リーゼロッテは逃げられなかった。
祭壇の前で父が彼女の手を押し出す。アルベルトは、その手を取らなかった。白い手袋の指先が、触れる寸前で止まる。
神官が誓約文を読み上げた。
「アルベルト・グレンヴィル。あなたは、ベルク伯爵家の娘を妻として迎え、家と領地の名誉において守ることを誓いますか」
「誓う」
低い声だった。
神官がリーゼロッテへ視線を向ける。
「ユリアナ・ベルク。あなたは」
「お待ちください」
礼拝堂が凍った。
父が後ろで息をのむ。母が小さく悲鳴を上げる。神官は誓約書を見たまま固まった。
リーゼロッテは、震える膝に力を込めた。
「私は、リーゼロッテ・ベルクです。ベルク伯爵家の次女です」
ざわめきが広がった。
アルベルトの灰青の瞳が、初めてまっすぐ彼女を見た。責める色ではない。驚きと、かすかな諦めがそこにあった。
「君は、自分の名でこの場に立っているのか」
「はい」
「望んで?」
その問いは、礼拝堂にいる誰よりも残酷だった。
望んでいるわけがない。
けれど、望んでいないと答えれば、ベルク伯爵家は破滅する。父は自業自得だとしても、家に残る使用人や領民まで巻き込むことになる。なにより、この場で花嫁のすり替えを黙認したと知れれば、リーゼロッテ自身もただでは済まない。
「少なくとも、名を偽って誓うことは望みません」
アルベルトの目がわずかに細められた。
ほんの一瞬、彼は笑いそうになったように見えた。だがすぐに、冷たい公爵の顔に戻る。
「神官。誓約文を訂正してください」
「し、しかし、公爵閣下」
「私は今、この場でリーゼロッテ・ベルク嬢を確認した。以後、彼女の名で進める」
父が青ざめ、母は扇で顔を隠した。招待客のざわめきは止まらない。
リーゼロッテは、ドレスの下で指を握りしめた。
少なくとも一つだけ、今日の嘘は減った。
神官が震える声で誓約文を読み直す。
「リーゼロッテ・ベルク。あなたは、アルベルト・グレンヴィルを夫として迎え、家と領地の名誉において支えることを誓いますか」
リーゼロッテは、アルベルトの白い手袋を見た。
手は差し出されない。けれど彼は、名を消さなかった。
「誓います」
そうして彼女は、呪われた公爵の妻になった。
愛も、祝福も、未来の約束もないままに。




