やめた
この身を流れる魔力は、リズにとって第三の手だ。リズはその手で、数多の魔術を使ってきた。
そして、手には感触があるものだ。魔術を使うときの手触りを、リズが分からぬはずもない。
リズの魔力が使われているのが、たとえ離れた場所であっても。
「……まあ、私自身、遠隔使ってるからな……」
のしかかる気怠さを誤魔化したくて、周りに誰もいないのに、つい声に出してしまう。
屈服させるような力が全身に掛かる中、リズは抗うのをやめ、石畳の上に伏していた。夏場にも冷たい石は、はじめは気持ち良かったが、慣れてくるとやはりその硬さが気になるようになり、つらくなってくる。さらにその中で、魔力も吸い取られていることによる虚脱感にも耐えねばならず。二重三重と身体に負荷が掛かっていて、リズは心底嫌になってきていた。
「ああ、もう。……ちくしょう。別に私一人じゃなくて、他の奴らから少しずつもらえばいいものを」
そうすれば、少なくとも自分が止めに行けたのに。
詮無いことを溢しながら、踏ん張って身を起こす。傍に転がしておいた杖を、真っ暗闇の中で手探りで探した。両剣に変えるつもりだったが、魔力が奪われている所為で上手くいかない。諦めて、また床に落とした。
「……しゃーない、か」
左腕を振ると、ローブの袖の中から棒状のものが手の中に落ちる。リズが常備している暗器、棒手裏剣。黒光りするその滑らかな表面の感触を確かめるように指先で触れたあと、そのまま順手で握りこんだ。拳の中から飛び出した針先をまじまじと見つめ、リズは唇を引き締めた。
今、何処かでリズの魔力を使って、異世界への門が開かれようとしていた。おそらく、そこから何かが出てくることだろう。害のないものではありえない。きっと、ハティのように月さえ呑み込むような、強大な者が現れるに違いない。
その門を、閉じなければいけない。
だが、リズは動けない。魔力が流れ出るのを、抑えることもできない。
為されるがまま、というのは、リズの趣味ではない。
となると、手っ取り早いのは。
嘆きとも笑いとも言えない声が漏れる。幾度となく死を覚悟したが、いつまで経っても恐怖が消えることはない。一瞬で終わるかもしれない痛みが、どうしても怖い。
怖いけど。
――レンがあの子を連れて行ってくれて良かった。
合成獣の少女は、きっと気に病むことだろうから。
左の拳を振り上げる。先端は、己の首元に。一度で済むことを祈りつつ、そのくせ外しかねない大げさな動作をせざるを得ない自分に自嘲し、残された彼らがうまくやることを祈り――
「そんなところで何をしている」
耳慣れた低音に、全てが打ち砕かれた。
左手を上げたまま、檻の外へと顔を向ける。灯りをくれていたレンもいなくなり、真っ暗闇に近かったそこに、また新しい光が浮かんだ。この地下を歩く者が持つだろう、小さな燭台。それを持つ人物は、また黒い。黒くて、背が高い。
「……んで……っ」
悔しさに声が漏れる。たちまち両目が熱くなり、リズは瞼に力を込めた。
リズの傍には、いつも都合よく彼が現れる。断頭台の綱を切る剣を握った、執行者が。
「まんまと捕まるとは、らしくない」
冷徹な声と言葉に、押し込めようとしていたリズの感情は決壊した。
「なんであんたがここにいるんだよ!」
過剰反応と笑うしかない声量で叫ぶと、檻の外で無表情にリズを見下ろしていたオルフェは、少しばかり顔を顰めた。
「何故、みな出会い頭に同じことを言うのか」
「知るか! お前こそ、その神出鬼没やめろよ!」
反射的に返しながら、その意味をなさない言葉遊びに、次第に笑いが漏れた。はじめは声は出なかったのだが、嚙み締めれば噛み締めるほど可笑しくなって、泡が弾けるような笑い声が止まらなくなる。
オルフェは、そんなリズを、珍獣でも見るかのように眺めていた。
「……で?」
ようやく笑いが収まった頃、不躾に言ったのは、オルフェのほうだった。
「んー、嵌められた。お相手は、ずいぶんと周到に根回ししてたようで」
フリアを殺めたことで油断していたのは、確かだったが。まさか人づてに名前を聞いただけの、顔さえ知らない人物が、自分を虎口に招くとは思いもよらなかった。
「エリウスですか」
「だろうね。私たちがアリシエウスに来るように仕向けた頃から仕込んでたのかも」
〈手記〉を追ってこの城の地下に忍び込むのも織り込まれていて。リズたちはまんまとそれに引っかかったわけだ。
そのアリシエウス侵攻をリヴィアデール側に持ち掛けたのは、光神と闇神。
「つまり、てめーの所為だ」
「…………すみません」
今日はじめてはっきりと表情を崩したオルフェに、リズは大笑いした。
オルフェはばつが悪そうにリズから視線を逸らし、手の燭台を動かしながら、牢の中に描かれた魔法陣を観察した。
「魔力吸収に、転送。捕縛系……は独自のものですね。とりあえず止めておきましょうか」
オルフェは膝をつき、檻の間から手を入れて、魔法陣の上に翳した。ぼけ、と眺めていると、不意に身体が軽くなる。押さえつけられていた感覚がなくなった。上半身を起こしただけの状態から、膝を折りたたんで床の上にぺたんと座り込む。ぼんやりとしたまま見上げると、半ば呆れた様子でオルフェは肩を竦めた。
「吸魔はもともと禁術です。私が知らないとでも?」
裁きの神が、裁くべき罪を知らないはずもなく。なら、あの塔は何なのか、などといろいろ疑問が浮かび、好奇心がそそられたが、状況が状況だけに断念した。
その代わり、切れる直前までの魔力での手触りを思い出す。たぶん手遅れだった。オルフェが来なければ、間に合っていただろうか。しかし、詰るべきか感謝するべきか、リズには判断がつかなかった。
代わりに溜め息を吐く。
「どうしてここに?」
「役目と……義理で」
ここは合成獣が収容されていた場所だ。役目は理解できる。しかし、義理?
