決定
「参ったよ。もう降参だ」
クラウスが観念した顔で両手を上げた。その手にはすでに何もなく。肩で息をしているユーディアは、握りしめた剣を下ろした。刀身の折れた愛剣ではない。紫紺の狼にやられた誰かが落とした片手剣だ。扱い方はまるで違い苦戦したが、どうにか粘った。粘り勝ちだ。
「まさか、君がここまでなりふり構わずやるとはね」
クラウスが苦笑する。そうなのだろうか、とぼんやりと思う。だが、確かにがむしゃらだったかもしれない。
粗い呼吸が収まらず、肩にのしかかる疲労に、視線が地面に落ちる。踏み荒らされた芝。掘り返されて、土も見えている。やっと、と思う一方で、手際よくできなかったことへの申し訳なさ。余所者の自分は、やはりこのアリシエウスを荒らすことしかできないのだ、と突きつけられた気分に陥る。
「正直、意外だったよ。君はずっと、出来の良いお人形みたいに振る舞ってたから」
兄目線の発言に些かムッとし、顔を上げた。
「馬鹿にしているわけじゃないよ。ただ、これまでの君は判で押したような優等生だったからね。意識してたわけじゃないだろうけど、型にはまって、出るようなことはしなかった」
それは、その通りだ。神を祀る神殿の騎士を志していたのだから。規範に則ることを求められていたのだから、それに従っていたまで。
だが、今はもう違う。
「だって、私はもう、誰かの理想に縋ってはいないから」
辞表を出したわけではないが、ユーディアはもう神殿騎士を辞めた。組織に背くのであれば、型にはまったままでいられるはずもなく、自我を出していく必要があるのだから。
「……怖い目だ」
それをいつまでも揶揄する彼には、腹が立つが。
「アリシエウスは君に引き渡そう。君が治めるも、誰かに譲るのも、全部自由だ。俺の処遇も、君に任せる」
ユーディアが規則や法や世情に則って彼を裁くことを知っていての発言。場合によってはクラウスの首を落とすことになるというのに、それを他の誰でもなくユーディア自身に決定させるというのだ。
「……酷い人」
「自らの足で立つって、そういうことだよ」
異論はない。ただ、敢えて自分からそれを言う意地の悪さが憎い。彼にとって、ユーディアはどれだけ傷ついても良い人間なのだ、と再度突きつけられて。
拗ねて諦めて、安堵した。
ユーディアはクラウスを拘束し、彼の部下たちへの指揮権を奪取した。ただちに戦いをやめるよう指示し、アリシエウスの者たちに全て説明すると約束し。両陣営の停戦に向けて動き出す。
すんなりと事は進まないと覚悟する一方で、それでも状況は良いほうに傾いていくという確信もあった。ユーディアの意を汲んだら、グラムたちもリヴィアデール側を止めてくれるだろうし、そもそもこの戦いの意味は、とうに喪われている。
そして、ユーディアがいる限り、神の意は及ばない――及ばせない。
「……ラスティさん」
クラウスが掠め取った執務室で次の算段をつけようと頭を捻るユーディアは、ほんの一瞬気を抜いた時間に、今ここにいない人へと言葉を向けた。
「もう、戦わなくて良いですよ」
紫紺の狼との契約は、リグの言う文言を唱えるだけで終わった。正確には、細かい魔術の手順は、リグが引き受けてくれて、ラスティは呪文を口にするだけで良かった……らしい。
「どうだ?」
リグの質問に、ラスティは答えを考える。
「……妙な感覚だ。血が少しずつ抜き取られているような」
「魔力がフェンリルに流れている証拠だな。これからもずっと続くから、慣れろ。死にはしない」
ぞんざいな物言いに、少し疑わしく思う。が、魔術という学問を知らないどころか、使うのも初めてなラスティには、何も言うことができなかった。信じるしかあるまい。
紫紺の狼――フェンリルは、今は普通の狼と変わらない大きさとなっていた。しきりに首を動かして、自らの身体を見回している。はじめて自分の身体を認識したかのような、赤子めいた反応だった。
「そりゃあ違和感もあるだろうな。この世界に合わせて、少し身体を作り変えているんだ」
……ラスティは、やはり何も反応することができなかった。
「スコルたちとは違って、少し〈精霊〉に近づけてある。だから、在り方も少し違う。不安にもなるだろう」
