破綻
「さっきからこっそり聞いていれば。自分勝手なことばかりね」
森の中から突然現れたアリシアは、肩を竦めてゆるゆると首を振りながらこちらへと歩いてくる。彼女の影が濃く長く森の中に差し掛かっているのが、何故か目を引いた。――まるで、崖から落ちないための命綱のような。何故そんな風に思ったのだろうか。
「自分勝手?」
エリウスは渋面を作った。ラスティは目を瞠る。癪に障る笑みとこちらの理解を示さない疑問以外で、はじめて見る表情の変化かもしれない。子どもだとは予てより感じていたが……初めて人間らしさを目にしたような気がした。
「でも誰だって、ああいうのは嫌だろう?」
「嫌よ」
清々しいまでの力強い肯定。まっすぐにエリウスを見る彼女の瞳は、斜陽の赤の中にあっても冷たい青色を湛えていた。
それからアリシアは、少しだけ肩の力を抜いたような緩みを見せた。
「でも、そういうことも起こり得るのが、人の世ではないかしら」
「それを拒絶したから、君は剣を振るったんだろう?」
それは世界が創り直される前の話か、とラスティは想像するしかない。神の対峙に口を挟めるはずもなかった。
だが、アリシアの心情は、推して測れるところがある。『大切な人が死んだ世界が許せなかっただけ』と、かつてアリシアはそう語った。彼女こそ厭世的な破壊願望の中で、有り得ない選択肢を突きつけられた人物だ。
そうして彼女がどうなったのか。その結果を、ラスティはここ数ヶ月ずっと見てきた。
「間違っていたのは――おかしいのは、私のほうだったのよ」
だから、彼女が痛ましい表情で血を吐き出すような言葉に、驚きはしなかった。エリウスとは違って。
「その子が普通なの。大事な人がいなくなって、自分の身の回りが何もかも変わってしまって、絶望もするでしょう。『世界がなくなってもいい』とも思いもするわね……でもね、実際にそういうことは起こらないの」
その手段は、普通はじめから用意されていないのだから。
ラスティとて、世界を恨まなかったわけではない。神剣を使う誘惑に駆られなかったわけではないのだ。ただ、怒りの矛先が早いうちに絞られていて、友人に恵まれてもいて、誘惑に呑まれる暇がないほど目まぐるしい日々を送っていたから、その気にならなかっただけだ。
世界を滅ぼしたいという気持ちを、想像できないわけではない。それらがなかったら、ラスティ自身どうしていたか分からない。
神剣がなかったら、そもそもそんな心配をする必要もなかったことだろう。
「実際にそうなって、満足する人だってほとんどいないのではないかしら。他ならぬ私がそうなのだから」
ラスティがずっと恐れているのも、〝取り返しの付かないことをした後悔〟だった。アリシアがずっと口にしていたことだった。
その、何度も口にしていた後悔を、少年神は一度も聞いたことがなかったのだろうか。そんなはずはない、と思いつつ、信じられないものを見るような顔をしている彼を見ていると……この世界は、本当に独り善がりの世界だったのだ、と知る。
「自分の経験を全員の意見であるかのように語るのは、どうかと思うよ」
口を尖らせるエリウスに、アリシアは苦笑した。
「そうでしょうけど、生憎私は一般的な感覚というものを、一応知ってはいるのよ」
そしてアリシアは、一度ラスティのほうを向いて、笑ってみせた。年長者が子どもの成長を見守るような、それでいて安堵も混じえた笑み。ラスティは目を瞬かせる。
「だから、誰かに持たせて、一度振らせて、あとには退けなくしてしまえば良いだなんて、たちが悪いだけで意味がないのよ」
ラスティの背筋が凍えた。右手の剣を取り落としそうになり、頬の強張りを自ら感じながら、エリウスを振り返る。少年は、この上なく不貞腐れた顔をしていた。悪戯を咎められたような悪童の顔。うまくいかなかったことだけを不満に思っている表情。
「…………やっぱり、クラウスにやらせれば良かった」
ラスティの視界がぶれる。頭の中がひっくり返されたような感覚を味わった。
「彼だったら、都合が良かったのに」
レティアの言うとおり、ラスティの出現はエリウスにとって予想外だったようだ。急遽書き換えた筋書きが、どこまでも捻れて思い描いていた通りにいかなかったのだろう。悔しがり苛立つ少年の姿に――だが、ラスティは溜飲を下げることも安堵することもなかった。ただ目眩を覚えていた。
思い通りにいかなかったことに不貞腐れる子ども。本当に見た目の通りなら、未来を思ってまだ許容できただろう。だが、彼は千年ずっと神をやってきて。
この世界は、彼の玩具箱でしかなくて。
ラスティは左手で頭を抱えてよろめいた。どこまでもその真実は残酷だった。彼が気に入るか気に入らないか。面白いかそうじゃないか。人間たちがいくら必死に足掻いても、全部彼の一薙で無駄になる。どれほど声を上げたとしても、戯言として振り払われる。
――それをこれからもずっと、味わっていかなければいけないのか。
ラスティの隣で、フェンリルが敵意を剥き出しにした唸り声をあげる。
「アリシアが邪魔さえしなければ――」
絶望の中で響く子どもの癇癪が、ラスティの心を引っ掻く。
「邪魔するに決まってる! 私の大切な国に手を出すのだもの!」
堪忍袋の緒が切れたアリシアの恫喝が、ラスティの頭を殴打する。
「君が責任を放棄するからだろ!」
罵り合いがあまりにうるさかった。不快だった。ただラスティの苛立ちを掻き立てた。
まるで子どもの喧嘩だ。どれもこれも、思い通りにいかなかった駄々と、他責による弁論ばかり。
この世界は、そんなものの積み重ねでできている。
「破綻しているじゃないか!」
耐えきれなくなって、ラスティは叫んだ。弾かれた様子でこちらを振り返る二柱の神に、ラスティは憤りをぶつけた。
「そうやって押し付け合っている時点で、すでに破綻しているんじゃないのか!?」
エリウスの理想の正しきにしろ悪しきにしろ、アリシアの後悔が順当であるしろそうでないにしろ。これまでの道行きもこの先の針路もめちゃくちゃで、茫洋とした海で遭難しているというのに、認めようとせず周りを見ないで口論ばかり。
それで何が変わるというのか。
ラスティは目を閉じ、歯を食いしばった。あまりに虚しくて情けなくて、泣いてしまいそうだった。泣ければどれほど良かったか。しかし今ラスティまで感情に身を任せたら、誰も止める者がいなくなる。
涙を流さない頬に、温かく湿ったものが触れた。まるで涙を拭うように狼がラスティを舐めている。生臭い匂いが鼻に突く。だがむしろ、顔を顰めたくなるその匂いが怒りからラスティの気を逸らし、落ち着かせた。
手を回し、顔の側面の毛を撫でてやると、さらに落ち着く。何をしに来たのかを思い出した。身勝手な議論を前に、ラスティもまた我を忘れていたようだ。
「……その通りね」
粗く息をするラスティを前に、アリシアはしおらしく頭を下げる。つい頭に血が昇ってしまった、と。
「短慮はいけないって、分かっていたつもりだったのに、結局同じ轍を踏んでしまったわね。……本当に向いていない」
女神は赤い闇の広がる空を仰いだ。星明かりはまだ降ってはおらず、本格的な夜の訪れには、まだもう少し時間があるようだ。
「だからこそ、私は自分が破壊神の役目を果たさなかったことを正解だと思っているのだけど」
複雑な色に塗りつぶされただけの空に、アリシアは何処か安堵を覚えているように見えた。暗がりでまだ見える青の瞳は、凪いだ泉の水面のように静かに昏く沈んでいた
「そう。そうなのよ。貴方の言う通り。もうずっと――いえ、そもそもはじめから破綻しているの」
話しながらアリシアはゆっくりとラスティの前へと歩み寄った。手が届く距離まで近づいて、立ち止まる。
破壊の剣が誰かに使われることを誰よりも恐れた女神は、悲しみを湛えた目で穏やかに笑みを作って、ラスティの左手を取った。
そして、エリウスを振り返った。
「無理なのよ、私たち四人で世界を管理しようだなんて」
そのとき彼女がどのような顔をしていたのか、ラスティは知らない。
もう片方の手で握っていた神剣をもぎ取られたことで、思考が停止してしまったからだ。
「だからもう、終わりにしましょう」
そして破壊神は、千年ぶりにその剣を振り下ろした。