「いや。対抗心が正しいか」
ますます分からない。
首を傾げるリズの前で、オルフェは牢の扉を開けた。ひとりでに閉まったそれも、魔術が解除されたことで開けられるようになったようだ。彼は身を屈めて牢の中に入り、座り込んだままのリズの前に立つ。
「本当に、躊躇いのない」
リズの手の中にある棒手裏剣を見て、オルフェは頭を振った。
「……ないわけないでしょ」
覚悟は決めたが、恐怖もあったのだ。感情が足枷になって、リズはすべきことを果たせなかった。後悔が滲む。同時に安堵も。相反する感情が胸の中で渦巻いて苦しい。
「人間らしくて安心しました」
馬鹿にしているのか、と顔を上げたリズの目の前で、オルフェは片膝をついてしゃがみ込んだ。顔が近くに来て、リズは面食らう。彼とリズとでは身長差があるから、隣に立っていたとしてもここまで顔が近くなることは滅多にない。何となく気まずく、リズは俯きつつもさりげなく顔をそむけた。
その視線の先で、左手が差し出される。
「立てますか?」
「……どうだろ」
意思に反して魔力を奪い取られたことで、全身が怠かった。
「担ぎましょうか」
「意地でも立ちます」
とはいえ勢いよく、とはいかず、杖を支えにしてのろのろと立ち上がる。脚に思うように力が入らないうえ、もう負荷はないというのに肩の辺りが重く、地上に出るまで自力で歩けるか、自信がなかった。
仕方なく、オルフェの腕を借りた。本当なら肩を借りたいところだが、届かないため、仲の良い恋人同士のように腕を組むしかなかった。
蝋燭の灯りが揺れる暗闇の中を、自分の身体を引きずるようにして歩く。オルフェは本当に引きずっているのかもしれない。自分がいなければ楽だったろうに、と思う。
ふと不安になる。
「……良かったの?」
殺さなくて、という言葉は飲み込んだ。じゃあ、となることが恐ろしく、さすがに口に出す勇気はなかった。
「やめました」
リズは顔を上げる。オルフェはいつもの無表情で、ひたすら前を向いていた。その横顔は、どことなく吹っ切れた様子があるように見えた。何があったのだろうか、と気になる。リズがあれだけ言っても、変わらなかったのに。
「貴女は何も心配しなくていい」
ただ告げられて、リズはむっとした。そんな、蚊帳の外みたいな。
「そういうわけにもいかないでしょ」
当初の目的は果たしたが、だからこそリズにもまだやることがある。まだ、この世界の神様に直接爪を立てていない。薄笑いを浮かべる子どもの頬に三本線を刻みつけてやらないと気が済まない。
それに、ラスティも助けてやらなくては。
やらなければならないことが、次々と頭に浮かぶ。だが、明確な形で脳裏に固着する前に、霞のようにぼやけていった。
〝やるべきこと〟を何度も掴みそこねて、ようやくリズは悟る。
「……でも、今はもう無理かも」
オルフェに支えられてなお、リズの足元は覚束なかった。身体の芯がぶれ、己を支えるにも歯を食いしばる必要があった。
疲労か、体調不良か。どちらにしろ、もう限界だった。
「ちょっと……休ませて」
蝋燭の灯りが地上への階段を照らしたところで、リズは足の力を失くした。オルフェの助けを借りながら石床の上に座り込み、近くの壁へともたれる。その身体がさらに傾けられ、温かな身体に触れて、リズはようやく張り詰めていた気を緩めた。
『貴方も、中途半端はほどほどにしなさい。付け込まれるわよ』
アリシアに会ったあの日。アリシエウスを見下ろす城壁の上。
『特に貴方の場合、従事は自分の意思じゃないんだから』
オルフェはそれに腹を立て、そして腹を立てた自分に驚いた。昔なら、道具と言われようとも意に介さなかったというのに。
そして、その心の動きこそが、自らの真の望みに気付かせた。
「まずは、自分の不始末を片付ける」
誰もいない城壁の上で、決意を自らに浸透させるよう、口にした。その視線の先には、アリシエウスの白い王城があった。あの地下には、過去に闇神が止めきれなかった罪が残されている。
ウィルドの価値観に照らし合わせても、合成獣は放置できない。
だからオルフェは、この地下に来た。この街の〈継承者〉たちを、騒ぎ立てずに可能な限り裁いたあとで。諸悪の根源は既にリズたちが断罪していたため、出番はなかったが。それでもきちんと最後まで片付けをしなければいけないだろう。蝋燭の壁に照らされた石壁の継ぎ目を視線で追いながら、やり残したことをきちんと胸に留めた。
「そうしたら、私は、ウィルドとして」
脳裏に浮かぶのは、この世ならざるほどの大樹と、その枝葉の影にできた街。彼の地の木漏れ陽が何より懐かしく、恋しかった。故郷らしきものもとうに潰えたオルフェにとって、シャナイゼが唯一の帰りたい場所だった。
後の世を、あちらで過ごそうと決める。いつかこの肩の重みが失せようとも。その温もりを抱えて、ずっと――




