表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

第一話 身代わり花嫁は、まず名前を確認される

花嫁の控室には、姉のために仕立てられたドレスがあった。


真珠を縫い込んだ白絹。胸元にはベルク伯爵家の紋章を模した銀糸。袖口のレースは、王都で一番高い店から取り寄せたものだと、昨日まで母が誇らしげに語っていた。


それを今日、リーゼロッテ・ベルクが着ている。


姉ユリアナは夜明け前に消えた。


残されていたのは、香水の匂いが移った手袋と、たった一行の置き手紙だけだった。


『呪われた公爵さまのところへは行けません。ごめんなさい』


ごめんなさい、で済むものではない。


そう思ったが、口には出さなかった。控室の扉の向こうで、父ギデオン・ベルク伯爵が何度も靴音を立てて歩き回っている。伯爵家の借金、支払済みの持参金、招待客、王家に提出した婚姻届、すべてが今日の式にぶら下がっていた。


姉がいないから中止にします、とは言えない。


そして、姉とよく似た銀髪を持つ次女が、たまたまこの家には残っていた。


「リゼ」


父が入ってきた。


娘を気遣う顔ではなかった。壊れかけの馬車を、どうにか市場まで走らせる商人の顔だった。


「顔を上げろ。泣き腫らした目では困る」


「泣いておりません」


「なら笑え。グレンヴィル公爵家は気難しい。せめて花嫁が従順であることを見せねばならん」


従順。


リーゼロッテは鏡の中の自分を見た。姉より少し背が低く、姉ほど華やかではなく、姉の代わりにドレスの背を急いで詰められた花嫁。


父が求めているのは従順さというより、代用品であることを黙って隠す都合のよさだろう。


「公爵さまには、私がリーゼロッテであるとお伝えしたのですか」


「式のあとでよい」


「婚姻契約です。相手方の錯誤になります」


父の眉が跳ねた。


「難しい言葉を覚えたな。だが、女の小賢しい口出しで家が救えるなら苦労はせん」


その瞬間、リーゼロッテの頭の奥で、見知らぬ赤字が走った。


署名者の同一性を曖昧にした契約は、あとで必ず揉める。


まだそれを前世の記憶だとは知らない。けれど、紙束に埋もれた別の自分が、父の言葉に太い斜線を引いたような感覚だけはあった。


理不尽な命令。説明のない責任。曖昧な期限。


人を黙らせるための言葉ほど、書面に残すと弱い。


「……承知いたしました」


了承ではない。


それ以上、今ここで言い争う時間がないと判断しただけだ。


鐘が鳴った。


扉が開き、白い光が差し込む。リーゼロッテは裾を踏まないように歩き出した。絨毯の先には、黒衣の男が立っている。


アルベルト・グレンヴィル公爵。


黒髪に灰青の瞳。噂よりも若く、噂よりもずっと静かな人だった。ただし、近づくほど空気が冷える。冬の朝に窓を開けたときのような、肺の奥まで細く冷たい空気。


右手には白い手袋をしている。首元まで詰めた礼服の隙間から、黒い蔦のような痣がわずかに見えた。


呪われた公爵。


姉はその言葉だけで逃げた。


リーゼロッテは逃げられなかった。


祭壇の前で父が彼女の手を押し出す。アルベルトは、その手を取らなかった。白い手袋の指先が、触れる寸前で止まる。


神官が誓約文を読み上げた。


「アルベルト・グレンヴィル。あなたは、ベルク伯爵家の娘を妻として迎え、家と領地の名誉において守ることを誓いますか」


「誓う」


低い声だった。


神官がリーゼロッテへ視線を向ける。


「ユリアナ・ベルク。あなたは」


「お待ちください」


礼拝堂が凍った。


父が後ろで息をのむ。母が小さく悲鳴を上げる。神官は誓約書を見たまま固まった。


リーゼロッテは、震える膝に力を込めた。


「私は、リーゼロッテ・ベルクです。ベルク伯爵家の次女です」


ざわめきが広がった。


アルベルトの灰青の瞳が、初めてまっすぐ彼女を見た。責める色ではない。驚きと、かすかな諦めがそこにあった。


「君は、自分の名でこの場に立っているのか」


「はい」


「望んで?」


その問いは、礼拝堂にいる誰よりも残酷だった。


望んでいるわけがない。


けれど、望んでいないと答えれば、ベルク伯爵家は破滅する。父は自業自得だとしても、家に残る使用人や領民まで巻き込むことになる。なにより、この場で花嫁のすり替えを黙認したと知れれば、リーゼロッテ自身もただでは済まない。


「少なくとも、名を偽って誓うことは望みません」


アルベルトの目がわずかに細められた。


ほんの一瞬、彼は笑いそうになったように見えた。だがすぐに、冷たい公爵の顔に戻る。


「神官。誓約文を訂正してください」


「し、しかし、公爵閣下」


「私は今、この場でリーゼロッテ・ベルク嬢を確認した。以後、彼女の名で進める」


父が青ざめ、母は扇で顔を隠した。招待客のざわめきは止まらない。


リーゼロッテは、ドレスの下で指を握りしめた。


少なくとも一つだけ、今日の嘘は減った。


神官が震える声で誓約文を読み直す。


「リーゼロッテ・ベルク。あなたは、アルベルト・グレンヴィルを夫として迎え、家と領地の名誉において支えることを誓いますか」


リーゼロッテは、アルベルトの白い手袋を見た。


手は差し出されない。けれど彼は、名を消さなかった。


「誓います」


そうして彼女は、呪われた公爵の妻になった。


愛も、祝福も、未来の約束もないままに。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