どうしたらそんなことができるのかはさっぱり分からないが、改めてこの双子の異常性というのを、ラスティは実感した。闇神に裁かれそうになったのも、無理のないことだと思う。一方で、彼らは禁術の使用は反対の立場だったはずだ。その辺りの匙加減をうまく調整しているということだろうか。
「〈精霊〉よりにしたことで、魔力の消費も抑えられてる。呪文も魔法陣も、お前が編む必要はない。フェンリルがその辺はやってくれる。名前を喚べば、応えてくれるはずだ」
そこは、微妙な危うさを感じた。
「奴が俺の魔力で好き勝手したり、逆に応えてくれない可能性は?」
「絶対的な従属下にはないからな。ないとは言えない。が、仮にも契約を交わした間柄だ。そうそう裏切られることはないはずだ」
さっきから『はず』が多いのが気になるが、リグのほうも土壇場で作り上げた魔術のようであるし、あまり不満を言っても仕方がないだろう。
「意志のある存在だ。対話して、信頼関係を作っていくしかないよ。相性が悪い場合は……そのとき考えるから」
あくまで応急処置だ、とリグは言う。いうなれば、ラスティは行き場のない犬を〝都合がつくから〟といって預かったに過ぎないのだ。
「……なあ」
巻き込まれぬよう離れていた連合軍の一人が、おずおずとグラムに声を掛けてきた。こちらの戦いが終わったものの、集まって何かしていて、状況が掴めないのが気になって出てきたのだろう。グラムもそれを察してか、安心させるように明るい表情を作った。
「大丈夫、もう終わったッス」
「でも、そいつら、アリシエウスの――」
非常時とはいえ、味方が敵と意気投合している様子をみると、仲間としては不安になることだろう。それに気付いたグラムたちは、その対応へと意識を向けたようだ。話は終わり、ラスティは敵陣の隅にレティアと残された。レンは狼を観察している。
合成獣はどうにかした。狼もどうにかなった。アリシエウスで起こった大きな事件は、これでだいぶ纏っただろうか。戦いは……両軍そんな状況ではないと思いたいが。
あとは何をすればいい? どうすればこの国は落ち着くのか。頭の中でそんな思考が巡る。その中心にはどうしてもエリウスの存在があった。一度しか顔を合わせていないというのに、赤と緑の色違いの眼が脳裏に焼き付いている。
彼を止めないと、真の平穏は訪れない。
だが、そのために何をする? レティアの言う『綻び』とは、『綻びを拡げる方法』とは何だろうか。どうして神の意表を突く術が、ラスティには思い浮かばない。
『誰を喰らえば良い?』
ふと頭の中にそんな言葉が浮かぶ。一度それが自分の思考によるものだと思い――違うことに気が付いた。
顔を上げると、契約した狼がじっとこちらを見つめている。
「誰を……って」
『神に歯向かうのでは?』
思わず耳を押さえるが、それが聴覚から齎されているものではないことは理解していた。双子たちが黒白の狼と意思疎通をしていたのは、これなのだ。
「いや、俺は……」
誰かが頭の中に入ってきたような初めての感覚とフェンリルの質問の中身の両方に、ラスティは動揺した。思考が散逸して纏まらない。
『不愉快な神など喰ろうてしまえ。いなくなれば、二度と煩わされることもない』
その通りだ、という意見と、そこまでするつもりはない、という意見が、頭の中で駆け巡る。確かに、排除できれば後の憂いはない。相手は神で、継ぐ者はいないはずなので、一度排除してしまえば繰り返されることもない。絶対的な存在が相手なのでその可能性を考えていなかったが、もしそれができるのならば。
だが、気に入らないという理由だけで排除するのか? そこに大義はあるのか? それは本当に大義か?
大義なら排して良いのか? それは、アリシアを切り捨て別の人間を立てようとしたエリウスと変わらないのではないか? 自分が手を汚したくないだけか。責任を持ちたくないだけか。
「お前は、何を心配している」
唐突なレティアの問いかけに、ラスティの身のうちに沈みかけた思考が浮上した。断定的に聴こえたそれは、優柔不断なラスティを叱咤したようにも思えた、が。
――違う。
それは、ラスティの迷いの本質を問うものだ。頭にある決断を実行に移せない理由を、延々と探しているにすぎないという指摘なのだ。
――そうか、俺は。
濾され純化された願望を拾い上げ、ラスティは腰の剣を握りしめた。朱の色をした柄の剣を。




