27、エロ本
20歳の誕生日は、大学の下宿で二、三の友人と祝った。ビールという極めてマズい飲料を初めて味わった。それから街でビールを飲むようになって、その辺のオッチャンらに話を聞いていて気付いたことがあった。
神Aが、神Bを打つ。Aは「俺は神だ」と思う。Bは「確かに打たれた、その部分は人並に弱い。だが、俺はエロ本を持っている、だから俺は神だ」と思う。
昔はエロというと、一種の精神的な武器だった。馬鹿な、くだらない奴の話だと思う、確かに今となっちゃ本人もそう思うだろう。だけどBが死ななかったのは、紛れもなくエロ本の精神的な支えが有ったためだ。
自分の事を「神だ」と思っていなければ、人は自殺を始める。日常的に神性を確認し続けなければならない。人は神ではないのだから、いつも神性に不安を感じている。基本的人権とは、基本的神性の尊重を言い換えたものである。
打つ打たれるが、人と人の間に生起するなら簡単だが、社会と個人あるいは、人の存在そのもの、なに不自由なく暮らしていて、ふと存在に打たれたら、何も理由なく、犯人もなく、ただ自分が生きている当たり前に打たれたら。「俺は神か? 人か?」問うてはならぬ、ならぬけれど当然の理路である。
そういう時期にエロによる救済、方便だけど、救済と、男としての試練、知恵の継承をエロとひとまとめにして昔は課されていた。ところが、どうだ、エロ画像を、エロ話を、ネット上で「神ならぬ人の身でさえも!!」気軽に触れることが出来るじゃないか。エロは勇気を失った、エロは知恵を失った、エロは魂を失った、エロは死んだ。
男性がエロ本を所持するための、くだらない言い訳だと読者はそう思うかも知れない。だけど、なかなか馬鹿にも出来ないのは、男性を二、三日でも観察すれば、私の言わんとする事に肯いてくださるのではないか。男にとってのエロは、本能より以上に、深く、彼らの精神の成長へ寄与している現実を、容易に看破なさるのではありませんか。
小説家は、神性を失ったデク人形どもへ、仮の神性を貸し与え、本物を取り戻す時間稼ぎを手伝ってやらなければならない。殴られたしょーもない馬鹿のキモオタが自殺しないよう、しゃーなしやで、言い訳を作ってやらなければならない。
少年達の魂を救うために、エロは隠蔽して、なるべくハードルを高くしてはどうだろうか、平均身長を低めに粉飾してはどうか、仮性率を引き上げてはどうか。些細なことだけど魂に作用する。
この文章は下品なシモネタではなく魂の浄化のことを言っている。人間の根源的生命の律動が現代社会によって脅かされていることへの問題提起を言っている。決して、シモネタではないのであるうんち




